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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
漂流の産声

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第11話 崩壊の余波と代償

 音が、消えた。


 鼓膜を震わせていた怪物の不協和音も、吹き荒れるエネルギーの暴風も、住人たちの悲鳴も。すべてが、まるで電源を唐突に引き抜かれたスピーカーのように、完璧な「無」へと帰した。


 解の視界を覆っていた真っ白な閃光が引いていく。その後に残されたのは、ただ、冬の夜の底のような、冷たく重い静寂だけだった。


「……あ、……」


 右手が掴んでいたはずの、あの禍々しい熱量を持った核は、すでに存在しなかった。


 指先をすり抜けていくのは、温もりを失ったただの灰。いや、それは灰ですらなかった。怪物の巨躯を形作っていた瓦礫や鉄屑、そして人々の怨嗟の結晶は、接着剤を失った砂の城のように、サラサラと乾いた音を立てて崩れ落ちていく。


 勝利、という実感はなかった。あるのはただ、目の前の巨大な不具合を、強制的に削除したあとの、底知れない虚脱感だけだ。


「……が、はっ……!!」


 一拍遅れて、肉体が限界を告げた。全身の血管を熱した針が通り抜けるような、凄まじい「反動」が解を襲う。


 彼はその場に膝をつき、激しく血を吐いた。雪の上に広がる鮮血は、この世界の毒々しい紫色ではなく、あちら側の世界と同じ、暗い赤色をしていた。


(……動け、ない……)


 指先一つ動かすことができない。右腕を見れば、肘から先が土色に変色し、ひどい火傷を負ったかのように爛れていた。自身の魂の殻を爆破し、生身のエネルギーに直接触れた代償だ。


 物理的には、皮膚が焼けただけかもしれない。しかし解には分かっていた。自分という存在の根幹、いわば「魂の配線」そのものが、今の無茶でズタズタに引き裂かれている。


 周囲を見渡せば、スラムの住人たちが、遠巻きに解を見つめていた。そこには、怪物を倒した英雄への感謝も、称賛もなかった。


 彼らの瞳に宿っているのは、純粋な「恐怖」だ。


 彼らにとっての怪物は、理解可能な厄災だった。自分たちの絶望が生んだ、恐ろしいが、それでもこの世界の理の一部である存在。だが、解が行ったことは違う。


 詠唱もせず、祈りも捧げず、ただ手を伸ばして、世界の構成要素そのものを「なかったこと」にした。それは彼らが信仰する歌――神が定めたはずの絶対の旋律を、暴力的に無視した冒涜的な力に他ならない。


「……、……!」


 誰かが、ひそひそと囁き合う。それはかつて、この地を襲った騎士たちの冷徹な言葉よりも、解の心を深く抉った。


 怪物を倒した英雄。そんな都合のいい物語は、ここでは通用しない。彼は今、この世界の住人にとって、怪物よりも得体の知れない「異物」へと成り下がったのだ。


「……カイ!!」


 その時、静寂を破って一人の少女が駆け寄ってきた。解が「アイア」と呼んでいる、あの少女だ。彼女は周囲の住人が抱く畏怖など目に入らないかのように、泥にまみれた解の体を必死に支えた。


「……ア、……アア……!」


 彼女の目からは、大粒の涙が溢れていた。解は薄れゆく意識の中で、彼女の手が自分の頬に触れるのを感じた。


 熱い。この世界の人間特有の、エネルギーを含んだ微かな発熱。以前彼女に触れたとき、解の魂はそれを毒として激しく拒絶し、彼女を傷つけた。だが今は、その痛烈な拒絶反応さえも起きないほどに、解の魂は摩耗しきっていた。


「……ジ、イ……。ジ、イ……!」


 少女が背後を振り返って叫ぶ。そこには、少女に支えられてどうにか立ち上がった、あの老人がいた。


 老人は解の方へ一歩踏み出し、そして足を止めた。彼はかつて教会に身を置いた者として、解の放った力の「異質さ」を誰よりも正確に理解していた。


(理を否定する、沈黙の力……)


 老人の瞳には、隠しきれない戦慄が走っていた。この少年がしたことは、旋律の書き換えではない。楽譜そのものを破り捨てたのだ。もし教会がこのことを知れば、異端審問にかけるまでもなく、存在そのものを抹消しようとするだろう。


 だが、老人は、自分を見つめる少女の必死な目を見た。そして、自分たちの命を救うためにボロボロになった、この名もなき少年の横顔を。


「……、……」


 老人は深く息を吐き出し、迷いを振り払うように解の傍らへと膝をついた。彼は住人たちに向かって、低く、威厳に満ちた声で何事かを命じた。


 住人たちは顔を見合わせ、怯えながらも、解の体を運ぶために古びた板きれを持ち寄った。彼らにとって、老人は依然として尊敬すべき年長者であり、その指示は重い。


 解の体は、住人たちの手によって、あばら屋の奥へと運ばれていった。運んでいる男たちの手が、震えているのが伝わってくる。まるで、いつ爆発するか分からない不発弾を扱っているかのような、慎重さと嫌悪。


(ああ。やっぱり、俺は……)


 解は、揺れる視界の中で思った。自分はどこまでも「不協和音」なのだ。


 あちら側の世界では「何者でもない自分」に絶望していたが、こちら側では「存在するだけで周囲を脅かす自分」に絶望することになる。


 意識が急速に、闇の底へと沈んでいく。全身を焼くような倦怠感。呼吸をするたびに、肺の中で細かいガラスの破片が踊っているような痛み。右腕の感覚はもう、ほとんどなかった。


 最後に耳に残ったのは、少女が自分を呼ぶ、震える声だった。それはあちら側の世界で聞いたどの旋律よりも、不器用で、しかし確かな「体温」を伴っていた。






 数日間、解は生死の境を彷徨った。


 夢を見る。それは日本の、放課後の風景だ。物理準備室の冷たい空気。黒板を滑るチョークの音。進路希望調査票を前に、一文字も書けずに座り込んでいる自分。


 担任の教師が、困ったように微笑んで言う。『久澄、お前は何になりたいんだ? 何か一つでもお前の心を動かすものは、この世界にないのか?』


(ないよ。何もない。全部、退屈な既知の法則で塗り固められてる。驚きも、恐怖も、何もかもがテンプレート通りだ)


 夢の中の自分は、そう答えていた。だが、今の解は知っている。その「退屈」がいかに贅沢なものであったかを。


 理屈が通り、予測が可能で、ただ息をしているだけで「生」が保証される世界。


 対して、この場所はどうだ。呼吸をすれば肺が焼け、水を飲めば魂が爆発し、祈れば怪物が生まれる。デタラメだらけの、設計ミスで埋め尽くされた狂った機械のような世界。


(……でも。……それでも)


 解の意識の底で、ある感覚が燻り続けていた。


 あの怪物の核を、剥き出しの掌で掴み取ったときの手応え。不合理な「現象」を、自分の意志という「論理」でねじ伏せた瞬間の、あの脳を焼くようなカタルシス。


 それは、日本の教室では決して得られなかった、本物の「手応え」だった。






「……あ、……ぁ……」


 解は、薄く目を開けた。視界に入ってきたのは、煤けた天井と、窓の隙間から差し込む紫色の微かな光。そして、傍らで椅子に座ったまま、解の手を握って眠っている少女の姿だった。


 彼の右腕は、肩から指先まで包帯のような布で厳重に巻かれている。動かそうとすると、全身の神経が悲鳴を上げたが、激痛の向こう側に、わずかな接続の感覚が残っていた。


 部屋の隅では、老人が小さなランプの火を見つめながら、静かに座っていた。解が目覚めたことに気づくと、老人は静かに立ち上がり、解の枕元へと歩み寄った。


「……、……」


 老人が、穏やかな声で語りかける。その声に、以前のような未知の怪物を見るような畏怖は薄れていた。代わりにそこにあるのは、深い思索と、そしてある種の「覚悟」を宿した瞳だった。


 老人は解の爛れた右腕を指差し、次に、あばら屋の外――かつて怪物がいた広場の方を指差した。そして、これまでに解が聞いたことのない、重厚な響きを持つ単語を口にした。


「……『シ、レン……ティウム』……」


 その重々しい響き。解の脳内で、英語の授業で習った単語と、目の前の老人の言葉がリンクする。


(シレンティウム……『サイレンス』……?)


――沈黙。あるいは、静寂。


 老人は、解の力がこの世界の(ルール)を上書きするものではなく、(ルール)そのものを「停止させる」ものであることを見抜いていた。それが称賛なのか、それとも恐ろしい事実の宣告なのかは分からない。だが、少なくとも彼は、解を化け物ではなく、理解すべき対象として見てくれている。


 解は、重い口を震わせた。


 「……あ、う……アイ、ア……」


 彼は隣で眠る少女を、自分がつけた仮の名前で呼んだ。彼女が飛び起き、驚愕のあとに、再び大粒の涙を流して解に抱きつく。


 解は、自由な方の左手で、彼女の肩をぎこちなく叩いた。


 この不合理な世界で、自分を繋ぎ止めるためのたった二人の人間。理不尽な世界への反撃を終えたあとに残されたのは、真っ白な虚無ではなく、守るべき相手の重みと、全身を苛む消えない痛みだった。


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