第107話 日常の温度
聖学都市『ルキウム』へ潜入し、聖神学術院の「特例生」としての生活が始まってから、早くも数週間が経過していた。
カイとソフィアの二人は、それぞれ「聖譜が使えない可哀想な負傷兵」と「地方から来た教義解釈の天才」という完璧な偽装を演じきり、学術院のキャンパスライフにすっかり溶け込んでいた。
休日のルキウムの市街地は、スラムで暮らしていた頃には想像もつかないほど、穏やかで色彩に満ちている。白亜の城壁の内側に広がるメインストリートへと足を踏み入れると、広い石畳の大通りには、休日の羽伸ばしを楽しむ多くの市民や学生たちが行き交っていた。建物の壁面や路地の足元には、青白い光を放つエーテルの供給ラインが幾重にも這い回り、街路樹の緑と美しいコントラストを描いている。
「どうだ、カイ! これがルキウムの中央通りだぜ。田舎の修道院の周りじゃ、こんなに店が立ち並んでる景色なんて見たことないだろ?」
私服に身を包んだテオが、得意げに両手を広げてみせた。彼は今日、学術院の休日に合わせて、編入してきたばかりのカイとソフィアに「街を案内してやる」と買って出てくれたのだ。
「ああ。確かにすごいな。建物も道も、信じられないくらい綺麗だ」
カイは、首元の遺物によって茶色に偽装された前髪を揺らしながら、ごく普通の感嘆を浮かべて相槌を打った。すごい、というのは皮肉ではない。スラムのよどんだ紫色の霧や、ルタムの澱にまみれた景色を見てきた目からすれば、この街の清潔さと豊かさは異常なほどだった。すれ違う人々は皆一様に小綺麗で、飢えや病の気配は微塵もない。
だが、同時にその豊かさが「誰かの命をすり減らした澱」を生み出している事実を知っているカイにとっては、この美しい街並み全体が、巨大で不気味なハリボテのように見えていた。
「テオったら、自分の手柄みたいに自慢して。カイ君もソフィアちゃんも困ってるじゃない」
隣を歩くセリアが、呆れたようにクスリと笑った。彼女もまた、学術院の制服ではなく、淡い色合いの清楚な私服姿だった。普段の最上級生としての凛とした雰囲気から少し力が抜け、年相応の柔らかな表情になっている。
「いいじゃないですか、セリア先輩。案内役がいると助かるのは本当ですし」
ソフィアが、見慣れた白衣ではなく、街並みに溶け込むような落ち着いたワンピース姿で微笑み返した。彼女は完璧な「田舎の修道院から来た秀才」の演技をこなしつつ、その実、道を行き交うエーテル駆動の車両や、街の地下に張り巡らされたエネルギー供給網を、研究者としての冷徹な眼差しで密かに分析していた。
「ほら、見てみろよ! あの中央広場の時計塔!」
テオが指差した先には、白大理石で造られた巨大な時計塔がそびえ立っていた。文字盤の周囲には水が循環するガラスの管が這わされており、水流の力と青白い発光現象が連動して、正確に時を刻んでいる。
「毎朝、教会の神官様たちが捧げる祈りの力で、あの中の水がずっと循環し続けてるんだ。神様の恵みで時間が分かるなんて、すごいよな」
「……見事なものね」
ソフィアが、テオには聞こえないほどの小声でカイに向けて呟いた。
「市民や神官の祈りを中央に集め、そこからインフラの動力として街中に再分配している。……本当に、無駄が多いけれど」
「だろうな。……平和に見えるが、全員が教会のシステムを動かすための『動力源』にされてるってわけだ」
カイも小声で返す。悪意のある独裁者なら、引きずり下ろせば済む。だが、この街を支配しているのは「善意と信仰」だ。誰も教義を疑わず、自分たちの祈りが地下で化け物を育てていることに気づいていない。少しでも教義に疑問を持てば、この美しい街のインフラから弾き出される。それは、目に見えない同調圧力という名の完璧な牢獄だった。
「おーい! カイ、ソフィアちゃん! こっちこっち!」
広場の方からテオが大きく手を振っている。カイたちは密語を止め、足早に彼らの元へと向かった。
広場には、色とりどりの天幕を張った屋台が並び、甘い香りが漂っていた。テオが陣取っていたのは、大きな木桶に水を張り、その中に色鮮やかな果実の果汁を流し込んだ小さな器を並べている屋台だった。
「おじさん、これ四つくれ!」
テオが硬貨を渡すと、恰幅の良い屋台の主人がにこやかに頷き、両手を木桶にかざした。
「浄玻璃よ。恵みの水を、冷ややかなる氷へと変え給え」
主人が短い聖句を唱えると、木桶の中の水がパキパキと音を立てて凍りつき、水に浸かっていた器の中の果汁もあっという間に色鮮やかな氷菓へと変わった。
「おおーっ!」とテオが歓声を上げる。
「すごいですね。とても綺麗な浄玻璃の祈りです」とセリアも感心したように拍手をした。
(……相変わらず、無駄に大げさな発光とエネルギーの垂れ流しだな)
カイは内心で呆れ返った。だが、手渡された氷菓は、あちら側の世界の冷凍庫から出したばかりのようにしっかりと冷気を帯びている。
「ほら、カイ。田舎じゃこんな冷たいお菓子、滅多に食えないだろ? 俺のおごりだ」
テオが、得意げにソーダ色――いや、この世界にある何かの青い果実の味らしい氷菓を渡してくる。
「……あ、ああ。悪いな」
カイは革手袋の左手でそれを受け取った。ソフィアも「いただきます」と上品に受け取り、セリアは嬉しそうにひとくち口へ運んだ。
「冷たくて美味しいわ。今日みたいな暖かい日にはぴったりね」
セリアが目を細め、幸せそうに微笑む。
「ですよね! ここの屋台のおじさんの祈りは、この広場で一番よく冷えるんっすよ」
無邪気に笑い合う彼らを見て、カイも手元の氷菓を一口かじった。シャリッ、と冷たい感触と共に、爽やかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。果実の酸味と、砂糖に似た甘味料の味。
その瞬間。カイの脳裏に、この異世界に落ちてくる前の、あちら側の世界の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。
『今日帰り遅い?』 『アイス買ってきて。ソーダ味のやつ』
遠く離れた地下拠点に置いてきたカバン。その中に眠っている、画面が割れて二度と起動することのないスマートフォン。そこに残されているはずの、妹・結からの未読メッセージ。
茹だるような夏の暑い日。部活から帰ってくると、結はいつもエアコンの効いたリビングのソファに寝転がり、スマホから視線を上げることもなく「おかえり」とも言わずに足でスペースを空けるだけだった。干渉し合わない、ドライな兄妹関係。退屈で、凪いだような日常。でも、たまにカイがコンビニでソーダ味のアイスキャンディーを買って帰ると、少しだけ機嫌を直して、無言でそれを受け取って食べていた。冷気で結露した透明なプラスチックの袋を破る、あのカシャカシャという些細な音。
(……アイス、買って帰れなかったな)
あの日、カイは異世界に放り込まれ、結のメッセージに既読をつけることすらできなかった。スラムで泥水をろ過して飢えを凌ぎ、騎士団の炎に焼かれ、右腕を失いながら戦ってきた。その過酷な日々の中で、あちら側の「退屈な日常」が、どれほど愛おしく、どれほど帰りたくなるような宝物だったかを、カイは痛いほどに思い知らされていた。
「どうしたの、カイ? 口に合わなかった?」
ふと、セリアが心配そうな顔でカイを覗き込んできた。テオも「お、田舎者には冷たすぎたか?」とからかってくる。
「……いや。すごく美味いよ。……美味すぎて、ちょっと昔のことを思い出しただけだ」
カイは、偽装された茶色の前髪を軽く揺らし、無理やり口角を上げてみせた。
「そっか。修道院に残してきた家族のこと?」
セリアが優しく微笑む。
「……まあ、そんなとこです」
カイは手元の氷菓を見つめた。この氷菓を作った祈り。それが生み出す澱が、地下で化け物を育てている。教会のシステムは間違っているし、根本から狂っている。だが、目の前で笑っているテオやセリアは、ただの「普通の若者」なのだ。美味しいものを食べて喜び、休日の街歩きを楽しむ、どこにでもいる学生たち。あちら側の世界にいるクラスメイトたちと何も変わらない。
教会は、この善良な若者たちを騙し、彼らの祈りを動力源として使い潰そうとしている。そして何より、奴らはすでに、あちら側の世界から無関係な人々を強制的に召喚し、新たな結界の燃料にするという凶行に手を染めているのだ。
サカキたち同郷の人間は間一髪で救い出すことができたが、何も知らない人々を勝手に引きずり込み、言葉も通じない絶望の中で生贄にしようとした教会のやり方は、到底許されるものではない。
(……絶対に、ぶっ壊してやる)
カイは、冷たい氷菓を噛み砕きながら、左手の革手袋を強く握り込んだ。
俺は、俺の日常を取り戻すために戦う。そして、目の前で無邪気に笑っているこのお人好しな連中が、これ以上勝手に使い潰されないように、あの胸糞悪いシステムを根元から解体してやる。
「おいカイ、早く食わねえと溶けちまうぞ!」
「あ、本当だ。私のも溶けてきちゃった」
騒ぐテオとセリアを見て、ソフィアが「慌てないの」と苦笑している。
和やかな休日の広場。どこにでもあるような、若者たちの平和な風景。カイは、その眩しい景色をしっかりと目に焼き付けながら、自らの内に秘めた決意の刃を、静かに、そして鋭く研ぎ澄ませていた。




