第13話 嵐の前の食卓
あばら屋の中に漂っていたのは、この世界に来て初めて嗅ぐ正常な匂いだった。それは紫色の毒気を含まない、焼けた小麦の香ばしさと、澄んだ水の匂い。
カイは、ガレオスが拾ってきた古びた木皿の上に、湯気を立てるパンと、なみなみと注がれた水を置いた。
「……フィ・ニ」
カイが短く告げると、向かいに座っていたエルマが、ごくりと喉を鳴らした。ガレオスもまた、信じられないものを見る目で、食卓に並んだ加工品を見つめている。
ここにあるのは、スラムの配給で手に入れた、石のように硬い黒パンの塊と、泥水だけだったはずだ。だが今の解には、それらの物質の組成が、数式の羅列のように透けて見えている。
この三日間、カイはガレオスから生活魔法を見せてもらい、それを物理的に翻訳する作業を続けてきた。パンが硬いのは、水分が抜けきり、デンプンの分子構造が密に結晶化しているからだ。祈りは必要ない。必要なのは加水分解と熱による膨張のイメージだけ。
カイは、泥水から不純物をろ過して純水を作り、それをパンに含ませ、分子振動を与えた。結果、ガレオスが十分かけても噛み切れなかったパンは、わずか数十秒で、湯気を上げるふかふかの食料へと「修復」された。
(魔法じゃない。これはただの、化学実験だ)
カイは、右腕の激痛をこらえながら、左手でちぎったパンを口に運んだ。柔らかい。そして、甘い。毒のようなエネルギーの味がしない。炭水化物が唾液のアミラーゼと反応して糖に変わる、懐かしい物質の味がした。
「……エ・デ。……ノン・ヴェ・ネ・ヌム」
カイが覚えたての単語を繋げて促すと、エルマがおずおずとパンに手を伸ばした。一口かじり、彼女の目が大きく見開かれる。
「……!!」
言葉はなかった。彼女は夢中でパンを頬張り、次にカイがろ過した水を喉に流し込んだ。喉を焼かない水。歯を折らないパン。それが、この過酷なスラムでどれほどの「奇跡」であるか、カイには想像することしかできない。けれど、彼女の瞳から溢れ出した涙が、その価値を雄弁に物語っていた。
「……グラ・ティ・ア……。グラ・ティ・ア、カイ……!」
エルマが、パン屑だらけの口で、泣きながら笑った。その笑顔と共に呼ばれた「カイ」という響き。カイの胸の奥、硬く閉ざしていた絶縁体の殻に、ピリリと小さな亀裂が入るような感覚があった。
(……ああ。そうか)
あちら側の世界、凪いだ日本の教室で、自分はずっと「何か」になりたかった。進路希望調査票に書くべき正解を探して、空っぽのまま生きてきた。だが、答えはこんなにも単純なことにあったのだ。
自分の持っている知識で、誰かの「痛い」を取り除くこと。不合理な世界のエラーを直して、当たり前の「美味しい」を返すこと。
「……ふ、……はは」
カイの口から、乾いた音が漏れた。自分でも驚くほど不器用な、しかし嘘のない笑い声だった。この世界に来て、絶望と恐怖と激痛の中で、初めて筋肉が「笑う」という形を作った。
「……ベ・ネ……か。……エルマ」
カイは、パンをもう一口かじった。右腕はまだ熱を持って疼いている。魂は摩耗してボロボロだ。けれど、この薄暗いあばら屋の食卓には、あちら側の世界のどの高級レストランよりも確かな「体温」があった。
ガレオスもまた、静かにパンを口にし、深く息を吐いた。彼はカイを見つめ、穏やかな声で言った。
「……カイ。ノン・カン・トゥス……。セド……カ・リ・ドゥス……」
カントゥス。セド。カリドゥス。老人の言葉は断片的だが、その響きにある「肯定」のニュアンスだけは、カイの胸に深く染み込んだ。
「俺は、歌えない。ただ、理屈を並べているだけだ」
カイは、たどたどしい単語と身振りで答えた。ガレオスは首を振った。そして、姿勢を正し、改めてカイに向き直った。それは、命の恩人に対する礼儀であり、三日前に名前を教え合い、家族同然となった者への信頼の証だった。
「……カイ。メ・モ・リ・ア? ……ベ・ル……」
ガレオスの声が低くなる。カイもまた、パンを持つ手を止めた。三日前の問いかけ。老人が指を三本立てて示した期限。
「ああ。ト・レス……」
カイが窓の外を見ると、紫色の空が、不穏な色に澱み始めていた。嵐の前の静けさ。だが、この部屋の中にあるのは、怯えではない。
「……カ・テ・ド・ラ……。……ハー・ベス・タ……」
カテドラ。ハーベスタ。老人の言葉は、地球の言葉に似ている。カテドラル。ハーベスト。
(教会が、収穫に来る……)
ガレオスがポツリと語り始めた。
「……ト・リ・ブ・トゥム……ノン……。……エル・マ……エ・ゴ……」
トリブトゥム。ノン。税がない。払えない。だから――。
「……サ・クリ・フィ・ス……」
サクリフィス。生贄。カイは、その単語を脳内で反復した。税を払えない者は、資源として回収される。
(……ふざけるな)
カイの中で、先ほど食べたパンの温かさが、冷たい怒りの炎へと変わっていく。ようやく見つけた、ささやかな食卓。泥水の中からろ過して、やっと手に入れた「当たり前の日常」。それを、あいつらは土足で踏み荒らしに来るのか。
その時だった。
――ゴォォォォォォォォォォン……。
腹の底に響くような、重く、濁った重低音。予期していたはずの鐘の音。だが、平和な時を告げるような澄んだ音色ではない。空間そのものを震わせ、人々の魂に「ひれ伏せ」と強制するような、威圧的な周波数の塊。
「……ッ、!」
カイは反射的に耳を塞いだ。脳内の絶縁体が、外部からの強制介入を検知し、激しい火花を散らす。頭痛。吐き気。先ほどまでの穏やかな空気は一瞬で消し飛び、代わりに肌を刺すような緊張感が室内に満ちた。
「……あ、……」
エルマの顔から、血の気が引いていく。彼女は食べかけのパンを落とし、ガレオスの背中にしがみついた。震えている。それは怪物を見たときの恐怖とは違う。もっと根源的な、逃れられない運命に対する絶望。
カイは、窓の隙間から外を睨んだ。遠く、スラムの入り口の方角から、整然とした足音が近づいてくる。ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。軍靴の音。そして、金属鎧が擦れ合う、冷たく硬質な音。
「……ア・プ・ロ・チ……。……ジ・エンド……」
ガレオスが、呪うように、しかし諦めを含んだ声で呟いた。アプローチ。ジ・エンド。言葉が分かるだけに、その絶望の深さが痛いほど伝わってくる。
「……カイ。ラ・テ」
ガレオスが、カイに背を向けて言った。その声は震えていたが、拒絶の意志がこもっていた。彼は手振りで、あばら屋の奥、瓦礫の陰を示した。
「ペ・リ・ク・ルム……。フ・ガ……」
「……じいさん、あんたは」
「……エ・ゴ……クレ・リ・クス……。ディ・ア・ロ・グ……」
クレリクス。その響きに、カイは反応した。ゲームでよく聞くジョブ名。クレリック。つまり、聖職者や神官のことか。
そして、ディアログ。英語のダイアログ。対話。交渉。
(……じいさん、あんた元神官なのか。だから話し合いで解決しようって?)
だが、嘘だ。カイには分かっていた。ガレオスの魂の光は、もう風前の灯火だ。数日前の怪物との戦いで、彼は力を使い果たしている。あんな体で騎士たちの前に出れば、交渉など成立しない。ただの燃えカスとして処理されるだけだ。
――ゴォォォォォォン……。
鐘の音が、近づいてくる。今度ははっきりと聞こえた。その音には、明確な「術式」が乗っている。『従え』『差し出せ』『思考を止めろ』。そんな命令が、大気を介してスラム全体を制圧しようとしている。
カイは、右腕をさすった。包帯の下の皮膚は爛れ、感覚はない。魂の容量も、前回の戦闘で底をつきかけている。戦える状態じゃない。逃げるのが論理的な正解だ。
だが。
カイは、足元のエルマを見た。彼女は恐怖で動けなくなっている。ガレオスを見た。老人は、死を覚悟して扉に向かおうとしている。
(逃げる? どこへ?)
この世界のどこに逃げ場がある? どこに行っても、あの不快な歌が響いている。どこに行っても、理不尽な定義が俺たちを縛ろうとする。
なら、やることは一つだ。
「……ガレオス」
カイは、老人の肩を掴んで引き止めた。老人が驚いて振り返る。カイは、枕元にあった木炭を拾い上げ、握りしめた。バキリ、と炭が砕け、黒い粉がカイの手を汚す。
「……ノン。……ラ・テ、フィ・ニ……」
カイは、扉の方角――教会の塔がそびえ立つ、街の中心を睨みつけた。
「……ディ・ア・ロ・グ、ノン」
話なんて通じない。あいつらの言葉は、最初から破綻してるんだ。
不純物だらけの理屈。非効率な祈り。そんなもので、この食卓を奪わせてたまるか。
「……カイ……?」
「……パ・ラ・トゥス、いいか」
カイは、砕けた木炭を床に投げ捨て、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや怯えも、迷いもなかった。あるのは、歪んだ世界を前にした「修復者」としての、静かで冷徹な殺意だけ。
「あいつらの『ふざけたデタラメ』を、俺が全部、へし折ってやる」
鐘の音が、すぐそこまで迫っていた。嵐が来る。だが、今度はただ耐えるだけじゃない。
カイは、炭で黒く汚れた手を、強く握りしめた。




