第112話 祈りの共鳴
すり鉢状の中央広場を埋め尽くす数万人の熱狂は、もはや一つの巨大な生き物のようだった。
白大理石の階段を一段下りるごとに、人々の放つ熱気と興奮が、肌をジリジリと焦がすような物理的な重さとなってカイの身体にのしかかってくる。耳を打つのは、前後左右から無数の波のように打ち寄せてくる祈りの声だ。
「ああ、神よ……! 恐ろしい怪物から、我らをお救いください……!」 「ユリウス様! どうかあの不浄を打ち払って……!」
彼らは広場の中央で蠢く泥と瓦礫の巨人――教会が意図的に育て上げ、見世物として放った『澱』の怪物から目を逸らすことができない。圧倒的な恐怖に身を竦ませ、震える手を固く握り合わせながらも、次に訪れるはずの救済の「奇跡」を恍惚と待ち望んでいる。
カイは、茶色に偽装された前髪を揺らし、誰にも気付かれることなく観客の波を縫って進んでいった。目指すのは、広場と観客席を隔てる不可視の壁の発生源――青白い光を放って等間隔に打ち込まれている、巨大な『結界石』のすぐ裏側だ。
(……スラムで見たものより、ずっと洗練されてやがる)
カイは、冷ややかな目で巨大な結界石の構造を見渡した。辺境のスラムで徴税騎士のヴァルガスが使っていたものは、ただ恐怖を煽ってエネルギーを搾り取るだけの粗悪で暴力的なものだった。だが、このルキウムの中央広場に設置された結界石は違う。観衆から発せられる恐怖や、すがるような祈りといった強い感情の波長を、一滴の無駄もなく吸い上げ、地下深くの巨大な機構へと送り込むための、極めて精巧な集束装置として機能している。
「――光は、常に我らと共にある」
結界の向こう側、広場の中央。純白の法衣を纏った学術院の首席、ユリウスが静かに白銀の杖を構えていた。彼の背後には数十名の聖騎士たちが控え、前方には全高五メートルの『澱』の怪物が、不気味な熱を放ちながら咆哮を上げている。
大衆の喝采を浴びて選ばれし者としての誇りを限界まで膨らませた後、地下の深淵で自我を奪われ、使い捨ての動力源にされる運命にある青年。彼自身もまた、自分がこの茶番の主役として踊らされていることに少しも気付いていない。
カイは結界石の死角となる最前列の物陰に身を潜め、革手袋で覆い隠された鋼鉄の右手を静かに駆動させた。チリリ、と内部の精巧な歯車が噛み合う音が、喧騒の中で微かに鳴る。
(……ソフィア。配置についたぞ)
カイが意識の中で呼びかけると、脳内に凛とした少女の声が響いた。観客席の中段に残っているソフィアだ。彼女の首元にある『共振盤』を中継器とし、カイの右腕の聖銀を受信機とする局所的な『戦術連携』。
『ええ。感度良好よ。……早速だけど、あの怪物の構造を解析するわ』
カイの視界に、ソフィアの観測鏡が捉えた幾何学的な光の線が重なって浮かび上がる。
『……やっぱりね。あの泥の塊は、地下の地脈から伸びている見えないエネルギーの糸で、操り人形のように強引に形を保たされているわ。完全に教会の用意した舞台装置よ』
「なら、その糸の根元を絶てばいい。標的の座標を頼む」
『ええ。怪物の重心のすぐ下、地脈との接続点にある特異点。そこを……』
ソフィアが座標を絞り込もうとした、その瞬間だった。
「おおお……! ユリウス様……!」 「神よ! 恐ろしい怪物から、我らをお救いください……!」
ユリウスが杖を振りかざし、討伐の儀式へ入ろうとしたのを見て、観客席の熱狂が爆発した。数万人の市民が、震える手を握り合わせ、絶叫に近い声で祈りの言葉を張り上げる。
ズォォォォォォ……ッ!!
直後、カイの真横にある結界石が、不気味な低周波音を立てて強烈に発光し始めた。
『……え?』
脳内で、ソフィアの戸惑う声が響いた。次の瞬間、カイの視界に重なっていた光の座標が、激しい砂嵐のように乱れ、ぐにゃりと歪んだ。
「……なっ、なんだ!?」
カイは思わず顔をしかめ、頭を押さえた。痛覚ではない。圧倒的な「情報の飽和」だ。通信アンテナとして機能していた義手の聖銀が、結界石へ吸い込まれる数万人分の祈りのエネルギーを一部「誤受信」してしまい、処理能力をはるかに超える無数の感情が、義手の神経接続を通じてカイの脳へ直接雪崩れ込んできたのだ。
(お母さんの病気が治りますように……!) (どうか、明日も平和な一日でありますように……!) (怪物を、どうか消し去ってください……!)
それは、広場を埋め尽くす数万人の市民たちが放つ、純粋で、何の疑いも持たない「善意の祈り」だった。
『……カイ! ダメ、座標が……見えないわ!』
通信回線の向こう側で、ソフィアが悲鳴のような声を上げた。
『市民たちの祈りが、凄まじい勢いで結界石に吸い上げられているの! その膨大な感情の動きが、空間のエーテルを無秩序にかき回して、嵐みたいな乱気流を生み出しているわ!』
「乱気流……!?」
『ええ! 数万人分の祈りの波が、分厚い壁になって……怪物の根元にある仕掛けの構造を、完全に隠してしまっているのよ! ピントが合わない……!』
カイは、息を呑んで真横の結界石を見上げた。吸い上げられているのは、単なる大気中のエーテルではない。無邪気な子供から、震える老人まで。誰もが純粋に救いを求める「心」そのものだ。だが、その純粋さこそが、今のカイとソフィアにとっては最悪の障害となっていた。
(……そういうことかよ)
カイは、教会の悪辣すぎる舞台設計に、底知れない嫌悪で強く奥歯を噛み締めた。恐怖で祈りを搾り取るだけではない。この『浄化の聖儀』の欺瞞に満ちた構造そのものを隠蔽するための「防音材」として、大衆の祈りを利用しているのだ。善良な人々の祈りが集まれば集まるほど、エーテルの密度は異常に跳ね上がり、分厚い思念の壁となる。その壁の内側で怪物をどう操っていようと、外からは絶対に観測できない。信じる者の純粋な思いが、自分たちを騙す巨大な嘘を、さらに強固に隠し立ててしまう。
「オォォォォォォォォッ!!」
怪物が、ユリウスの動きに呼応するように、見世物としての恐ろしい咆哮を上げた。市民たちの恐怖が煽られ、祈りの声がさらに大きくなる。思念の壁は限界を超え、ソフィアからの視覚データは完全に真っ白に飛んでしまった。
『カイ……! ごめんなさい、今の私の眼じゃ、この祈りの濁流の向こう側は見通せない……! 結び目の正確な位置が、割り出せないわ!』
ソフィアの悔しげな声が響く。的が見えない。この状態のまま、当てずっぽうに解体の波動を放てばどうなるか。カイの魂の出力は絞り込まれているとはいえ、もし数万人分の祈りのエネルギーと正面衝突してしまえば、生じる摩擦熱は計り知れない。最悪の場合、新しい右腕の冷却機構さえも限界を超え、カイ自身が吹き飛ぶ危険性があった。
「……浄玻璃よ。不浄なる淀みを浄化する、無垢なる氷剣となれ」
広場の中央で、ユリウスの滑らかな詠唱がいよいよ大詰めを迎えていた。彼の杖の先端に、恐ろしいほどの冷気が集束し、巨大で美しい氷の刃が形作られていく。それを合図とするかのように、怪物の巨体もまた、観客席を威圧するように大きくのけぞった。
だが、カイはその怪物の動きに、ある致命的な違和感を覚えた。
(……おい、待て……冗談じゃないぞ……!)
怪物の足元。泥と瓦礫が結合している部分が、不自然に膨張し始めている。数日前の公開演武で起きた暴発と同じだ。カイが星見の祭壇での儀式を破壊した余波により、現在、この大陸を流れるエーテルには目に見えないレベルの狂いが生じていた。そこにきて、この数万人規模の強烈な祈りの乱気流である。教会は怪物を操っているつもりだろうが、予測不能な環境変化と過剰なエネルギーの供給は、彼らが設定した怪物の許容量を完全に超え、制御不能な暴発を引き起こそうとしていたのだ。
『……カイ! 怪物の質量が膨張しているわ! このままじゃ、ユリウスの術式と衝突した余波で、前列の観客席が吹き飛ぶ!』
ソフィアの警告が、乱れた回線から途切れ途切れに届く。カイの真上、最前列には、セリアやテオたちが座っている。
『退いて、カイ! もう貴方の手には負えない! このままじゃ貴方が巻き込まれるわ!』
ソフィアが悲痛な声で撤退を促す。おとなしく退いて、事態を見守るのが最も安全な選択だ。だが、それではユリウスの目を覚まさせることも、教会のふざけた茶番を壊すこともできない。何より、あのまま怪物が暴発すれば、上の席にいるテオやセリアたちが死ぬ。
「……冗談じゃない」
カイは、濁流のような思念の渦の中で、低く呟いた。
「ソフィア、リンクはそのままにしておけ」
『……カイ? 貴方、まさか』
「あんたの眼が届かないなら、俺が直接探り当てる」
カイは、結界石の死角に身体を隠したまま、分厚いエーテルの嵐が吹き荒れる広場の内側へと、迷いなく右腕だけを深く差し込んだ。
『正気!? 座標が分からないまま干渉すれば、暴発するわよ!』
「当てずっぽうで撃つ気はない。……俺の魂は『絶縁体』だ。濁流を遮断して、直接手探りで見つけてやる」
カイは目を閉じ、視覚を完全に遮断した。そして、数万人の祈りが渦巻く分厚い波のど真ん中へと、己の魂を極限まで硬化させながら、真っ直ぐに指先を伸ばしていった。




