第117話 果てなき暗黒の螺旋
背後で、数百年ものあいだ閉じられていた白銀の扉が、地鳴りのような重低音と共にゆっくりと閉ざされていく。
ギギギ……ズォンッ。
完全な密閉。その瞬間、地上からわずかに届いていた数万人の讃美歌も、熱狂的な祈りのざわめきも、すべてが分厚い石の壁によって完全に遮断された。
残されたのは、絶対的な暗闇と、自分の心臓の鼓動が不気味なほど大きく反響する静寂だけだった。
「……ソフィア、明かりを」
カイが暗闇の中で声をかける。
「ええ、分かってるわ」
ソフィアの衣擦れの音がし、直後、カチリという小さな音と共に、淡い緑色の光が周囲を照らし出した。彼女が制服のポケットから取り出したのは、ガラス管に入った化学発光式の携帯灯だった。二つの液体が混ざり合うことで発光する、あちら側の世界では祭りの夜などでよく見かけるおもちゃのような仕組みだが、エーテルの乱気流が予想されるこの場所では、教団の『熾熱の譜』のような聖譜の明かりよりもずっと信頼できる。
緑色の頼りない光が照らし出したのは、螺旋状に下へと続く、果てしない石の階段だった。
「行くぞ」
ユリウスが、白銀の杖を軽く石畳に突き、先頭を切って階段を下り始めた。カイとソフィアも、足元に気をつけながらそれに続く。
コツン、コツン、という硬質な足音だけが、螺旋の空間に反響しては闇の底へと吸い込まれていく。
最初は、ただの古くカビ臭い地下道だと思っていた。だが、何百段と階段を下っていくにつれて、カイは肌にまとわりつくような明確な「重さ」を感じ始めていた。
(……空気が、粘り気を帯びてきている)
気圧の変化ではない。湿度が高いわけでもない。水飴の中に全身を沈められているような、気味が悪いほどの密度の高さだ。
カイは、革手袋で偽装された右手の義手を軽く握り込んだ。鋼鉄と聖銀で構成されたその腕は、大気中のエーテル濃度に反応してかすかな駆動音を立てるはずだが、今は奇妙なほど沈黙を保っている。
エーテルそのものが無いわけではない。むしろ、異常なまでに充満している。ただ、地上の白亜の都市を流れていたような、青白く清浄なエネルギーとは根本的に「質」が違っていた。
鼻をつくのは、古い紙の匂いと、何かが腐敗したような甘ったるい悪臭。そして、言語化できない「重苦しい感情」の残滓。
カイの脳裏に、かつてルタムの街で嗅いだ『澱』の匂いがフラッシュバックする。適性のない祈りを強制され、血を吐きながら炎を生み出していた若者たち。彼らが命を削って排出した、祈りの燃えカス。
あの匂いに似ている。だが、ここはそれよりも遥かに濃縮され、何百年分も沈殿し、黒く固まっているようなおぞましさがあった。
「……っ」
前を歩くユリウスの足取りが、目に見えて鈍り始めていた。
彼の背中は、緑色の光に照らされて小刻みに震えているように見える。彼が握りしめる白銀の杖は、主の動揺を反映してか、微かにカタカタと鳴っていた。
「……どうした、首席様。足元が暗くて見えないか?」
カイが、あえて普段通りの、少し挑発的な口調で背中越しに声をかけた。沈黙の圧力に呑まれるのを防ぐための、カイなりの気遣いだった。
ユリウスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。その顔色は、地下の冷気によるものだけとは思えないほど蒼白だった。
「……違う」
ユリウスは、乾いた唇を震わせて絞り出した。
「空気が……あまりにも、重い。貴様たちには、感じないのか。この、肌を刺すような『不浄』の気配が」
「不浄、ね」
カイは、周囲の冷たい石壁を見回した。
「俺にとっては、地上の連中が熱狂して叫んでた、あの息の詰まるような祈りの波よりは、よっぽど静かでマシな空気に思えるがな」
「……狂っている。お前の感覚は」
ユリウスは、忌々しげに顔をしかめた。だが、その声にいつものような絶対的な自信や威厳はなかった。
彼が学術院で教え込まれてきた教義によれば、この地下深くの深淵区画は、『聖譜監獄』の中でも最も神聖なる場所、『至聖なる深淵』であるはずだった。選ばれし聖選生だけが立ち入りを許され、神の側で永遠の奉仕を行う、清浄で光に満ちた至高の楽園。
しかし、今彼が肌で感じているものはどうだ。
神聖さなど微塵もない。そこにあるのは、人間のドロドロとした欲望、絶望、そして底なしの悲嘆が凝縮されたような、吐き気を催すほどの圧迫感だった。まるで、何万という死者の怨念が、壁の染みとなって自分を見つめているような悪寒。
「……これが、真理の眠る場所だというのか」
ユリウスは、自嘲するように呟いた。
「私は、このような悍ましい冷気の中へ……自ら進んで下ろうとしていたのか」
「怖いなら、今すぐ引き返してもいいんだぜ」
カイは、冷たく言い放った。
「あの分厚い扉が内側から開くかどうかは知らないがな。……ここで目と耳を塞いで、一生、神様の奇跡ってやつを信じたまま死んでいくのも、一つの幸せな生き方かもしれない」
「……愚弄するな」
ユリウスは、鋭い視線でカイを射抜いた。その瞳の奥には、恐怖を必死に押さえ込もうとする、エリートとしての強烈な矜持が燃えていた。
「私は、自らの目で確かめると言ったのだ。……私が積み上げてきた信仰が、本当にこの泥のような闇の上に成り立っている虚飾に過ぎないのかを。この目で見るまでは、決して足は止めん」
ユリウスは再び前を向き、螺旋階段を力強く下り始めた。
その背中を見送りながら、カイは隣を歩くソフィアと小さく視線を交わした。ソフィアは無言で頷き、手にした化学発光のライトを少し高く掲げた。
「……カイ。彼が動揺するのも無理はないわ」
ソフィアが、カイにしか聞こえないほどの小声で囁いた。
「私の眼にも、この空間の異常さがはっきりと見えているもの。……ここは、ただの地下室じゃない」
ソフィアは、片目に装着した『観測鏡』のレンズを細かく調整しながら、周囲の石壁を睨みつけていた。
「大気中のエーテルが、完全に死んでいるのよ」
「死んでいる?」
「ええ。地上では、エーテルは常に流動して光を放っていたわ。でも、ここではエネルギーの流れが完全に停滞し、冷たく固まっている。……そして、その停滞したエネルギーの底に、信じられないくらい莫大な『澱』が沈殿しているの」
ソフィアの説明は、カイの肌で感じている不快感を正確に言語化していた。
コップの水に泥を入れれば、やがて泥は底に沈む。この大陸全体を一つの巨大なコップだとするなら、地上の白亜の都市で人々が消費し、排出した非効率な祈りの燃えカス(泥)は、すべて重力に従ってこの都市の最下層へと沈殿してくる。
つまり、この『聖譜監獄』の地下深淵とは、神聖な場所などではなく、大陸中の「汚れ」が最終的に行き着く、巨大な掃き溜めなのだ。
「……上層の連中は、きれいな上澄みだけを啜って、ゴミは全部この地下に押し込めて蓋をしているってわけだ」
カイは、吐き捨てるように言った。
「本当に、よくできた仕組みだよ」
三人は、無言のままさらに深く、深く階段を下っていった。
時間の感覚が薄れていく。一時間下りたのか、それとも数分しか経っていないのか。永遠に続くかと思われた暗黒の螺旋が、ついに終わりを告げようとしていた。
「……階段が、途切れている」
先頭を歩いていたユリウスが、立ち止まって声を上げた。
カイとソフィアが横に並ぶと、緑色の光の先に、平坦な石畳が広がっているのが見えた。
最後の一段を下り、広大な空間へと足を踏み入れる。
コツン。
靴底が硬い石畳を叩く音が、幾重にも反響して遠くまで広がっていく。
その反響音の長さが、この空間が途方もなく巨大であることを物語っていた。天井の高さも、壁の果ても、頼りない緑色の光では全く見通すことができない。
「……底に、着いたようだな」
カイは、周囲を油断なく見回しながら呟いた。
空気の重さは、ここで限界点に達していた。息を吸い込むだけで、肺の粘膜が冷たい針で撫でられるような痛みを覚える。
ユリウスは、呆然としたままその場に立ち尽くしていた。
彼が夢想していた、神の光に満ちた荘厳な祭壇。あるいは、天使たちの合唱が響き渡る神聖な神殿。そんなものは、どこにも存在しなかった。
あるのは、ただ果てしなく広がる、無機質で冷え切った暗黒の空間だけ。
「……何もない。ここは、ただの……空洞ではないか」
ユリウスが、震える声で呟く。
「いや、何かあるわ」
ソフィアが、観測鏡のレンズを素早く回転させ、闇の奥の一点を指差した。
「……エーテルの流れは死んでいるはずなのに、あの方角からだけ、かすかな『熱』の脈動を感じるわ。……とても規則的な、機械みたいな波長よ」
カイは、ソフィアが指差した方角へと目を凝らした。
暗闇の奥深く。そこから、かすかな振動が、足元の石畳を通じて伝わってくるのが分かった。
ズン……。ズン……。
それは、巨大な獣の心音のようでもあり、工場で稼働する大型機械のピストンのようでもあった。
「……行こうぜ。先を頼むぞ、首席様」
カイは、立ち尽くすユリウスの肩を軽く叩いた。
「あんたの信じていた神様が、あそこでどんな顔をして待ってるか、見に行こうぜ」
ユリウスは、カイの手を振り払うことはしなかった。彼は無言のまま、白銀の杖を握りしめ、重い足取りで振動のする方角へと歩みを進めた。
カイは、拳を固く握り込んだ。
この巨大な暗闇の奥に、大陸の理を縛り付けているすべてのルールの大元――『原譜』がある。人々の祈りを都合よく吸い上げ、セリアたちのような無邪気な善意を使い潰し、人間をただの部品として消費する、狂った教義の裏側が。
(……待ってろよ。このふざけた箱庭の設計図、全部引きずり出してやる)
三人の反逆者たちは、緑色の淡い光だけを頼りに、冷たい石の床を踏みしめ、暗黒の深淵のさらに奥へと、静かに姿を消していった。




