第12話 異界の言語、科学の翻訳
あばら屋の屋根を直す老人の背中を、解はあてがわれた粗末な寝床の上からじっと見つめていた。
右腕に巻かれた包帯は、まだ痛々しいままだ。少し動かすだけで、炭化した神経が「そこに腕がある」という事実を拒絶するかのような、鋭い幻肢痛が走る。だが、数日間の昏睡から目覚めた解の頭脳は、肉体の痛みとは裏腹に、かつてないほど冷徹に冴え渡っていた。
(観察しろ。今は、それしかできない)
老人は、崩れた石壁の隙間を埋めるため、泥と瓦礫を混ぜたものを手でこねている。そして、ブツブツと一定のリズムで「音」を紡いでいる。
「――、テ・ラ……。コン・ソ・ル……。グラ・ヴィ……」
その旋律は、数日前に見た湯沸かしの時と同じく、無駄な装飾音と光の粒子に満ちていた。老人が一節歌うたびに、周囲の空間から紫色のエネルギーが集まり、泥の中で複雑な幾何学模様を描いては消える。その過程で発生する熱と光のロスは凄まじい。
だが、解の耳は、その無駄の向こう側にある「ある法則」を捉え始めていた。
(聞き覚えがある。今の『テ・ラ』は、テラ。『グラ・ヴィ』はグラビティか? なんだ、デタラメな呪文じゃない。これ、英語やラテン語の語源そのままだ)
解は、老人の言葉の音節を、脳内で英単語帳と照らし合わせていく。この世界の言語は、恐ろしく古い地球の言葉が、長い時間をかけて変質したものなのだ。文法は複雑だが、単語の響きというヒントさえあれば、意味は推測できる。
老人が最後に短く「コン・ソ・ル」と唱えた瞬間。泥の水分が蒸発し、光と共に石のように硬化した。
(やっぱりだ。魔法ってのは、奇跡じゃない。物理現象への『音声入力』だ)
この世界の住人は、長い長い詩を詠むことで、世界というシステムに「お願い」をしている。『親愛なる神よ、どうかこの哀れな子羊のために、大地の恵みをもって、この泥を固く結合させてください』そんな長い文章を口にして、ようやく「凝固」という単純な命令を実行させているのだ。
(なら、俺ならどうする?)
解は、動かない右手の代わりに、自由な左手を目の前の空間にかざした。魔法は歌えない。魂が硬すぎて、世界と共鳴できないからだ。だが、共鳴させずとも、現象を「引き算」することならできる。
泥が固まる現象の本質は何か。水分が抜け、粒子が密着することだ。祈りはいらない。エネルギーを注ぎ込む必要もない。ただ、そこにある熱と水分を、奪えばいい。
(熱力学第二法則。エントロピーの増大……いや、ここでは分子運動の停止だ。そこにある熱を、捨てろ)
解は左手に意識を集中させた。自分と世界の間にある絶縁体の殻を、ほんの一瞬だけ薄く開き、そこからストローで吸い上げるように、泥の持つ揺らぎを奪い取る。
チリッ、と脳の芯が焼ける音がした。だが、次の瞬間。解の目の前に落ちていた小さな泥の塊が、光も音もなく、カチリと音を立てて乾燥し、石のように硬化した。
「……は、ぁ……」
解は荒い息を吐き、額の汗を拭った。たかだか親指大の泥を固めるだけで、全力疾走した後のような疲労感だ。今の俺の配線じゃ、これが限界か。だが、成功した。老人が三分かけて祈り、大量のエネルギーを浪費して行った作業を、解は「現象の定義」だけで、わずか一秒で、しかもエネルギーロスなしで完遂したのだ。
「……、……?」
作業を終えた老人が、解の様子がおかしいことに気づき、心配そうに覗き込んできた。解は、強張った顔を緩め、老人に小さく首を振って「大丈夫だ」と示した。そして、自分が作った小さな石を指差し、老人の作業していた壁を指差した。
「……おな、じ。……コン・ソ・ル」
解の口から出たのは、たどたどしい片言だった。だが、老人は目を見開いた。この異邦の少年が、自分たちの神聖な言葉の一部を、意味を理解して使ったことに驚愕したのだ。
「……サ・ピ・エ……? ……コン・プレ・ヘン……?」
老人の言葉はまだ完全には聞き取れない。だが、「サピエ」という響きが「サピエンス」に、「コンプレヘン」が「コンプリヘンション」に近いことから、文脈を補完する。解は頷いた。そして、枕元にあった、すすけた木炭の欠片を手に取り、床の石板に図を描き始めた。
円。三角。矢印。そして、炎や水の絵。
老人は興味深そうに身を乗り出した。解は、炎の絵を指差し、口を開いた。
「……イグ・ニス。これ、と、これ」
解は言葉を繋げられない。代わりに木炭で描いた「木」と「風」の絵を指差し、交互に示すことで構成要素を尋ねる。老人は髭をさすり、深く頷いて、杖でその絵を指し示した。
「マ・テル……そして、スピ・リ・トゥス……」
(薪と、息吹……スピリタス。つまり、燃料と酸素だ。概念は合ってる)
解はさらに、その横に化学反応式のような矢印を書いた。物質 + 空気 → 熱。もちろん、老人には元素記号など通じない。だが、解が「木」と「風」が結びついて「熱」が出る、という図を書くと、老人はハッとした顔をして、何やらぶつぶつと呟き始めた。
「……ユニ・オ……? いや、これは……マ・リ・タ、か……?」
老人が、食い入るように図を見つめて呟いた。ユニオ。そして、マリタ。
(なるほど。物質同士がくっついて熱が出る現象を、この世界の人間は『結婚』と解釈するのか)
炎は精霊のダンスではない。物質と空気が結ばれる、厳粛な儀式。老人の解釈は詩的だったが、あながち間違っていない。化学反応とは、分子レベルのパートナー探しなのだから。
解は、自分の知識と、この世界の魔法理論との間に翻訳テーブルを作り始めた。
・酸素 = スピ・リ・トゥス
・結合 = ユニ・オ
・分離 = ディ・ヴィ・サ
・熱 = カ・ル
(……面白い。この世界の魔法は、すべて「感情」や「物語」に例えられている。だから非効率なんだ。化学反応をドラマ仕立てにしているから、余計な演出が必要になる)
解の脳が、パズルのピースを次々とはめていく。この数時間で、解はこの世界の言語構造の基礎を、驚異的な速度で吸収していた。それは語学の才能ではない。「現象には必ず原因がある」という、科学的思考による推論の成果だった。
夕刻。食事の時間になった。あの少女が、今日もスラムの配給で得た、わずかな水と固形食料を持ってきた。水は相変わらず濁っており、微かに紫色の光を帯びている。
少女は申し訳なさそうに、解にそれを差し出した。解がこれを飲むと苦しむことを知っているからだ。だが、他に何もない。
解は、少女の手から器を受け取った。指先が微かに震える。だが、以前のような恐怖はない。
(定義する。対象、液体中の混合物。……分離)
解は左手を器にかざした。脳内でイメージするのは、ろ過実験のフィルター。あるいは遠心分離機。水分子と、それ以外の比重の違いを利用して、物理的に弾き出す。
「……プ・ル・ガ……いや、セ・パ・ラ」
解が短く呟くと、器の中でパチリと音がした。紫色の光が、水から剥がれ落ちるように霧散する。残ったのは、泥臭さはあるものの、毒気のないただの水だ。
解はそれを一口飲んだ。喉を潤す、冷たい感触。痛みはない。
「……、……!」
少女が息を飲んだ。解は、半分ほど飲んだ器を、少女に差し出した。
「……飲め。……ア・ク・ア、きれい」
少女は戸惑い、老人の方を見た。老人が静かに頷く。少女は恐る恐る、解が差し出した器に口をつけた。そして、目を丸くした。
「……!!」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれた。このスラムで生まれてから、彼女は一度も飲んだことがなかったのだ。喉を焼かない水を。肺を刺さない、優しい液体を。
「……ダル・チ……。……ダル・チ、よ……」
少女が、解の知らない言葉で、しかし万感の思いを込めて呟いた。その言葉の正確な定義は分からなかったが、彼女の表情だけで十分だった。
解は、あばら屋の壁にもたれかかり、小さく息を吐いた。右腕の痛みは消えない。外からは、相変わらず不快な教会の鐘の音が響いている。自分は依然として、この世界にとっての異物だ。
だが、今、この狭い部屋の中には、確かな「秩序」が生まれていた。言葉が通じる。理屈が通じる。そして、自分の力が、ただ壊すだけでなく、誰かの喉を潤すために使えたという事実。
「……名前」
解は唐突に呟いた。少女と老人が顔を上げる。解は自分の胸を指差した。
「久澄、解。……カイ」
そして、少女を指差す。少女は一瞬驚き、それから花が咲くように破顔した。
「……エルマ! 私は、エルマ!」
エルマ。それが彼女の名前。続いて、老人が深く頭を下げ、重々しく名乗った。
「……ガレオス。……石の守り手、ガレオスだ」
カイ、エルマ、ガレオス。音の響きが、それぞれの存在に「定義」を与えていく。それは怪物だらけの世界で、互いを「人間」として認識し合うための、最初の契約だった。
(進路希望調査票か。『何かになる』必要なんて、なかったんだ)
カイは、涙を拭いながら水を飲み干すエルマと、それを穏やかに見守るガレオスを見つめた。
あちら側の世界では、自分の役割が見つからずに空っぽだった。だが、ここでは違う。世界中がエラーだらけで、誰もが「痛い」と悲鳴を上げている。
なら、俺のやるべきことは一つだ。間違った世界の言葉を、正しい理屈に書き換えて、致命的な歪みを取り除く。
(翻訳して、記述して、修正する。俺は、ただの『修復者』でいい)
それが、この場所で俺が生きるための、唯一の仕事だ。
カイは、枕元の木炭を強く握り直した。そして、窓の外――教会の塔がある方角を指差した。
木炭で床に「鐘」の絵を描き、その横に「矢印」と「?」マークを描いて老人に見せた。
「……べ・ル。……クァン・ド……?」
習得したばかりの疑問詞。文法などない。だが、その瞳にある「敵意」だけで、老人には痛いほど意味が伝わった。老人は強張った顔で、ゆっくりと三本の指を立てた。
三日後。それが、次の徴税の期限。戦うための予習は、まだ始まったばかりだ。
第1章:漂流の産声 「完結」




