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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
盲信の学舎

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第116話 聖譜監獄の扉

 澄み渡る青空の下、白亜の石材で造られたルキウム聖神学術院のキャンパスは、どこか浮き足立ったような華やかな空気に包まれていた。


 街の至る所に張り巡らされたエーテルの供給ラインは、今日という佳き日を祝福するかのように、いつもより眩い青白い光を放っている。手入れの行き届いた芝生の中庭には、色とりどりの装飾が施されたテントが並び、学生たちが談笑しながら行き交っていた。


 今日は、学術院の最上級生たちがこの学び舎を巣立ち、それぞれの任地や高位の聖務へと旅立つ日。そして何より、学術院の頂点に立つ『聖選生』が、神の側で奉仕する至上の名誉を与えられ、地下の深淵区画へと下る『壮行の儀式』が行われる特別な日だった。


「いやあ、すごい熱気だな! さすがは首席様の旅立ちの日だぜ!」


 中庭の白い鉄製の丸テーブルで、テオが焼き菓子を頬張りながら興奮気味に声を上げた。


「広場の方じゃ、市民たちも集まってお祭り騒ぎになってるらしい。カイとソフィアも、夜の儀式は絶対に見に行った方がいいぞ! きっと、この前の怪物を消し去った時みたいな、すげえ奇跡の祈りが見られるはずだからな!」


 無邪気にはしゃぐテオの言葉に、カイは首元の遺物によって偽装された茶色い前髪を軽く揺らし、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「ああ、そうだな。……特等席で見せてもらうよ」


 隣に座るソフィアも、学園の制服を綺麗に着こなし、完璧な優等生の微笑みを顔に貼り付けている。だが、テーブルの下で隠された彼女の足先が、苛立たしげにコツコツと石畳を叩いているのを、カイだけは気付いていた。


(……何も知らないってのは、ある意味で残酷なことだな)


 カイは手元のティーカップを傾けながら、内心で冷ややかに息を吐いた。


 彼らが「神の側で奉仕する至上の名誉」と信じて疑わない地下の深淵。そこで行われているのは、過酷な洗脳と投薬によって個人の自我を削ぎ落とし、大陸の結界を維持するための使い捨ての動力源――『生きた薪』を作り出す地獄の工場だ。


 数日前の怪物騒動も、ただの自作自演のマッチポンプ。だが、そんな残酷な真実を、テオたち一般の学生は微塵も知らない。綺麗に塗り固められた教義という麻酔にどっぷりと浸かり、自ら進んでこの巨大な消費システムを讃美している。


「あ、セリア先輩だ!」


 テオが立ち上がり、嬉しそうに手を振った。


 回廊の方から歩いてきたのは、亜麻色の髪を背中で一つに束ねた最上級生、セリアだった。いつもは落ち着いた雰囲気の彼女だが、今日の装いは普段の制服とは少し違っていた。肩口や胸元に、青と銀の意匠が施された真新しい防具のパーツが装着されている。それは、教団の正規の武力である『聖騎士』に任官された者だけが身につけることを許される、誇り高き装束の一部だった。


「ごめんなさい、待たせたかしら。教官への挨拶が長引いてしまって」


 セリアはテーブルに歩み寄ると、少し照れくさそうに微笑んだ。


「すごいっすね、その装備! やっぱり先輩、首都の部隊に配属が決まったんですね!」


「ええ。何とか適性審査を通過できたわ。明日にはここを発って、首都マレ・オリジンの治安維持を担う、聖騎士団の防衛部隊に合流する予定よ」


 セリアの言葉に、テオが自分のことのように歓声を上げる。ソフィアも「おめでとうございます、先輩」と、そつなく祝福の言葉を口にした。


「……よかったですね、セリア先輩。ずっと、防衛部隊に入って弱い人たちを守りたいって言ってましたもんね」


 カイが穏やかな声でそう言うと、セリアは少しだけ目を伏せ、それから真っ直ぐにカイの顔を見つめ返した。


「カイ君。……貴方は、事故で魂が傷ついて、聖譜(スコア)が使えなくなってしまったんでしょう?」


 唐突な言葉に、カイは内心でわずかに身構えた。だが、彼女の瞳にあるのは、疑念や糾弾の色ではない。底なしの、そして純度百パーセントの「善意」と「慈愛」だった。


「祈りが届かなくて、不安になることも多いと思うわ。……でも、心配しないで」


 セリアは、胸元にある聖騎士の紋章を、誇りを持ってそっと撫でた。


「私が立派な聖騎士になって、もっともっと祈りを深めるから。そうすれば、カイ君やテオみたいな、戦う力を持たない人たちを、恐ろしい怪物から必ず守ってあげられる。……だから、安心してここで学んでね」


 曇りのない、真っ直ぐな笑顔だった。


 誰かを助けたい、守りたいという純粋な正義感。彼女は本心から、自分の命を懸けて人々の盾になろうとしているのだ。だが、その純粋すぎる言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥を、ギリッと締め付けるような痛みが走った。


(……違うんだ、先輩。あんたたちのその優しい祈りが、巡り巡って誰かを搾取しているんだ)


 カイの脳裏に、ルタムの街で見た光景がフラッシュバックする。本来の適性を無視され、無理やり合わない『型』を押し付けられて血を吐きながらインフラを維持させられていた若者たち。


 教会のシステムは、人間の美しい感情や正義感すらも、システムを回すための極上の『潤滑油』として利用する。セリアが首都へ行き、厳しい訓練と洗脳の日々を送れば、どうなるか。彼女のこの優しい心は、少しずつ、だが確実に「教義に反する者を排除するための狂気」へとすり替えられていく。誰も傷つけたくないという願いは、「神の敵を消すことが最大の救済である」という歪んだ解釈に上書きされる。


 いずれ彼女は、笑顔のまま、何の疑いも持たずに異端者を切り捨てる『狂信の剣』として完成させられてしまうのだ。


「……カイ君? どうかしたの?」


 カイが黙り込んでいるのを見て、セリアが不思議そうに小首を傾げた。


「……いや」


 カイは、革手袋で偽装された右手の義手を、テーブルの下で強く握り込んだ。鋼鉄の指先が手のひらに食い込む冷たい感触だけが、今の彼を現実に繋ぎ止めていた。


 本当のことを言ってやりたかった。あんたが倒そうとしている怪物は、あんたたちの祈りの燃えカスなんだと。あんたが命を捧げようとしている教会は、人間をただの部品として消費する地獄の工場なんだと。


 だが、言えない。今ここでそんな真実を口にすれば、確実に異端として通報され、結界の『原譜(オリジナル・スコア)』を奪取するという最大の作戦が水泡に帰す。それに、証拠もない状態で彼女の信仰を否定すれば、それは彼女がこれまで積み上げてきた人生と努力のすべてを踏みにじる行為にしかならない。


 言葉の理屈だけで、完全に染まりきった人間の心は救えない。その無力さが、カイの奥歯をきつく噛み締めさせた。


「……ありがとう、セリア先輩。期待してるよ」


 カイは、胸の内で暴れ回る歯痒さを分厚い殻で押さえ込み、ごく普通の、少し照れたような後輩の笑顔を完璧に作り上げてみせた。


「ええ。任せておいて」


 セリアは優しく微笑み、テオも「俺も負けてられないな!」と明るく笑った。


 和やかで、平和な午後のキャンパス。どこにでもあるような学生たちの別れの風景。だが、その裏側に隠された底知れない泥沼の深さを知っているのは、このテーブルでカイとソフィアの二人だけだった。


「それじゃあ、私は式の準備があるから、先に行くわね。……二人とも、元気でね」


 セリアが立ち上がり、手を振って回廊の奥へと歩き出す。テオも「俺も場所取りに行かなくちゃ!」と急いで彼女の後を追いかけていった。


 二人の姿が完全に見えなくなるまで、カイは無言のまま、冷めた紅茶の水面を見つめていた。


「……辛いわね」


 不意に、ソフィアが感情の抜け落ちたような声で呟いた。


「あんなに真っ直ぐで優しい人が、教会の都合の良い部品にされて、心を壊されていく。……それが分かっていて、笑顔で見送ることしかできないなんて」


「……ああ」


 カイは、テーブルの下で握りしめていた右拳をゆっくりと開いた。


「言葉じゃ、あいつらの洗脳は解けない。……目を覚まさせるには、あいつらが寄りかかっている『神の奇跡』っていう絶対の土台を、根底から叩き割るしかないんだ」


 カイは顔を上げ、学術院の中央にそびえ立つ白亜の尖塔――『聖譜監獄(アーカイブ)』を睨みつけた。


 あの中に、すべてを縛り付けている大元の設計図がある。


「このふざけた箱庭の仕組みごと、全部解体してやる。……あの馬鹿みたいに純粋な善意が、これ以上搾取されないためにな」


 カイの瞳に宿る黒い光は、もはや静かな怒りを通り越し、一切の感情を排した氷点下の刃のように研ぎ澄まされていた。


「行くぞ、ソフィア。日が暮れる」


「ええ。……悪くない箱庭だったけれど、私たちの学生生活も今日でお別れね」


 二人は席を立ち、これから熱狂に包まれようとしている中央広場とは逆の方角――キャンパスの中央にそびえる尖塔の、静寂に包まれた基部へと歩みを進めた。






 太陽が完全に落ち、ルキウムの街が青白いエーテルの光に照らし出される頃。


 数万人の市民と学生たちが詰めかけた中央広場からは、大地を揺るがすような讃美歌の合唱と、熱狂的な祈りの声が響いてきていた。広場での華々しい見送りを終えた聖選生が、神の側へ奉仕するためにただ一人で深淵へと下る。その神聖な旅立ちを祝し、儀式が最高潮に達している証拠だ。


 だからこそ、カイとソフィアが足を踏み入れた『聖譜監獄』の基部――一般の学生や市民の立ち入りが厳しく禁じられた裏門のエリアには、警備の騎士すら一人も配置されておらず、祭りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 冷たい大理石の壁。一切の装飾を排した、威圧的な造りの空間。そして、その奥にそびえ立つ、巨大で重厚な白銀の扉。扉の表面には、教会の最高位の術式が複雑な幾何学模様となってビッシリと刻み込まれており、触れる者すべてを拒絶するような恐ろしい威圧感を放っていた。


 その扉の前に、一人の青年が静かに佇んでいた。


「……遅かったな」


 暗がりの奥から、学術院の首席、ユリウスが姿を現した。


 彼はいつもの純白の法衣ではなく、目立たない暗灰色の外套を深く被っていた。その顔色は月の光のように蒼白で、ひどく疲労しているように見えたが、その瞳の奥には、昨日回廊で見せたような混乱や怯えの色はなかった。あるのは、すべてを失うことを覚悟した者の、冷徹で悲壮な決意だけだった。


「広場の熱狂を避けてくるのに、少し手間取ってね」


 カイが歩み寄ると、ユリウスは無言のまま、手に持っていた白銀の杖を軽く握り直した。


「……私の同期たちは今頃、広場で神の祝福を受け、名誉ある涙を流しているだろう」


 ユリウスは、遠く響く讃美歌の声を背中で聞きながら、自嘲するように口の端を歪めた。


「昨日までなら、私もあの輪の中心にいたはずだった。……お前が、私の信じていた『完璧な奇跡』を、泥の山に引きずり下ろさなければな」


「恨んでるか」


「恨む? ……まさか」


 ユリウスは、冷たい視線でカイの顔を射抜いた。


「私は真理を求める者だ。目の前にある矛盾から目を背け、偽りの栄光に酔いしれるほど、私は愚かではない。……たとえこの扉の向こうに待っているのが、お前の言う通りの地獄であろうと、自分の目で確かめなければ前に進むことはできない」


 ユリウスのその誇り高い言葉に、カイは内心で小さく感嘆した。彼がただの温室育ちのエリートなら、あの絶望の中で狂信に逃げ込んでいただろう。だが彼は、自らの足で真実を知るために、築き上げてきたすべての地位を捨てる覚悟を決めたのだ。


「頼もしい案内人だ。……よろしく頼むぜ」


 カイの言葉に、ユリウスは短く鼻を鳴らし、巨大な白銀の扉へと向き直った。


「下がっていろ。この封印は、物理的な力では決して開かない。教会の中枢システムに事前登録された、聖選生としての特異な魂の波長がなければな」


 ユリウスは外套の下から白磁のような手を伸ばし、扉の中央に刻まれた紋章にそっと触れた。


「――真理に至る道を開け。……我は、深淵を覗く者なり」


 静かな、しかし重みのある詠唱。


 瞬間、扉の表面に刻まれた複雑な幾何学模様が、まるで血が巡るように青白く発光を始めた。ユリウスの掌から流れ込む固有の波長を、扉のセキュリティ機構が精密に読み取っていく。


ギギギギギ……ッ。


 地鳴りのような重低音と共に、数百年もの間、選ばれた者以外を決して通すことのなかった重厚な白銀の扉が、ゆっくりと内側へと開き始めた。


 扉の隙間から流れ出してきたのは、ルキウムの街に満ちているような清浄で温かなエーテルではなかった。鼻をつくような古い紙の匂いと、何千、何万という人間の感情の残滓がこびりついたような、異常に重く冷たい停滞した空気。


「……これが、『原譜(オリジナル・スコア)』の眠る場所」


 ソフィアが息を呑み、無意識にカイの背中へ半歩隠れるようにして身を固くした。完全に開け放たれた扉の向こうには、光の届かない、底知れない暗黒の螺旋階段が、地下深くへと果てしなく続いているのが見えた。


「行こう」


 ユリウスが、白銀の杖をコツンと石畳に突き、一切の躊躇なく暗闇へと足を踏み入れた。


 カイは、首元の偽装デバイスの下で、鋼鉄の右腕を静かに駆動させた。この闇の底に、大陸を縛り付けているすべての元凶がある。セリアたちのような善意を使い潰す、狂った機構の中心が。


「ああ。このふざけた箱庭を、終わらせに行こうぜ」


 カイは、冷たい冷気が吹き出す深淵へ向けて、迷いなく歩を進めた。


 すべてが嘘で塗り固められた白亜の都市。その最も深く、最も昏い真実が眠る『神の記憶庫』へと、反逆者たちは完全にその姿を消した。

第7章 『盲信の学舎』 完結


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

もし少しでも「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけましたら、評価やブックマークで応援いただけると、大きな励みになります。


次章、第8章『セプテット・アーカイブ』も、引き続きお楽しみいただければ幸いです。

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