第104話 白亜の箱庭
大陸全土を覆う結界の完全解体。その途方もない大目標に向けた作戦が立案されてから、数週間の月日が流れていた。
地下施設『ハビタ・ゼロ』の作戦会議室。冷たい鉄の円卓に浮かび上がる青白い光の立体地図は、これから踏み込むべき敵の中枢、聖学都市『ルキウム』の構造を無機質に描き出している。
「ルカが手配した潜入ルートと、偽造身分の最終確認は済んだな?」
円卓の上座で、指揮官のゲルハルトが銀縁眼鏡を押し上げながら室内のメンバーを見渡した。
「ええ。問題ないわ」
白衣姿のソフィアが、手元の石板型デバイスを操作しながら答える。
「……で、どうやってあの塔の奥底まで潜り込むんだ?」
カイは、静かに蒸気を吐き出す右腕の義手を机の上に置き、立体地図の中心にそびえ立つ巨大な尖塔――結界の大元の設計図である『原譜』が保管されているとされる『聖譜監獄』を指差した。
「正面から軍隊をぶつけて勝てる相手じゃないのは分かってる。だが、隠れて忍び込むにしても、あの塔のセキュリティはスラムの砦とは比べ物にならないくらい厳重だろう」
「その通りだ。『原譜』が眠るとされる深淵区画への扉は、物理的な鍵や単純な暗証番号で開くようなものではない。……『魂の波長』を読み取る、教団独自の生体認証システムによって固く閉ざされている」
「魂の波長……指紋や網膜の代わりってことか」
「無理やり物理的に破壊しようとすれば、即座に都市全体に警報が鳴り響き、聖騎士団の精鋭が雪崩れ込んでくるわ」
ソフィアが補足する。
「厄介だな。誰の魂でもいいってわけじゃないんだろ?」
「当然だ。その扉を開ける権限を持っているのは、一部の高位聖職者と、教団によって特別に選別された『特別聖選生』……いわゆる『聖選生』だけだ」
聖選生。その言葉に、カイは少しだけ眉をひそめた。学校の成績優秀者が選ばれるような響きだが、この狂った世界において、教団が特別扱いする人間がまともな役目を負わされているとは思えなかった。
「その聖選生ってのは、どうやって選ばれるんだ? 今から俺たちが、試験か何かでその枠に滑り込むことはできないのか?」
「不可能ね。ルカからの情報によれば、聖選生候補は幼少期に行われる洗礼儀式の時点で、魂の密度やエーテルへの同調率を測られ、すでに既定路線として選別されているわ。彼らは神の側で奉仕する至上の名誉を与えられる存在として、徹底した純粋培養を受けている。外部から突然現れた者が、新規にその枠へ入ることは絶対にできないシステムよ」
「……なるほど。じゃあ、その扉を開けるための『鍵』はどうやって手に入れる?」
カイの問いに、ゲルハルトはわずかに口角を上げた。冷徹な指揮官が時折見せる、獲物を罠にはめる狩人の笑みだった。
「鍵を作るのが無理なら、すでに鍵を持っている者に開けさせればいい」
ゲルハルトは円卓の操作盤を叩き、ルキウムの立体地図を拡大した。尖塔の周囲には、広大なキャンパスが広がっている。
「現在、ルキウムにある大学機関――『ルキウム聖神学術院』の最上級生の中に、近々、地下の深淵区画へと送られる予定のトップエリートの聖選生がいるそうだ。……君たち二人にはルカの手引きで一般の学生として裏口入学してもらい、その聖選生に接触する。そして彼が地下へ向かう直前の混乱に乗じて、深淵への扉を開けさせるのだ」
潜入工作。正面からの殴り合いではなく、敵の懐に入り込み、相手のルールを利用して目的を達成する。確かに、今のレジスタンスの戦力で教団の心臓部から『原譜』を奪うには、それしか方法はない。
だが、カイにはどうしてもクリアしなければならない大きな問題があった。
「俺が学生として潜入するって……本気で言ってるのか?」
カイは、自分の黒い前髪を左手でかき上げ、それから机の上の鋼鉄の右腕をコツンと叩いた。
「スラムの連中だって、俺のこの黒い髪と黒い瞳を見ただけで『聖典にない悪魔の色だ』って大騒ぎしたんだぞ。おまけに、俺の魂はエーテルを弾く絶縁体で、聖譜のすの字も使えない。こんな蒸気を吹く義手までぶら下げて、神学の最高学府に紛れ込めるわけがないだろ」
カイの指摘はもっともだった。この世界において、黒は不吉の象徴であり、聖譜を使えない者は無能の烙印を押される。教会のエリートたちが集う場所で、カイの存在は異物以外の何物でもない。
「その点については、対策済みよ」
ソフィアが、白衣のポケットからくすんだ銀色のチョーカーを取り出した。
「プロメテウスの職人たちが地下遺跡から発掘した、古代の遺物よ。そこに、ルカの能力である『光学的偏光』の波長を定着させてある。これを身につけていれば、光の屈折率を偽装して、貴方の髪や瞳の色をごく一般的な茶色に見せることができるわ。義手も、ただの革手袋をはめているように誤認させられる」
ソフィアはチョーカーをカイの首に回して留めた。すると、カイの視界の端で、自分の黒い前髪が、光の加減でくすんだ茶色へと変化したように見えた。完全な透明化ではないが、パッと見の印象を誤魔化すには十分な精巧さだ。
「……なるほど。見た目はこれでなんとかなるとして、聖譜が使えない問題はどうする?」
「それこそが、今回の潜入における最大の『偽装』だ」
ゲルハルトが、分厚い羊皮紙の書類の束をカイの前に滑らせた。
「ルカが用意した、君の偽造身分証明書だ。……君は、辺境の修道院で起きた事故に巻き込まれ、名誉ある負傷を負った特例編入生という設定になっている」
カイは書類に目を落とした。そこには、見慣れない文字でびっしりと経歴が書き込まれていた。
「事故で魂が深く傷つき、エーテルと共鳴する適性を完全に失ってしまった。つまり、聖譜が使えなくなった哀れな負傷兵だ。だが、その過酷な試練の中でも決して信仰心を失わなかった敬虔な姿勢が評価され、都市の中心にある最高学府――『ルキウム聖神学術院』への特例編入を許された……というシナリオだ」
「……魂が傷ついて、適性を失った特例生、か」
カイは書類をパラパラと捲りながら、小さく息を吐いた。
「これなら、俺が授業で一切の聖譜を使えなくても、退学になることはない。むしろ、教官や他の生徒たちは『神の恩寵を感じられなくなった可哀想な奴』として、同情的な目で見てくれるってわけだな」
「そういうことよ。欠陥を隠すのではなく、公認の欠陥として堂々と振る舞うの」
ソフィアが満足そうに頷く。
「ちなみに私は、地方の修道院で見出された『優秀な教義の解釈者』として編入するわ。私が優等生として教官たちの目を引きつけている間に、貴方は無害な特例生として、ターゲットである聖選生に接近してちょうだい」
「分かった。……しかし、ルカって人は随分と有能なんだな。敵のど真ん中で、こんな完璧な偽造書類を手配できるなんて」
「ええ。彼は飄々としているけれど、情報と潜入のスペシャリストよ。……ルキウムに入ったら、彼が人気のない書庫などで密かに接触してくるはずだわ」
「それと、もう一つ潜入における重要な注意点がある」
ゲルハルトが、円卓の立体地図――白亜の都市を指差して言った。
「ルキウムは『神の記憶庫』と呼ばれるだけあり、市民の信仰心に応じて高純度のエーテルが生活インフラとして都市の隅々にまで配給され、地下や壁面を絶えず循環している。……つまり、都市全体が強烈なエーテルの環境ノイズに覆われている状態だ」
「……なるほどな。それだけ高密度のエーテルが街中に飛び交ってりゃ、俺たちのエーテル共鳴通信は深刻なジャミングを受けるってわけだ」
カイが眉をひそめると、ソフィアも険しい顔で頷いた。
「ええ。教会の分厚い結界と異常な環境ノイズに阻まれて、潜入中は地下本部のシエロやエリスからの遠隔サポートは受けられないわ。……私と貴方の二人だけで結ぶ、局所的なリンクしか使えない」
「上等だ。俺とあんたの二人の連携なら、問題ないだろ」
作戦の骨子は固まった。あとは、実行するだけだ。
「カイ。ソフィア」
ゲルハルトが、円卓に手をついて二人を真っ直ぐに見据えた。
「これは、我々の世界の存亡を懸けた作戦だ。ルキウムの狂信の中で、決して自分を見失うな。……頼んだぞ」
「ああ。分かってる」
カイは立ち上がり、首元の遺物にそっと触れた。右腕の義手が、微かにプシュッと蒸気を吐き出す。
「このふざけた箱庭の設計図、必ずぶっこ抜いてくる」
出発の朝。地下施設『ハビタ・ゼロ』の隠し通路の前に、実働部隊の面々や、裏方として働き始めている同郷の漂流者たちが集まっていた。数週間の間に、彼らは完全にこのアジトの強固な基盤として機能し始めていた。
「おい、カイ。向こうで美味いもんがあったら、こっそり持ち帰ってきてくれよな。ここの芋スープにはもう飽き飽きだ」
ジャンが、プロメテウスで新調された大盾を背負いながらガハハと笑う。彼の左半身を覆う黒鉄のプロテクターが、鈍い光を放っていた。
「あんたの図体じゃ、いくらあっても足りないだろうけどな」
「気をつけなさいよ、二人とも。教会のエリートなんて、鼻持ちならない連中ばかりなんだから。……ヤバくなったら、いつでもあたしが雷で壁をぶち抜いて助けに行ってあげるわ」
ヴァレリーが、火傷の痕が残る腕を振り回して豪語する。
「その時は遠慮なく頼むよ。……ヴィクトル、また道中世話になる」
「……ああ。振り落とされるなよ」
灰色のフードを目深に被ったヴィクトルが、短く答える。今回も、教会の監視網を避けてルキウムの近郊まで向かうため、彼の『慣性制御』による強行軍で距離を稼ぐのだ。
「カイ君」
作業着姿のサカキが、人混みをかき分けて前に出てきた。彼の手は油で黒く汚れているが、その表情には職人としての確かな誇りが宿っている。その後ろには、アジトの物流を管理し始めたリチャードや、救急キットを整理しているアンナの姿もあった。
「右腕の調子が悪くなったら、無理せずにすぐに戻ってこいよ。俺と親方で、いくらでも直してやるからな」
「ありがとうございます、サカキさん。……皆さんも、ここを頼みます」
カイがリチャードやアンナたちに向かって日本語で言うと、リチャードは胸に手を当てて深く一礼し、アンナは傍らの少年マテオの肩を抱きながら力強く頷いた。言葉は通じなくとも、この地下拠点を守り抜くという彼らの意志は、痛いほどに伝わってきた。
「カイさん、ソフィアさん……。どうか、ご無事で」
白杖をついたエリスが、心配そうに二人の方向を向いて祈るようにつぶやき、ヘッドフォンを首にかけたシエロも「通信のバックアップは任せてください」と力強く胸を叩いた。
「ええ、行ってくるわ。みんな、留守はお願いね」
ソフィアが白衣の裾を翻し、ヴィクトルの用意したワイヤーのハーネスを腰に装着する。カイもそれに倣い、仲間たちの温かい視線を背に受けながら、長く暗い地下通路へと足を踏み出した。
数時間の過酷な強行軍を経て、ヴィクトルの牽引によってルキウムの近郊まで到達したカイとソフィアは、そこで彼と別れ、徒歩で都市の正門へと向かった。
丘を越え、視界が開けた瞬間、カイは思わず足を止めて息を呑んだ。
「……これが、教会の直轄領か」
眼下に広がるのは、これまでカイが見てきたスラムの薄汚れた瓦礫の山や、ルタムのよどんだ空気とは完全に次元の違う光景だった。
巨大な城壁に囲まれた都市全体が、純白の大理石で造り上げられているかのように眩く輝いている。建物の屋根は統一された青や銀で彩られ、広い石畳の街道には塵一つ落ちていない。
そして何より目を引くのは、都市の地下や建物の壁面を這うようにして走る、無数の青白い光のラインだった。
「あれが、この都市に配給されている純度の高いエーテルよ」
ソフィアが、片目に装着した観測鏡越しに都市を見下ろしながら言った。
「ルキウムは『神の記憶庫』。ここでは、市民の祈りの量……信仰の深さに応じて、生活インフラとしてのエーテルが厳格に配給されているの。祈りが純粋であればあるほど、都市は美しく輝き、豊かな生活が保証される」
「……祈りを燃料にして、この見栄えのいい箱庭を維持してるってわけか。気味が悪いな」
カイは、その白亜の美しさの裏に隠された、息の詰まるような同調圧力を直感的に感じ取っていた。少しでも教義から外れれば、その光は奪われ、異端として排斥される。誰もが互いの信仰心を監視し合い、笑顔の下で息を潜めている、ディストピア的な管理社会。
都市の中央には、天を衝くような巨大な尖塔――『聖譜監獄』が、周囲を睥睨するようにそびえ立っている。あそこが、すべての元凶のデータが眠る場所。
「行くわよ、カイ。……この綺麗に塗り固められた箱庭の裏側、じっくり観察させてもらいましょう」
「ああ。どんなイカれたシステムが隠れてるか、しっかり見定めてやろう」
カイは、首元の遺物にそっと触れた。自分の黒い髪が、周囲には平凡な茶色に見えているはずだ。鋼鉄の義手も、革手袋の偽装の下で静かに息を潜めている。
二人は、ルカが用意した偽造の身分証明書を手に、白亜の都市の城門へと歩みを進めた。
門の警備にあたる聖騎士たちは、書類の紋章と二人の魂の波長を簡単な魔導具で確認すると、あっさりと通行を許可した。カイの魂からエーテルの共鳴が感じられないことも、書類にある「特例生」という設定のおかげで、憐れむような視線を向けられるだけで済んだ。
門をくぐり、学術院のキャンパスへと続く大通りに出る。
すれ違う市民や学生たちは、皆一様に清潔な服を着て、穏やかな微笑みを浮かべていた。街角には澱の怪物の姿などなく、どこからか美しい讃美歌のコーラスが聞こえてくる。
スラムの地獄が嘘のような、和やかで平和な風景。
だが、カイの右腕の義手は、この都市に満ちる高純度なエーテルの圧迫感を感じ取り、かすかに防衛本能のような駆動音を鳴らしていた。




