第101話 修復者の使命
作戦会議室を支配する沈黙は、冷たく重かった。
冷たい鉄の円卓の中央に浮かび上がる立体地図。そこに表示された大陸全体を覆うドーム状の光は、まるで脈打つ傷口のように赤黒く明滅している。それは、三千年もの間この世界を外界から隔離してきた分厚い殻であり、そして今、行き場を失った膨大な圧力を抱え込んで悲鳴を上げている、巨大な密閉容器の蓋でもあった。
サカキが、両手で顔を覆ったまま、小刻みに肩を震わせている。『信ジラレナイ……』と呻いたリチャードも、高級スーツの襟元を無意識に緩め、虚空を見つめていた。教会の理不尽な暴力から逃れ、地下拠点『ハビタ・ゼロ』でようやく息がつけると思った矢先に突きつけられた、世界そのものの寿命という逃げ場のない死の宣告。
ジャンは腕を組んで目を閉じ、ヴァレリーは苛立たしげにテーブルの端を指で叩いている。指揮官であるゲルハルトでさえ、銀縁眼鏡の奥の瞳に苦渋の色を浮かべ、押し黙っていた。
「……誰も、何もできないってのかよ」
サカキの震える日本語が、静寂に波紋を投げかけた。
「あの祭壇の儀式を止めたのに。……せっかく、生き延びられると思ったのに。このまま、数ヶ月後に世界ごと弾け飛んで死ぬのを、ただ待つしかないって言うのか……?」
その問いに答えられる者は、いなかった。局所的なエネルギーの暴走なら、カイの右腕で打ち消せる。教会の追手が来れば、実働部隊が迎え撃つことができる。だが、大陸全体を覆う空の向こう側に溜まった途方もない物理的圧力を、一体どうやって個人の力でどうにかできるというのか。
プシューッ……。
重苦しい空気を切り裂いたのは、極めて静かで滑らかな蒸気の音だった。全員の視線が、音のした方へ向く。
カイが、テーブルに両手をついて立ち上がっていた。右腕の義手から、かすかに白い排熱の蒸気が立ち昇っている。その黒い瞳には、絶望の濁りなど一切なかった。あるのは、難解な問いを前にしたときの、冷え冷えとした思考の光だけだ。
カイは居住まいを正し、この世界の言葉で口を開いた。
「……待つ必要なんてない」
カイの声は、低く、しかしはっきりと会議室の隅々にまで通った。
「圧力が溜まって破裂するのを待つくらいなら、こっちから蓋を開ければいいだけの話だ」
「カイ、何を言っているの」
ソフィアが、ハッとして顔を上げた。
「さっきも言ったはずよ。今、あの空の亀裂に下手に穴を開ければ、超高圧のエネルギーが一気に外側の世界へと噴き出すわ。内部の急激な崩壊を招くだけじゃない。……向こう側の世界に、未知の致命的な影響を与える大惨事になるのよ」
「ああ、分かってる。小さな穴を開けるから、そこに圧力が集中して暴発するんだ」
カイは、立体地図のドーム状の光を真っ直ぐに指差した。
「なら、壁そのものを『全部』なくしてしまえばいい」
その言葉に、部屋の空気が一瞬だけ止まった。
「……全部?」
ジャンが、怪我を庇いながら身を乗り出す。
「空を覆ってる、あのバカでかい結界を完全に解体するってのか?」
「そうだ」
カイは頷き、言葉を続けた。
「この大陸は、三千年間、地球から吸い上げたエネルギーを独占してきた。だから異常な圧力になっている。結界という壁を完全に取り払い、この大陸に溜まりすぎたエネルギーを、地球全体へ均等に還流させるんだ」
「本気で言っているの!?」
ソフィアが両手をテーブルにつき、身を乗り出した。
「そんなことをすれば、地球全体にエーテルが満ちることになるわ! 向こう側の物理法則に干渉して、地球の環境がどれほど激変するか……向こうの世界でも、聖譜のような異常現象が起きるようになるかもしれないのよ!?」
ソフィアの指摘は、極めて正確なリスクの提示だった。地球という「真空」の環境に、三千年分のエネルギーを流し込む。それは、あちら側の世界を根本から変容させてしまう劇薬になり得る。
だが、カイの瞳は揺らがなかった。
「ああ。地球にもエーテルが満ちて、未知の変化が起きるだろう。……でも、それが本来の地球の姿なんだ」
カイは、右腕の拳をきつく握り込んだ。
「三千年前、古代の連中が自分たちだけ助かるために、地球全土に流れていたエーテルをこの大陸に独占して閉じ込めた。そのせいで向こう側の世界からはエーテルが消え、こっちは溜まりすぎたエネルギーで窒息しかけてる。……俺がやるのは、そのいびつな独占状態を解体して、地球を三千年前の『正しい形』に修復することだ」
「な、……」
ソフィアが絶句し、息を呑んだ。
「大陸を覆う結界を、すべて解体するって言うの……!? そんなこと、一人の人間にできるわけがないわ! 規模が違いすぎる!」
「やるしかないだろ」
カイは、ソフィアを真っ直ぐに見つめ返した。
「俺の魂は、この世界のエネルギーを通さない絶縁体だ。どんなに巨大な構造物でも、それを形作っている『急所』さえ見抜けば、そこから結び目を引き抜くことができる。この結界だって、神が作った奇跡なんかじゃない。元を正せば、古代の人間が作り上げた巨大なエーテルの循環システムだ。必ず、全体を縫い止めている『特異点』があるはずだ」
「……仮に、その特異点を見つけたとしても」
ゲルハルトが、冷徹な現実を突きつけた。
「結界の根幹を解体し、莫大なエネルギーを地球全体へ均等に還流させるなどという神業、計算上は可能でも、君の体がもたない。その作業の途中で君にかかる負荷は、先ほどの戦闘とは比較にならないはずだ」
「俺一人じゃ無理かもしれない。でも、俺にはあんたたちがいる」
カイは、周囲の仲間たちをゆっくりと見回した。
「ソフィアの眼で結界の構造を読み解き、シエロとエリスが微細な変化を捉える。ジャンとヴァレリーが、俺を守る。……そして、サカキさんやリチャードさんたち同郷の知恵と技術で、俺のサポートをしてもらう」
カイは、言葉を失っているサカキやリチャードたちの方へ視線を向けた。
「俺たちは、教会の用意したシナリオの中で消費されるだけの部品じゃない」
カイの言葉は、熱を帯びてはいなかった。ただ、世界という巨大な矛盾の塊を前にして、それを一つずつ丁寧に直していこうとする、揺るぎない覚悟がこもっていた。
「この狂ったシステムを解体し、世界をあるべき形へと繋ぎ直す。……それが『修復者』の本当の仕事だろ」
部屋の空気が、カイの静かな覚悟の熱に当てられて、少しずつ温度を取り戻していくのを感じた。
「……世界そのものの修復、か。大きく出たな」
ジャンが、左腕の痛みを忘れたように豪快に笑った。
「教会の連中をぶちのめすだけでも厄介だってのに、今度は神様が作った鳥籠ごとバラそうってのか。……面白ぇじゃねえか。俺の新しい盾の本当の硬さを試すには、うってつけの舞台だ」
「ほんと、呆れた自信だわ。でも、そうじゃなきゃ、あたしたちの命を預ける気にはならないわね」
ヴァレリーも、ライフルを肩に担ぎ直して不敵に微笑む。
「……カイ君」
サカキが、潤んだ目でカイを見た。
「君は、俺たちのために……そこまで背負ってくれるのか」
「俺のためでもあります。俺だって、あんな紫色の空の下じゃなくて、ちゃんと星空が見える世界に帰りたいですから」
カイは、サカキに向かってかすかに笑みを作った。
『……私タチモ、全力デ、バックアップシマス。コノ命ヲ懸ケテ』
リチャードもまた、胸に手を当てて深く頷く。怯えるだけの被害者ではなく、彼らもまた、元の世界に帰るという明確な希望を見出していた。
カイの視線が、最後にソフィアへと向けられた。
「どうだ、ソフィア。俺の立てた仮説は、無謀すぎるか?」
ソフィアは、しばらくの間、カイの目をじっと見つめていた。その瞳には、地球の環境を変えてしまうかもしれないリスクへの恐れと、それでも目の前の少年にすべてを懸けようとする絶対的な信頼が入り混じっていた。やがて彼女は、小さく息を吐き出し、手元の石板型デバイスをスッと持ち上げた。
「……無謀の極みよ。計算式を組む私の身にもなってちょうだい。……でも、貴方がその気なら、私が完璧な航路を弾き出してあげるわ。この世界を覆う巨大な鳥籠の、一番脆い『鍵穴』の場所をね」
彼女の力強い言葉に、部屋全体に張り詰めていた絶望の空気が、確かな反撃の意志へと変わった。
「目標は確定した」
ゲルハルトが低く威厳のある声で宣言した。
「もはや、教会の打倒は通過点に過ぎない。我々の最終目的は、この隔離された大陸の結界を完全に解体し、溜まりすぎたエネルギーを全世界へ還流させることだ」
その声に、拠点に集う全員が深く頷いた。
カイは、静かに駆動音を鳴らす右腕の義手を下ろし、決意を新たに前を見据えた。もはや、目の前の怪物を倒すだけの対症療法ではない。自分たちはただ逃げるためでも、復讐するためでもなく、この壊れかけた世界そのものを修復するために戦うのだ。
一つの亀裂から見えた、途方もない大手術への道のり。絶望に沈んでいた地下の拠点は、カイの言葉によって明確な目的を取り戻し、確かな覚悟と共に再び熱く胎動し始めていた。




