第102話 託される思い
大陸全体を覆う結界を完全に解体し、溜まりすぎたエネルギーを地球へと還流させる。カイが作戦会議室で宣言したその途方もない計画は、レジスタンスの地下拠点『ハビタ・ゼロ』の空気を一変させていた。
世界が内側から弾け飛ぶという絶望的なタイムリミットを突きつけられながらも、彼らの間に悲壮感はない。明確な目標が定まったことで、拠点全体が巨大なひとつの歯車のように、静かに、そして熱を帯びて駆動し始めていた。
冷たい鉄の通路を、カイはゆっくりと歩いていた。今後の作戦立案に向けて各部門が慌ただしく動き始めている中、少しだけ喧騒から離れ、一人で思考を整理するためだ。黒鉄と聖銀のラインで構成された右腕の義手が、歩調に合わせて微かな排気音を立てる。その重みは、これからの戦いで自分が背負うものの質量そのもののように感じられた。
居住区画の広間を通りかかると、そこには数日前のような暗い影は一切なかった。星見の祭壇から救出してきた同郷の漂流者たち。彼らは、もう怯えて部屋の隅に固まってはいなかった。
広間の中央では、初老の男リチャードが大きな黒板の前に立ち、チョークを片手に白熱した議論を交わしていた。向かいで腕を組んでいるのは、指揮官のゲルハルトだ。
『……現在の三つのルートに依存するのはリスクが高すぎます。ダミーのルートを構築し、物資の流れを分散させるべきです』
リチャードが流暢な英語とフランス語を交えながら、チョークで物資の流通網を図解していく。言葉の壁はあるが、数字と図表という共通言語を通じて、ゲルハルトは銀縁眼鏡の奥で鋭く目を細め、深く頷いた。
「なるほど。聖譜による隠蔽に頼らず、物理的な流通のフェイクで敵の目を欺くか。……異界の相場感覚とやらは、我々の兵站を劇的に進歩させてくれそうだ」
少し離れた医療スペースのガラス越しには、青いナース服を着たアンナの姿が見えた。彼女は医療主任であるヘレナの横で、身振り手振りと簡単な英単語を交えながら、使用済みのメスやピンセットを熱湯の入った鍋に入れるよう強く主張していた。
ヘレナは元々「祈りで傷は塞がらない」と公言し、化学反応を用いた薬品精製で治療を行うリアリストだ。教会の非効率な聖譜に見切りをつけている彼女にとって、アンナが持ち込んだ「目に見えない細菌を熱で死滅させる」という現代医療の徹底した衛生観念は、非常に理にかなったものとして映ったらしい。
「……なるほど。傷口の化膿を防ぐための、物理的な予防策というわけね。理解できるわ。今日からこの拠点の衛生基準は彼女に合わせるわよ」
ヘレナが感心したようにタバコの煙を吐き出すと、アンナはホッとしたように胸をなでおろした。その足元では、浅黒い肌の少年マテオが、アンナの指示に従って煮沸消毒された包帯を一生懸命に干している。
さらに奥の搬入スペースでは、傍らに自転車のヘルメットを置いた配達員の若者ジェイソンと、タトゥーの入った格闘家ケオニが、その屈強な体格を活かして、プロメテウスの職人たちと一緒に重い資材を荷車に積んでいた。彼らの間には、言葉の壁を越えた奇妙な連帯感が生まれているようだった。
カイは、立ち止まってその光景を見つめた。
あちら側の平和な世界から、突然狂った物理法則が支配する地獄へ放り込まれた人々。どれほど絶望してもおかしくない状況だ。だが彼らは、ただ救われるのを待つ被害者であることをやめ、それぞれの知識や経験を武器にして、このアジトの重要な「裏方」として機能し始めている。
(……すごいな。人間ってやつは)
カイの口元に、自然と微かな笑みが浮かんだ。スラムでたった一人、孤独にこの世界の理不尽と戦っていた頃は、すべてを自分の手でどうにかしなければならないと思い込んでいた。だが今は違う。彼らはそれぞれが、この狂った世界で自分の「役割」という名の足場をしっかりと固めている。
「おお、カイ君じゃないか」
不意に、日本語で声をかけられた。通路の奥から歩いてきたのは、油汚れがこびりついたロゴスの制服を着こなしたサカキだった。彼は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、カイの元へ駆け寄ってくる。
「サカキさん。機械の調子はどうですか?」
「バッチリだ。聖譜で動く変な部品は親方たちに任せてるが、歯車や配管の物理的な噛み合わせなら、俺の目の方が正確だからな。水濾過ポンプの効率を少しだけ上げてやったよ」
サカキは誇らしげに笑い、それからカイの右腕――彼自身のアイデアも組み込まれた鋼鉄の義手へと視線を落とした。
「その腕、調子はどうだ? 連続で動かしても、熱はちゃんと逃げてるか?」
「ええ。サカキさんの提案してくれた冷却構造のおかげで、最高に調子がいいですよ」
カイが日本語で返し、義手の指を滑らかに動かしてみせると、サカキはホッとしたように息を吐き出した。
「そうか。そりゃよかった。……あの時、君がこの腕を使ってスラムの怪物の群れをあっという間に泥に還したのを見た時は、本当に肝が冷えたと同時に、頼もしく思ったよ」
そこまで言うと、サカキの顔から笑みが消え、町工場の技術者としての、真剣で真っ直ぐな瞳になった。
「作戦会議で、君が言ったこと。……この空を覆っている結界を完全に解体して、溜まった圧力を地球へ還すっていう話。……あれ、本気なんだよな」
「ええ。本気です」
カイは誤魔化さずに頷いた。
「教会を叩くだけじゃ、この世界の悲鳴は止まらない。空の向こう側に溜まった莫大な圧力を逃がさない限り、この大陸は遠からず内側から弾け飛ぶ。……俺たちが助かるには、この世界の仕組みを本来の地球の法則に繋ぎ直すしかないんです」
「……途方もない話だ。俺みたいな削り出しの職人には、想像もつかないスケールだよ」
サカキは、頭を掻きながら苦笑した。
「でもな、カイ君。君が『間違った理を直す』って言うなら、俺はそれを信じるよ。俺たちは三十年間、図面通りに動かない機械を相手に、原因を探って直してきたんだ。魔法だ奇跡だって言われてもピンとこないが、原因があって結果があるっていう理屈なら、どんなにデカい仕掛けでも同じだろ?」
「はい。規模が大きくなっただけで、やることは変わりません。一番重要な『結び目』を見つけて、そこをほどくだけです」
サカキは、カイの真っ黒な瞳をじっと見つめ、やがてその分厚く、タコだらけの大きな両手で、カイの左手を力強く握りしめた。
「俺たちは、戦えない。あの怪物どもや、恐ろしい鎧を着た連中を前にしたら、足がすくんで逃げることしかできない。……情けない大人だよ」
サカキの分厚い手が、かすかに震えていた。
「でもな、ここで君たちの帰る場所を守り抜くことならできる。リチャードさんも、アンナさんも、マテオたちも、みんな同じ気持ちだ。俺たちはここで、君が全力で大仕事に挑めるように、最高の『裏方』としてこのアジトの機能を回し続ける」
サカキは、カイの目を真っ直ぐに見据えた。
「だから……俺たちの世界を、あの星空が見える世界を、取り戻してくれ。君のその手で」
重く、熱い言葉だった。それは単なる励ましではない。自分たちの命と、未来と、帰るべき故郷への希望を、この少年にすべて託すという、切実な願いだった。
カイは、サカキのその手の温もりをしっかりと受け止め、深く頷いた。
「……約束します。必ず、みんなで一緒に帰りましょう」
サカキが満足そうに笑って手を離すと、広場の方から歩いてきたリチャードと目が合った。彼はカイの姿を認めると、立ち止まって胸に右手を当て、深く、敬意に満ちた一礼をした。言葉は交わさない。だが、その所作だけで、彼もまたサカキと同じ思いを託してくれていることが痛いほど伝わってきた。
カイはリチャードに向かって軽く会釈を返し、サカキに背を向けて歩き出した。
足取りは、驚くほど軽かった。迫り来る世界の寿命。大陸を覆う結界を解体するという、途方もない大工事。背負うものはあまりにも大きい。だが、孤独ではない。背後には、帰るべき場所を強固に守り抜いてくれる同郷の仲間たちがいる。隣には、完璧な航路を弾き出してくれる相棒の『眼』がある。前には、身を挺して道を切り開いてくれる仲間たちがいる。
カイは、静かに駆動音を鳴らす右腕の義手を持ち上げ、軽く拳を握り込んだ。
通路の突き当たり、作戦会議室の重い鉄扉の前に立つ。その向こう側からは、いち早く部屋に戻ったソフィアが、結界の巨大な構造を解体するための計算式と独り言のように格闘している声が漏れ聞こえていた。これから、彼女と共に大陸を覆う壁の「急所」を見つけ出し、次なる作戦の道筋を定めるのだ。
彼女が待つその部屋へと、カイは迷いなく足を踏み入れた。




