第17話 夜陰の奪還作戦
熱気が、夜の冷気を強引に押し退けた。
天幕の入り口に立つヴァルガスを中心に、空気が陽炎のように揺らめいている。彼が纏う全身鎧の表面、幾何学模様の溝に沿って走る光は、先ほどまでの冷静な青色ではない。血管に毒が回るように、どす黒く濁った赤色へと変貌していた。
「……ラ・ット……!! プ・ル・ガ・メンごときが……!!」
ヴァルガスの怒号と共に、周囲の空間温度が跳ね上がる。それは「熱魔法」なんて生易しいものではない。鎧という名の増幅器が、主人の激昂という信号を過剰に拾い上げ、周囲のエネルギーを無差別に吸い込んで熱エネルギーへと変換しているのだ。排熱処理が追いつかず、ラジエーターから煙を吹いている暴走した機械。今のヴァルガスは、まさにそれだった。
対するカイの手にあるのは、ガラクタの山から拾った鉄片と、変質した銀色の針金を巻き付けただけの、無骨な武器一本。
(……来るぞ)
カイは腰を落とし、重心を低く構えた。相手はプロの軍人であり、質量数キログラムの鉄塊を高速で振り回す殺人マシーンだ。まともにやり合えば、コンマ数秒で肉塊に変えられる。
だが、カイの目は死んでいなかった。視界に映る真っ赤な光の奔流。その中に、明確な「構造」が見えているからだ。
(熱いってことは、それだけエネルギーが『漏れてる』ってことだ。断熱材もなしに高温熱源を背負って歩いているようなもんだな)
エネルギー保存の法則。ヴァルガスが怒れば怒るほど、彼の魔力は「熱」と「光」に浪費される。鎧の駆動系に回るべきエネルギーが、派手な演出の方に食われているのだ。
その非効率さを、突く。
「……モ・ルスッ!!」
ヴァルガスが地面を蹴った。速い。数百キロはあるはずの全身鎧が、ロケットのような加速で迫ってくる。振り上げられた長剣が、熱を帯びて赤く輝き、大気を切り裂く唸りを上げた。
カイの動体視力では、剣の軌道を完全に見切ることはできない。だが、「どこを狙ってくるか」は予測できる。奴らの戦い方は傲慢だ。小細工はしない。真っ向から、力任せに叩き潰す。それが「強者」の証明だと思っている。
(――右だ!)
カイは、思考するよりも早く体を左へ投げ出した。
ゴォォォッ!!
一瞬前までカイの頭があった空間を、灼熱の刃が通過する。髪の毛が数本、熱波でチリチリと焦げる音がした。
「…………ッ!」
空振りの勢いを利用して、ヴァルガスが体を回転させる。遠心力の乗った裏拳。金属の手甲が、カイの横っ面を狙う。
(……見えた!)
カイは、その裏拳を避けなかった。いや、避ける必要がなかった。ヴァルガスの右肘。鎧のパーツが分かれる関節部分。そこには、分厚いプレート装甲はなく、動きを確保するための鎖帷子が露出している。そして、その隙間を縫うように、赤く輝く「エネルギーの光路」が走っている。
カイは、右手に握りしめた「導体」を、逆手に構え直した。狙うのは肉体ではない。その奥にある、目に見えない「配線」だ。
「……デ・コン・ストラクションッ!!」
カイは叫びと共に、鉄片の先端を、迫りくるヴァルガスの右肘の隙間へと突き出した。カウンター。ヴァルガスの腕の勢いが、そのまま鉄片を深く突き刺す助けになる。
ガキンッ!
硬質な感触。鎖帷子を突き破り、その奥にある「何か」に触れた手応え。瞬間、カイの右腕を通じて、あの「変質した銀線」が青白く発光した。カイの魂という「絶縁体」が生み出す拒絶の波動が、銀線という超伝導体を通り抜け、ロスなくヴァルガスの鎧へと流し込まれる。
バチヂヂヂヂッ!!
ヴァルガスの右腕から、盛大な火花が散った。物理的なショートではない。「定義の衝突」による事象の破裂音だ。
「な、ん……!?」
ヴァルガスの目が見開かれる。彼の右腕を覆っていた赤い光が、フツリと消失した。鎧の駆動系へのエネルギー供給が、物理的に遮断されたのだ。
次の瞬間、物理法則が牙を剥く。数百キロの質量を持つ鉄の塊を、生身の人間の筋力だけで支えられるはずがない。ましてや、遠心力の乗った裏拳の最中だ。
ゴキッ。
嫌な音がした。制御を失った右腕の鎧の重さに、ヴァルガス自身の肩関節が耐えきれず、悲鳴を上げたのだ。
「ぐ、おォッ!?」
ヴァルガスの体が大きくバランスを崩す。自らの腕の重さに振り回されるように、たたらを踏む。
(……よし。仮説通りだ)
カイは確信した。こいつらは強いんじゃない。「重い」だけだ。その重さを魔法で誤魔化しているに過ぎない。タネが割れれば、ただの不自由な鉄屑だ。
だが、ヴァルガスは腐っても騎士だった。激痛に顔を歪めながらも、倒れずに踏み止まり、生きている左手で剣を構え直す。
「……トゥ……! ……クィド……!? ……メ・ア……アル・マ……!!」
意味のある言葉は断片的だ。だが、その狼狽ぶりだけで十分だった。「貴様、俺の鎧に何をした」、そう叫んでいる。
「過熱してたから、ヒューズを切ってやったんだ」
カイは日本語で吐き捨て、距離を取った。息が切れる。心臓の鼓動が速くなる。右手の鉄片は、今のショートの高熱で赤く焼け、巻き付けた銀線の一部が溶けかけている。やはり、長くは持たない。カイの魂の出力に、この急造の武器が耐えきれないのだ。
(……あと一回。いや、二回が限界か)
カイの視線が、ヴァルガスの足元へ――そして、その後ろにある天幕の入り口へと走る。そこには、泥にまみれて転がっている「青い物体」があった。
カイの通学鞄。あちら側の世界、平和で退屈だった日常の象徴。それを、こんな泥の中に放置させておくわけにはいかない。あれは、俺が俺であるための「証明書」なんだ。
「……レッ・デ」
カイは低く唸った。ヴァルガスが、カイの視線に気づき、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべる。彼は動かない右腕をだらりと下げたまま、左足でその鞄を踏みつけた。
「……ホックか? ……デザ・イ・デ・リ・ウムか? ……プ・ル・ガ・メンめ」
グシャリ。鉄の靴底が、エナメルの生地を容赦なく踏みにじる音がした。中に入っている教科書やノートが悲鳴を上げているのが、カイには聞こえた気がした。
ブチリ、と。カイの中で、冷静さを保っていた糸が切れそうになる。
(……落ち着け。挑発だ。乗るな)
怒りで視野を狭くすれば、死ぬ。相手は手負いだが、まだ剣を持っている。左手一本でも、俺を殺すには十分な殺傷力がある。真正面から突っ込んで鞄を奪い取るのは不可能だ。
なら、どうする。条件を変えるんだ。相手が「絶対に安全だ」と信じ込んでいる足場を、ひっくり返す。
カイは、背後の闇に潜むガレオスへ向けて、背中で合図を送った。老人は見ているはずだ。杖を失い、魔力も枯渇しかけている老人だが、ほんの一瞬、地面を「撫でる」くらいならできるはずだ。
カイは、わざと大きく息を吐き、挑発するように手招きをした。
「……ヴェ・ニ」
ヴァルガスのこめかみに青筋が浮かぶ。スラムのゴミごときに、神聖な騎士である自分がコケにされた。その屈辱が、彼の理性を焼き切る。
「……イグ・ニス……!!」
ヴァルガスが叫んだ。左手の剣に、再び炎を纏わせる。だが、その炎は先ほどよりも不安定で、揺らいでいる。右腕の回路を遮断された影響で、鎧全体のエネルギー循環にノイズが走っているのだ。
「灰になれッ!!」
ヴァルガスが突っ込んでくる。直線的な動き。怒りに任せた大振り。だが、その速度はまだ速い。
カイは動かない。じっと、ヴァルガスの「足元」を見つめる。一歩、二歩。重厚な鉄のブーツが、スラムの乾いた土を踏みしめる。
あと三歩。あと二歩。
(……今だ!)
カイが指を鳴らした。その乾いた音に呼応するように、闇の中から老人の微かな詠唱が届く。
「……テ・ラ……ム・タ……」
ヴァルガスが踏み込もうとした、その一点。カイの鞄のすぐ手前の地面。そこだけが、一瞬、鏡のように滑らかに変質した。
土の粒子が極限まで細かくなり、水分と油分が表面に浮き出る。摩擦係数、ほぼゼロ。
「……ッ!?」
ヴァルガスの踏み込みが、空を切った。いや、地面を捉えたはずの足が、氷の上に乗ったかのように後方へとすっぽ抜けたのだ。前のめりになっていた数百キロの質量が、支えを失って宙を舞う。
ガシャアアアアン!!
無様な音が響いた。ヴァルガスは受け身を取ることもできず、顔面から地面に激突した。右腕が動かないため、手をつくこともできない。完全な自爆だ。
「が、……ふ……ッ!?」
ヴァルガスが呻き声を上げ、泥の中でもがく。その隙だ。
カイは弾かれたように飛び出した。ヴァルガスへの追撃ではない。目指すのは、泥の中に転がっている「青い鞄」だ。
カイはスライディングするように体を滑り込ませ、鞄の取っ手を掴んだ。ずしりとした重み。教科書とノート、そして未来への不安が詰まった、愛おしい重さ。
「……確保」
カイは鞄を抱きかかえ、そのままの勢いで転がり、路地裏の入り口へと走った。そこには、ガレオスとエルマが待機している。このまま逃げれば、追っ手を撒ける。地下水路へ逃げ込めば、重装備の騎士たちは入ってこれない。
「……フ・ガ! 急げ!」
カイが叫び、三人は路地裏の闇へと駆け込もうとした。
だが。
「……逃がす、と……思ったか……!」
背後から、地を這うような、怨嗟に満ちた声が響いた。振り返ると、泥だらけになったヴァルガスが、よろめきながら起き上がっていた。その顔は怒りで歪み、もはや騎士の品格など微塵もない。
彼はカイを追おうとはしなかった。代わりに、動く左手で剣を振り上げ、広場の隅にある「檻」を指した。
「……イグ・ニス……! ……クリ・ブ・ルム……!!」
ヴァルガスの剣先から、狂ったような火球が放たれた。狙いはカイではない。捕らえられたスラムの住人たちが押し込められている、あの檻だ。
ボォォォォォッ!!
火球が檻を直撃し、乾燥した木枠と藁が一気に燃え上がった。檻の中で、悲鳴が上がる。逃げ場のない狭い空間で、炎と煙が住人たちを襲う。
「……あ、……」
カイの足が止まった。ガレオスも、エルマも、凍りついたように立ち尽くす。
「……ラ・ット……!!」
ヴァルガスが、燃え盛る檻の前で、狂ったように笑った。彼はカイを指差し、次に燃える檻を指差し、首を切る仕草をした。
「……フ・ガか? ……ネ・モ、フ・ガ……!!」
そして、指を一本立て、檻の中の住人たちを順番に指差していく。
「……ウ・ヌス……ウ・ヌス……クレ・マ……!! ……マ・ネ……!!」
言葉は断片的だ。だが、そのジェスチャーと殺意が、残酷な意味を補完していた。『お前が戻ってくるまで、こいつらを一人ずつ焼き殺して待っている』。卑劣。外道。こいつは、自分のプライドを守るためだけに、無関係な人々を薪として燃やそうとしている。
「……カイ……フ・ガ……! ……イン・ポ・ッシ・ビ・レ……!」
ガレオスが、カイの腕を引いた。老人の目には涙が溜まっている。彼にとっても、あの檻の中にいるのは顔見知りの隣人たちだ。だが、それでもカイの命を優先しようとしている。
カイは、腕の中の鞄を強く握りしめた。逃げれば、助かる。自分と、ガレオスと、エルマだけは。あとは知らない。この世界の人間がどうなろうと、俺には関係ない。そうだろ?
カイは震える手で、鞄のファスナーを開けた。中から出てきたのは、無惨な姿になった「日常」の残骸だった。半分焦げた教科書。そして、画面に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、二度と起動することのないスマートフォン。
「……あ、……」
カイの喉から、乾いた音が漏れた。壊れている。あちら側の世界と繋がるための、最後の窓。それが、物理的な破壊によって、二度と戻らない過去の遺物になってしまった。
(……戻れないんだ)
これまで心のどこかで、思っていた。これは夢で、いつか目が覚めれば、あの教室に戻っているんじゃないか。この鞄さえあれば、俺は「久澄 解」という高校生に戻れるんじゃないか。
だが、現実は冷徹だ。スマホは壊れた。教科書は燃えた。そして、俺の手は、騎士を傷つけ、世界に干渉した感触を覚えている。
もう、ただの学生には戻れない。俺は、この世界の「当事者」になってしまったのだ。
(……逃げれば、助かる。でも)
カイは震える息を吐き出し、覚悟を決めた。
「……ガレオス」
カイは、燃え盛る檻と、その前で嘲笑うヴァルガスを見つめたまま、静かに言った。片言の単語を脳内で必死に組み立て、老人に告げる。
「……エルマ……テ・ネ……アク・ア……ヴィ・ア……行け」
「……カ、カイ……? 何を……」
「……エ・ゴ……マ・ネ」
カイは、壊れたスマホをポケットにねじ込み、泥だらけの鞄をガレオスに押し付けた。そして、踵を返した。逃げるための路地裏へ背を向け、炎と殺意が渦巻く広場の方角へ。
「……ストゥル・トゥス! ……モ・ルスぞ! ……レ・ギ・オ……ヴェ・ニ!!」
ガレオスの悲痛な叫び。分かっている。軍勢が来る。死ぬかもしれない。論理的に考えれば、これは悪手だ。自殺行為だ。だが。
(俺はもう、逃げない)
この世界は間違っている。祈れば怪物が生まれ、弱者は燃料にされ、理屈の通じない暴力がまかり通る。そんなクソみたいなシステムを、これ以上、見過ごすことはできない。
俺の日常は壊された。なら、せめて「新しい日常」くらいは、自分の手で守り抜く。
カイは、右手に握りしめた「鉄の導体」を構え直した。その瞳に宿っていた迷いは、完全に消え失せていた。
「待たせたな、ヴァルガス」
カイは、炎の照り返しの中で、亡霊のようにゆらりと歩み出た。日本語で呟く。意味は通じない。だが、その音に含まれた冷ややかな敵意だけは、確かに相手の鼓膜を震わせた。
(その歪んだ理屈、俺が全部、解体してやる)




