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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
盲信の学舎

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第109話 生きた聖遺物

 夕暮れの光が、高いアーチ窓から斜めに差し込んでいる。


 聖神学術院の敷地の端に位置する古い書庫。ここは、最新の教義解釈ではなく、何百年も前のカビ臭い古文書ばかりが収められているため、普段から学生の寄り付かない閑散とした場所だった。空気中には、古い紙とインク、それに乾燥した埃の匂いが静かに漂っている。


 カイとソフィアは、高い本棚が迷路のように並ぶその薄暗い空間を、足音を忍ばせて進んでいた。


「……本当にこんな場所にいるのか?」


「ええ。彼が指定した合流地点よ。あの偏屈な情報屋のことだから、どこかの棚に擬態でもしているんじゃないかしら」


 ソフィアが小声で答えながら、周囲を油断なく見回す。


「ご名答。さすがは優秀な研究員殿だ」


 不意に、二人のすぐ真横の空間が「ぐにゃり」と陽炎のように歪んだ。カイがとっさに身構えた次の瞬間、古い本棚の木目と同化していた景色が剥がれ落ちるようにして、一人の青年が姿を現した。


 灰色の法衣を纏い、片目に分厚いレンズの眼鏡をかけた、いかにも神経質そうな下級書記官。レジスタンス組織『アカデミア・ロゴス』が教団の中枢に送り込んでいる潜入スパイ、ルカだ。彼とはアジトの通信越しに声を聞いたことはあったが、直接顔を合わせるのはこれが初めてだった。


「やあ、初めましてだね。息災そうで何よりだよ」


 ルカは眼鏡のブリッジを指で押し上げ、飄々とした笑みを浮かべた。彼の能力である『光学的偏光(オプティカル・シフト)』。光の屈折率を操作し、自身の存在を周囲の風景に溶け込ませる認識阻害の力だ。


「……初対面で、急に空間から湧き出すのは心臓に悪いな」


 カイが緊張を解いてため息をつくと、ルカは肩をすくめた。


「これでも気を使っているんだよ。ここは教団の心臓部だ。どこに異端審問官の耳や目が潜んでいるか分からないからね。……それにしても、今日の午後の公開演武の噂、もう僕のいる塔の上層部まで届いているよ」


 ルカのレンズの奥の瞳が、面白そうな光を帯びる。


「首席のユリウスが、あわや大惨事という暴発を間一髪で奇跡的に鎮めたってね。……君がやったんだろう?」


「ああ。ほんの少し、絡まった糸を抜いてやっただけだ」


 カイは、革手袋で覆われた右手の義手を軽く握り込んだ。


「あいつの完璧な信仰には、確実に亀裂が入ったはずだ。……これで、あいつを地下への案内人にするための交渉の余地ができた」


「見事な手際だ。だが、やりすぎには注意してくれよ。あまり目立つと、特例生という君の都合のいい仮面が剥がれかねないからね」


 ルカは周囲を一度見回し、それから声のトーンを一段階落とした。ここからが本題だという合図だった。


「さて。君たちに伝えておくべき情報がある。……君たちが狙っている、あのユリウスのような『聖選生(せいせんせい)』たちが、地下へ送られた後、どうなるかについてだ」


 その言葉に、カイとソフィアの表情が引き締まった。ユリウスをはじめとする、学術院の頂点に立つ選ばれし若者たち。彼らは卒業後、教団の真理が眠る巨大な尖塔『聖譜監獄(アーカイブ)』の深淵区画へと進むことが約束されている。一般の学生たちはそれを「神の側で奉仕する至上の名誉」だと信じて疑わない。


「彼らは、高位の聖職者になるための特別な修行を受けるんじゃないのか?」


 カイが問うと、ルカは薄暗い書庫の奥を見つめ、冷笑とも哀れみともつかない息を吐き出した。


「それは、美しい表向きの理由だよ。……実際に彼らを待っているのは、教育や修行なんて生易しいものではない。教団の言葉を借りるなら『神への純化』だ」


 ルカは、手にしていた分厚い羊皮紙の束をパラパラと捲った。


「聖選生に選ばれる絶対条件。それは、この狂った世界でただ教義を盲信するだけでなく、魂そのものが分厚く、高密度の祈りを紡ぎ出す適性を持っていることだ。……教団は、その強力な祈りだけを欲している。だが、人間が祈る以上、そこには必ず個人の感情や、迷いや、恐怖といった『揺らぎ』が生じる」


 ルカの言葉に、ソフィアが青ざめた顔で反応した。


「……まさか。その『揺らぎ』を、物理的に排除する気なの……?」


「そのまさかさ」


 ルカは残酷な事実を淡々と紡いだ。


「地下の深淵区画に送られた彼らは、過酷な洗脳と投薬、そして儀式によって、個人の自我や感情という『不純物』を完全に削ぎ落とされる。悲しみも、喜びも、疑問すらも抱かない、ただ完璧な祈りだけを紡ぎ続けるための生きた器。……教団は彼らを『生きた聖遺物(リビング・レリック)』と呼んでいる」


 カイの背筋に、氷のような悪寒が走った。


「生きた聖遺物……。じゃあ、あいつらは」


「ああ。君たちが想定していた通りだよ、カイ君」


 ルカは眼鏡の奥の瞳を冷たく細めた。


「彼らは、この大陸を覆う巨大な結界を維持するためだけに存在する、使い捨ての『動力源』だ。自我を殺され、ただ命が尽きるまで、祈りという名のエネルギーを吸い上げられ続ける。……それが、学術院の首席たちの行き着く終着点さ」


 沈黙が、カビ臭い書庫に重くのしかかった。


「……もし、その処置に耐えられなかったら?」


 カイが絞り出すように問うと、ルカは首を横に振った。


「魂が壊れてしまった者は、『神の試練に耐えられなかった欠陥品』として処理される。最下層へ捨てられ、別の怪しげな供物として消費されるだけだ。親や一般学生には『より高位の聖務に就き、俗世との関わりを絶った』と美化されて発表される。誰も真実を知らないし、知ろうともしない」


 カイは、強く、強く奥歯を噛み締めた。昼間のキャンパスの風景が脳裏に蘇る。


 屈託なく笑うテオや、真っ直ぐな瞳で人々の盾になりたいと夢を語るセリア。彼らは首席であるユリウスを心から尊敬し、自分たちもいつかあのように立派な存在になりたいと、疑うことなく純粋な努力を重ねている。


 だが、その努力の先にあるのは、自我を奪われ、ただの『生きた薪』として燃やし尽くされる地獄だ。教会は、その残酷な真実を美しい教義のオブラートで隠し、善良な若者たちの純粋な信仰心と向上心を煽り、自ら進んで生け贄の列に並ぶように仕向けているのだ。


(……ふざけてる)


 以前ルタムで見た、適性のない祈りを無理やり強制され、血を吐きながら炎を上げていた若者たちの姿が重なる。痛みを神への奉仕だと信じ込まされていた彼らと、名誉だと信じて地下へ下っていく選ばれし者たち。形は違えど、やっていることは同じだ。人間の命と心を、巨大な機構を回すためのただの使い捨ての部品としてしか見ていない。


「……ルカ。その大元の設計図である『原譜』は、やっぱりその深淵区画の奥にあるんだな」


 カイの声は、驚くほど低く、静かだった。だが、その底には、沸騰するような怒りの熱が孕んでいた。


「ああ。僕が探った限りでは間違いない。尖塔の最下層、生きた聖遺物たちが安置されているそのさらに奥だ」


 ルカは頷いた。


「分かった。……必ずユリウスの信仰を揺さぶって、俺たちをそこへ案内させる」


 カイは、革手袋の下の鋼鉄の拳をギリリと鳴らした。


「あいつらの命を勝手に使い潰すようなふざけた仕組みは、絶対に俺がぶっ壊す」


 カイの真っ直ぐな怒りに、ソフィアも力強く頷き、ルカは口元に微かな笑みを浮かべた。


「頼もしいね。君たちが地下への重い扉を開けてくれるのを、僕はこの上の退屈な書庫で首を長くして待っているよ。……それじゃあ、そろそろ戻る。あまり長く姿を消していると、鼻の利く連中に怪しまれかねないからね」


 ルカが法衣の襟を正すと、彼の身体の輪郭が再び陽炎のように揺らぎ始めた。


「気をつけてな、ルカ」


「君たちもね。……平和なキャンパスライフの裏には、底なしの泥沼が広がっていることを忘れないように」


 忠告を残し、青年の姿は古い本棚の木目と完全に同化して、音もなく消え去った。


 静寂が戻った書庫の中。高い窓から差し込んでいた夕暮れの光は、いつの間にか暗い影へと変わろうとしていた。


「……行くぞ、ソフィア」


 カイは踵を返し、書庫の出口へと向かって歩き出した。この学舎にいるのは、教会という巨大な機構に騙されている無邪気な若者たちだ。彼らを助け出すためには、ただ真実を語るだけでは足りない。彼らが信じて疑わない「神の奇跡」そのものを根底からへし折り、目を覚まさせるしかないのだ。


 カイは、夕闇に沈んでいく古い書庫を後にし、足早に歩を進めた。まずは、あの首席様の完璧な信仰に、もう一つ拭い去れない疑念の種を植え付けてやらなければならない。

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