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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
盲信の学舎

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第114話 崩れゆく信仰

 割れんばかりの喝采が、すり鉢状の中央広場をビリビリと震わせていた。


「おおお……! 流石はユリウス様だ!」 「神の奇跡だ! 恐ろしい怪物が、一瞬にして泥へ還ったぞ!」 「光は……常に我らと共に!」


 数万人の観衆が総立ちになり、熱狂的な歓声を上げている。誰もが両手を胸の前で固く組み、恍惚とした涙を流しながら、広場の中央に立つ純白の青年に向かって惜しみない賛辞と祈りを捧げていた。


 だが、その熱狂の中心にいる学術院の首席、ユリウスの内心は、周囲の歓喜とは裏腹に絶対零度まで冷え切っていた。


「……光は、常に我らと……共に……」


 ユリウスの口から、幼い頃から叩き込まれた『聖典(カノン)』の一節が無意識にこぼれ落ちる。しかし、その声はひどく掠れ、震えていた。彼が握りしめる白銀の杖は、主の動揺を伝えるように微かにカタカタと鳴っている。


 彼の視線の先には、先ほどまで全高五メートルの巨体を誇っていた『よどみ』の怪物が、ただの汚水と瓦礫の山に成り果てて広がっていた。突き刺さった彼の氷刃もまた、行き場を失って無数の破片へと砕け散っている。


 観衆の目には、ユリウスが放った『浄玻璃(グラキエス)』の巨大な氷刃が怪物を打ち倒し、見事に浄化の儀式を成し遂げたように見えているのだろう。だが、術者であるユリウス自身は、真実を痛いほどに理解していた。


(違う……。私が、倒したのではない)


 ユリウスは内なる声で激しく否定した。彼が全精力を傾けて構築した氷刃は、確かに泥の巨体の胸元に突き刺さった。しかし、教会の想定をはるかに超えて異常膨張していた怪物の熱量と質量は、ユリウスの放った冷気を完全に相殺し、力ずくで押し留めてしまっていたのだ。完全に拮抗状態に陥り、術式の主導権はすでに彼の手から離れかけていた。あのまま数秒も経てば、押し負けた氷刃は弾き飛ばされ、観客席の最前列を巻き込む大惨事を引き起こしていたはずだ。


 それが、突然どうなったか。


 怪物の足元を無理やり繋ぎ止めていた不可視の力が、スッと抜け落ちたのだ。聖譜によって凍らせたわけではない。風の刃で切り裂いたわけでもない。ただ、巨大な質量をデタラメなバランスで立たせていた見えない「支え」が、唐突にこの空間から消え去った。土台となる支柱を物理的に失った怪物は、自らの重みに耐えきれずに自壊した。ただ、それだけのことだった。


 あんな現象を引き起こす『七つの聖譜(セプテット)』など、聖典のどこを探しても存在しない。神の奇跡とは対極にある、あまりにもドライで、即物的な事象の崩壊。怪物を支えるエネルギー構造が断ち切られたその瞬間、ユリウスはわずかに逆流してきた異質な『虚無』の波動を感じ取っていた。その出どころを術者としての本能で察知し、彼はゆっくりと顔を上げた。


 そして、観客席の最前列――巨大な結界石の死角となる場所へと、弾かれたように視線を向けた。


 喧騒の中で、熱狂する群衆に背を向け、静かに立ち去ろうとする一人の少年の後ろ姿がそこにあった。


 最近、学術院に編入してきた、あの茶色の髪を持つ特例生。事故で魂が深く傷つき、エーテルと共鳴する適性を完全に失った「庇護すべき欠陥品」として、教官や学生たちから同情を集めていたはずの少年。


 その彼が、なぜあのような激しいエーテルの乱気流が吹き荒れる結界石のすぐ裏に、平然と立っていられたのか。そして何より、彼が着ていた制服の袖口の革手袋の隙間から、熱を持った白い排気が細く吐き出されていた光景が、ユリウスの網膜に焼き付いて離れなかった。


(彼が……怪物の支えを消し去ったというのか?)


 エーテルと共鳴できない者が、聖譜を行使するなどあり得ない。ましてや、首席である自分の全力を凌駕するような現象を引き起こすなど、世界の絶対的な法則ルールに反している。


 だが、現実に起きた現象が、ユリウスの信じてきた法則を真っ向から否定していた。


「ユリウス様! 素晴らしい奇跡でした!」 「ああ、我らが首席! 神の御使いよ!」


 周囲を取り囲む聖騎士たちが、誇らしげにユリウスを讃える。彼らの言葉が、今のユリウスにとっては鋭い棘のように胸を刺した。自分は、神に選ばれた人間ではなかったのか。誰よりも祈りを深め、教義を体現し、いずれ『聖譜監獄(アーカイブ)』の深淵へと至る至上の名誉を与えられる存在。そのために、血を吐くような修練と自己犠牲を重ねてきたというのに。


(私の祈りは、あの少年の得体の知れない力に……負けたのか)


 完璧だったはずの信仰の台座に、ピシリと、決して修復不可能な亀裂が走る音がした。






「いやあ、本当にすごかったな! カイ、どこ行ってたんだよ。一番いいところを見逃したんじゃないか?」


 観客席の上段へ戻る通路の途中で、興奮冷めやらぬテオが、合流したカイの背中をバンバンと叩いた。


「ああ。ちょっと人が多すぎて酔っちまってな。少し離れたところで休んでたんだ。でも、最後のところはちゃんと見えたよ。すごかったな」


 カイは、偽装された茶色い前髪を軽くかき上げ、ごく普通の学生らしい穏やかな笑みを浮かべて返した。


「でしょう! やっぱりユリウス様の祈りは本物だったわ!」


 セリアが、両手で頬を包み込みながら、うっとりとしたため息を漏らす。彼女の瞳は潤んでおり、奇跡を目の当たりにした感動で打ち震えていた。最前列で泥と氷の津波に飲み込まれそうになった恐怖など、すでに彼女の記憶からは綺麗に上書きされてしまっているようだった。


「あんなに大きくて恐ろしい怪物が、ユリウス様の氷の刃で一瞬にして自らの重みに耐えかねて崩れ去るなんて。……神様の御業は、本当に計り知れないわ。私たちも、もっと祈りを深めれば、あんな風に人々を救える立派な盾になれるのかしら」


「もちろんですよ! 俺たちだって、いつかあんな風に……」


 目を輝かせて語り合うテオとセリアの言葉を聞きながら、カイは内心で小さく息を吐いた。


(……人がいいのも、考えもんだな)


 彼らには、この世界の残酷なからくりがまったく見えていない。怪物を倒したのは、ユリウスの祈りではない。そして何より、あの怪物を生み出し、暴走させた原因は、他ならぬ彼ら自身が日々捧げている非効率な祈りの燃えカス――『澱』なのだ。


 教会が仕組んだ、あまりにも悪辣なマッチポンプの茶番劇。意図的に怪物を育てて広場に引き込み、恐怖を煽り、それを奇跡の演出で打ち払う。そうやって数万人の大衆からさらに濃密な信仰心という名のエネルギーを搾り取る。そして、そのエネルギーで都市の結界を維持し、用済みになったユリウスのような特待生たちを、自我を奪った「生きた電池」として使い捨てるのだ。


 だが、その冷たい怒りを微塵も表に出すことなく、カイは『普通の特例生』としての穏やかな相槌を完璧に打ち続けていた。


「……随分と、余裕の顔を作ってるわね」


 ふいに、隣に並んで歩いていたソフィアが、小声でからかうように囁いてきた。彼女の黒い瞳が、カイの横顔をじっと見上げている。


「怪我はない?」


「ああ。出力の調整は完璧だったよ。親父さんたちの作ってくれた腕と、あんたのナビゲートのおかげだ」


 カイは、革手袋の偽装の下に隠された鋼鉄の義手を軽く握り込んだ。事象を解体した際に生じた摩擦熱は、内部のヒートパイプ構造によって瞬時に処理され、すでに心地よい冷たさを取り戻している。魂の摩耗も全くない。


「それで? あの首席様の様子は、どうだったの?」


 ソフィアが、周りの喧騒に紛れて問いかける。


「気づいてたよ。顔面蒼白だった」


 カイは、前を歩くテオたちに聞こえないよう、声を落として淡々と答えた。


「自分が信じてた『完璧な奇跡』が、自分以外の何かにあっさり否定されたんだ。自分が起こした現象じゃないって気づいて、混乱してるはずだ」


「そうね。教会の洗脳は強固よ。普通なら、見て見ぬふりをして信仰にすがりつくかもしれないわ。……でも、彼は首席になるほどの秀才よ。目の前で起きた明らかな矛盾から、いつまでも目を背けられるほど馬鹿じゃないはずだわ」


「ああ。あいつは必ず、自分の目で確かめようとする。俺が何をしたのか。そして、自分の信じていたものが何だったのかを」


 カイは、夕暮れに染まり始めたキャンパスの空を見上げた。


 結界の大元の設計図『原譜(オリジナル・スコア)』が眠る、聖譜監獄の深淵区画。そこへ至る重厚な扉を開けるためには、教団から特別に選別された『聖選生』であるユリウスの生体認証が不可欠だ。


 彼を力ずくで脅迫するのではなく、自らの意志でその扉を開けさせる。彼が信じて疑わなかった教会というシステムから、彼自身の足で一歩はみ出させる。そのための致命的な種は、先ほどの広場で確実に蒔かれた。


「完璧なメッキが剥がれた。これで、交渉の余地ができた」


 カイの言葉に、ソフィアも静かに頷いた。二人は、何食わぬ顔で学生たちの輪の中へと戻っていく。平和で穏やかなキャンパスライフという仮面を被りながら、彼らは教会の心臓部へ至るための『鍵』が、自ら落ちてくるその瞬間を待ち構えていた。






 その夜。一般学生の居住区画から隔離された学術院の特別寮。その最上階に位置する、首席にのみ与えられた豪奢な私室。


 天蓋付きのベッドや年代物の調度品が並ぶその部屋で、ユリウスは一人、窓辺に立ち尽くしていた。窓の外には、信仰の力によって青白くライトアップされた白亜の都市が広がっている。街の至る所から、今日の奇跡を讃える市民たちの讃美歌が、風に乗ってかすかに聞こえてきた。


「……奇跡……」


 ユリウスは、窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、自嘲するようにその言葉を口の中で転がした。


 彼が今日まで積み上げてきたものは、一体何だったのか。幼い頃に高い適性を見出され、親元から引き離されて学術院へ入れられた。誰よりも深い信仰心を持ち、教会の定める型を完璧に暗唱し、いかなる欲望も律して生きてきた。すべては、神の御許に至り、人々を不浄から救うため。その果てに掴んだ首席という座と、深淵へ赴く至上の名誉。


 彼は、自分が選ばれた人間であると、誇りを持って生きてきた。


 だが、あの時の自分の無力さはどうだ。怪物の膨張する質量に押し負けそうになった時の、あの底知れない絶望感。神の力が、ただの泥の塊に屈しようとしていた事実。そして、それを救ったのが――神への祈りなど欠片も持たない、異端の少年であったという現実。


(私が視たあの光景……教官に報告すべきか?)


 ユリウスは、窓枠に手をつき、強く目を閉じた。学生の中に、得体の知れない力を持つ者が紛れ込んでいる。それは明らかに教会に対する脅威だ。


 だが、証拠がない。それに、それを言えば、ユリウス自身が「自らの力で怪物を倒せなかった」と認めることになる。大衆の面前で完璧な奇跡を演じきった手前、今さら「あれは私の力ではありませんでした」などと言えるはずがない。奇跡を成し遂げられなかったと知れれば、神の恩寵を失った欠陥品として見限られ、首席としての地位や深淵へ進む名誉のすべてを失うことになる。


 ユリウスは、自分自身が巨大な嘘の共犯者になってしまったことに気づき、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


(もし、あの少年がやったことが神の力でないのなら、あれは何なのだ。……もし、祈りよりも強い理屈が、この世界に存在するというのなら)


 自分が信じてきた教義は。これから向かう深淵での大役とは、一体何なのだ。


 ユリウスは、窓から離れ、部屋の隅に置かれた自分の白銀の杖を見つめた。かつては神の威光を体現する誇り高き象徴だったそれが、今はただの虚飾に満ちた空っぽの棒切れのように見えた。


 完璧だった青年の世界に、疑念という名の黒い染みが、静かに、しかし確実に広がっていく。真実を知りたい。自分が何に人生を捧げてきたのか、その答えを確かめなければ、もう一歩も前に進むことはできない。


 ユリウスは、暗い部屋の中で、ただ一人、震える手で自身の顔を覆った。

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