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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
盲信の学舎

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第106話 論理の解釈者

 柔らかな陽光が、丸みを帯びたアーチ窓から石造りの講堂へと降り注いでいる。


 黒板の代わりに用意された巨大な石板の前で、深い青色の法衣を纏った教官が、重々しい声で講義を続けていた。


「――故に、我らが振るう聖譜(スコア)は、常に神の定めた七つの色……『七つの聖譜(セプテット)』のいずれかに属する。火を灯す熾熱(イグニス)。風を呼ぶ蒼天(アエリス)。大地を固める豊穣(テラ)。これらは独立した奇跡であり、みだりに交わらせることは教義において戒められている」


 教官の言葉を、階段状に配置された机に座る数十人の学生たちが、熱心に羽ペンを走らせて羊皮紙に書き留めている。彼らの姿勢は文字通り一糸乱れぬものであり、誰一人として居眠りをしたり、退屈そうに窓の外を眺めたりする者はいない。


 最後列の端に座るカイだけが、手元のノートに何も書かず、ただ静かに教官の言葉を観察していた。


(……相変わらず、面倒くさい理屈だな)


 首元に巻いた古代の遺物であるチョーカーが、カイの黒髪と黒い瞳を平凡な茶色へと偽装している。そして机の下で組まれた左手の耐熱グローブと、右手の鋼鉄の義手。彼は「事故で魂が傷つき、聖譜が使えなくなった特例生」という建前を盾に、実技を免除され、こうして座学でもただ座っているだけの存在として扱われていた。


 教官の語る『七つの聖譜』の独立性。それはつまり、火を燃やすために酸素を操ったり、水を凍らせるために熱を奪ったりする「複合的なアプローチ」を禁じているということだ。現代科学の視点から見れば、あまりにも不自由で非効率な縛りである。だが、この学術院の生徒たちはそれを「神の定めた絶対のルール」として微塵も疑っていない。


「では、ここで一つ問うとしよう」


 教官が石板の前に立ち止まり、学生たちを見渡した。


熾熱(イグニス)の譜を用いて、より純度の高い、そして大いなる炎を生み出すにはどうすべきか。……誰か、教義に基づいた解釈を述べてみなさい」


 静寂が講堂を包む。すぐに数人の学生が静かに挙手をした。教官は、その中の一人の男子学生を指名した。


「答えます。炎とは神の怒りであり、不浄を焼き尽くす浄化の光です。故に、術者自身の魂の内にある『罪への悔恨』と『悪を憎む心』をより強く燃え上がらせることこそが、炎を大きくするための最良の道であると考えます」


「うむ。聖典(カノン)の模範解答だ。感情の昂りこそが、祈りの力となるからな」


 教官が満足そうに頷く。学生たちは「なるほど」と真剣な顔でメモを取っている。


(……バカか。そんな感情任せで火力を上げようとするから、余分なエネルギーが熱と光になって漏れ出すんだ)


 カイは内心で冷たく毒づいた。気合や怒りで火が大きくなるなら、ガスバーナーのバルブはいらない。彼らのその「精神論」が、莫大なエネルギーのロス――『澱』を生み出し、地下で化け物を育てている原因なのだ。


「他に、異なる解釈を持つ者はいるか?」


 教官が再び問いかけた時。カイの隣の席で、静かに手が挙がった。


「……よろしいでしょうか、教官」


 立ち上がったのは、ソフィアだった。いつもの白衣ではなく、仕立ての良い学術院の制服を身に包んだ彼女は、姿勢を正し、澄んだ声で話し始めた。


「私は、感情の昂りだけが炎を育てるのではないと考えます」


 その言葉に、講堂の空気がわずかにざわめいた。教義の基本である「信仰と感情」を否定しかねない危うい発言だ。教官もまた、少しだけ眉をひそめた。


「地方からの編入生、ソフィアよ。ならばお前は、何が炎を育てると言うのか」


「神が定めた『調和』です」


 ソフィアは、黒板の前に立つ教官を真っ直ぐに見据えたまま、よどみなく言葉を紡いだ。

熾熱(イグニス)の炎は、神が与え給うた『母なる薪(マテル)』を糧として燃え上がります。しかし、薪がどれほど立派でも、それだけでは炎は息絶えてしまいます。炎が生きるためには、空間を満たす『精霊の息吹(スピリトゥス)』……すなわち、蒼天(アエリス)の導きが必要不可欠なのです」


 学生たちが互いに顔を見合わせた。属性を交わらせることは禁忌だと、つい先ほど教官が語ったばかりだ。


「ソフィア。熾熱と蒼天の属性をみだりに交わらせることは……」


「交わらせるのではなく、寄り添わせるのです」


 ソフィアは教官の言葉を遮り、さらに一歩踏み込んだ。


「熾熱の聖句を紡ぐ際、怒りや悔恨で無理に薪を燃やそうとするのではなく、周囲にある精霊の息吹の流れを妨げないように、心に『静かなる隙間』を作ること。そうすれば、神の息吹は自然と薪へと流れ込み、二つの恵みは完全に結びつくのです。結果として、術者が無駄な力を込めずとも、炎は神の理に沿って最も効率よく、そして美しく燃え上がるはずです」


 水を打ったような静寂が、講堂を支配した。


(……あいつ、完全に『燃焼の三要素』と『酸素供給』のプロセスを、教会のポエムに翻訳してやがる)


 カイは、隣で堂々と立っている相棒の姿に、呆れ半分、感心半分の溜息を漏らしそうになった。


 ソフィアが語っているのは、純粋な化学反応の理屈だ。だが彼女は、それを「神学的な解釈」のオブラートで完璧に包み込んでいる。「酸素の供給」を「精霊の息吹の導き」と表現し、「燃焼効率の最適化」を「神の理に沿った調和」とすり替えたのだ。


「……なんという……」


 教官が、目を見開いて絶句していた。


「火の猛りの中に、風の通り道を作る……。相反するものを交わらせるのではなく、自然な摂理として結びつける。それは確かに、聖典の奥深くに記された『万物の調和』に通ずる解釈だ……」


 教官の震える声に、学生たちの間に今度は感嘆のざわめきが広がった。


「すごい……あんな解釈、聞いたことがないぞ」 「彼女の祈りの光が澄んでいたのは、怒りではなく調和を求めていたからなのか……」


 異端審問にかけられてもおかしくないギリギリのラインを攻めながら、圧倒的な論理の美しさで教官すらもねじ伏せてしまった。


「……見事だ、ソフィア。お前の解釈は、我が学術院に新たな風を吹き込むものかもしれん」


 教官が深く頷き、ソフィアは「恐れ入ります」と優雅に一礼して席についた。


 座った瞬間、彼女はカイの方をちらりと向き、片目をつぶって得意げにウィンクしてみせた。カイは机の下で、仕方ないなというように親指を立ててみせた。


 午後の講義が終わり、放課後の穏やかな時間がやってきた。


 白大理石の柱が並ぶ中庭には、丸いテーブルと優雅な装飾が施された白い鉄製の椅子が配置され、学生たちの憩いの場となっている。噴水から湧き上がる清らかな水音が、スラムでは決して聞くことのできない平和な旋律を奏でていた。


「いやあ、今日のソフィアの回答は本当に凄かったな! あの偏屈な教官が、あんなに褒めちぎるなんてめったにないんだからな!」


 テオが、テーブルの上に身を乗り出すようにして興奮気味に言った。彼の手には、学術院の購買で買ってきたらしい、甘い香りのする焼き菓子が握られている。


「本当ね。あんな美しい教義の解釈、私、初めて聞いたわ」


 隣に座るセリアも、手元のティーカップを優雅に傾けながら、心から感心したように微笑んだ。


「もしかしたら、『聖選生(せいせんせい)』のユリウス様でさえ、あそこまで深い解釈は思いつかないかもしれないわね」


 聖選生。教団から特別に選別された、深淵への立ち入りを許されるトップエリートたちの呼称。カイはその名を聞いて、昨日の回廊で見た怜悧な青年の後ろ姿を思い出した。彼こそが、大元の設計図である『原譜』への鍵だ。


「お二人とも、褒めすぎよ。私はただ、古い文献を読んでいただけだもの。神の御心に、少しだけ近づこうとしただけよ」


 ソフィアが、謙遜するように目を伏せ、完璧な「優等生」の演技を披露する。


「謙遜することないって! 地方からの編入生が、いきなり学年トップの秀才だなんて、物語みたいで格好いいじゃないか」


 テオが屈託なく笑い、カイの方へポンと肩を叩いた。


「な、カイもそう思うだろ?」


「ああ。まあ、こいつはちょっと理屈っぽいところがあるからな」


 カイは、偽装用の茶色い髪を軽くかき上げ、ごく普通の苦笑いを浮かべてみせた。聖譜が使えない欠陥を抱えた特例生。それが今のカイの立ち位置だ。テオのこの無遠慮な気さくさは、裏表がなくて嫌いではなかった。


「でも、すごいよね。ソフィアちゃんみたいに神様の教えを深く理解できれば、もっと無駄のない、優しい祈りが捧げられるのに」


 セリアが、少しだけ羨ましそうに息を吐いた。彼女の眼差しは、どこまでも澄んでいて、悪意の欠片もない。


「この前、首都の聖騎士団に配属されるって言ってたよな。向こうに行ったら、やっぱり最前線で怪物を討伐する部隊に入るのか?」


 カイが、セリアのその真っ直ぐな言葉を受けて、手元のカップを指でなぞりながら尋ねた。彼女はこの学術院の最上級生であり、卒業は間近に迫っている。


「ううん、違うの。私は首都の防衛隊……街や人々を直接警護する部隊への配属を希望しているわ」


 セリアはティーカップを置き、真っ直ぐな瞳で答えた。


「防衛隊、か」


「ええ。今日、ソフィアちゃんの解釈を聞いて分かったの。神様の『理』は、私たちが思っていたよりもずっと深くて、慈愛に満ちているんだって」


 セリアは、希望に満ちた声で言葉を紡ぐ。


「私、もっと勉強するわ。そうすれば、神様はきっと力を貸してくれる。……首都の街で怪物に怯えている人たちを、誰も傷つかないように守り抜ける『立派な盾』になれると思うから」


 純粋な自己犠牲の精神。誰かを助けたいという、曇りのない願い。その真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥には、氷のような冷たさが急速に広がっていた。


(……こんな純粋な願いすら、あのシステムは狂信の燃料に変えちまうのか)


 ソフィアが先ほどの講義で提示した解釈は、神の奇跡でもなんでもない。ただの純粋な「燃焼効率の最適化」という科学的な物理法則だ。


 だが、セリアたちにとって、それは「神の理の奥深さ」に変換されてしまう。未知の理論や、常識を覆すような理屈を突きつけられても、彼らは決して「教会の教えが間違っているのではないか」とは疑わない。すべてを「神の偉大さ」という都合の良い箱の中に放り込み、彼女たちの純粋な向上心すらも自動的に信仰の強化へと繋げてしまうのだ。


 これこそが、狂信の完成形。どんなに正しい「論理」を提示しても、それを無意識のうちに「信仰」の燃料へと変換してしまう、恐るべき思考停止の牢獄。


 目の前で無邪気に努力を誓うセリア。彼女のこの優しさや向上心すらも、教会という巨大な機構にとっては、狂信の歯車を滑らかに回すための極上の潤滑油でしかない。


 いずれ彼女は首都へ送られ、過酷な洗脳と任務の中で、その純粋な正義感を「神の敵を排除するための狂気」へとすり替えられてしまうだろう。何も疑うことを知らない彼女は、自らの意志で、笑顔のまま、誰かを殺すための剣になってしまうのだ。


 悪意のある人間を倒すのは簡単だ。だが、この学術院にいるのは、教会が作り上げた完璧な「善意の部品」たちだ。彼らをこの狂信の牢獄から救い出すためには、ただ怪物を倒すだけでは足りない。彼らが信じて疑わない「神の奇跡」そのものを、根底から解体し、真実を突きつけるしかない。


「どうしたの、カイ? 紅茶、冷めちゃった?」


 ソフィアが、カイの僅かな変化を察して小声で尋ねてきた。


「……いや。なんでもないよ」


 カイは、偽装された茶色の前髪を軽く揺らし、普通の特例生としての穏やかな笑みを浮かべてみせた。


「セリア先輩が立派な聖騎士になるのを、応援してるって思ってただけだ」


「ふふ、ありがとう、カイ君」


 セリアが嬉しそうに微笑み、テオも「セリア先輩なら絶対になれるさ!」と明るく笑った。


 和やかな午後のティータイム。どこにでもあるような、若者たちの平和な日常風景。だが、カイはテーブルの下で革手袋に覆われた右手の義手を強く握り込んだ。


 カイの黒い瞳の奥には、この狂った思考システムを大元から粉砕し、彼らを縛る見えない鎖を断ち切るという、冷たく静かな決意の炎が灯っていた。

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