第10話 安全装置の破壊
指先が、熱い。いや、熱いという言葉では、この感覚を定義できない。
指先の神経の一つ一つに、被膜の剥がれた高圧電線が直接接続され、白熱したフィラメントのように細胞が蒸発していく感覚。右腕は今、怪物の胸部装甲――瓦礫と鉄屑が不自然に組み合わさった隙間を貫き、その奥で脈動する紫色の光の芯に直接触れていた。
「が、あ、あぁぁぁぁぁッ!!」
喉から絞り出された絶叫は、怪物が発する不快極まりない不協和音にかき消された。先刻放った渾身の特攻。それは確かに怪物の核を捉えた。しかし、そこには致命的な誤算があった。
掴んだ核は、生き物の心臓のように柔らかいものではなかった。それは、都市一つを動かせるほどの熱量を持ちながら、冷却装置を持たずに暴走している「裸の原子炉」そのものだった。解の硬い魂が絶縁体として機能し、即死こそ免れているものの、怪物の膨大なエネルギーは解の腕を伝導し、彼の肉体そのものを内側から焼き潰そうとしていた。
(硬、すぎる……! 引き抜けない、握りつぶせない……!)
解の視界は、どす黒い赤色に染まっていた。指先に力を込めようとするたびに、魂の表面がヤスリで削られるような激音が脳内に響く。怪物は、自分に突き刺さった異物である解を排除しようと、全身の瓦礫を波打たせた。崩れたはずの右腕を再生させるどころか、周囲の家屋の残骸をさらに吸い込み、解を飲み込むようにその巨躯を膨らませていく。
ミシミシ、と解の肋骨が悲鳴を上げた。怪物の質量が、解を押し潰しにかかっている。
(これじゃ、ただの消耗戦だ。俺の魂が焼き切れるのが先か、こいつがエネルギー切れを起こすのが先か……。いや、後者はあり得ない。こいつは周りの排熱を食べて無限に太り続けるんだからな)
解の冷徹な脳が、絶望的な答えを弾き出す。この怪物は、この世界の住人が捧げる非効率な祈りの燃えカスから生まれた。解がここで粘れば粘るほど、周囲の住人の恐怖を吸って、怪物は潤沢な燃料を得る。その皮肉な構造こそが、この地を蝕む真の毒だった。
意識が遠のきかけた、その時だった。
「――――、――――……ッ!」
解の耳に、震える歌声が届いた。倒れていたはずの老人だった。
老人は、アイアに支えられながら、折れた杖を必死に握り直し、口元から鮮血を滴らせながらも、再び旋律を紡いでいた。それは攻撃のための歌ではない。ましてや、怪物を倒すための強力な魔法でもない。今の彼に残された生命力では、もうマッチ棒の先ほどの灯火しか生み出せないことは、誰の目にも明らかだった。
それでも、老人は歌った。解の周囲に漂う致死性の紫の霧を、わずかでも押し留めようとする、鎮魂と守護の旋律。
(やめろ……! じいさん、もういい……!)
解は心の中で叫んだ。老人の顔は、見る間に土色に変わっていく。この世界の魔法はあまりに不器用だ。老人が解を守るために100のエネルギーを注いでも、この異常な環境下では、そのうちの99が光や装飾的な紋様として漏れ出し、結局は怪物に吸い取られてしまう。
解の目には、その構造が、穴だらけの配管のように見えた。老人は懸命に安全な手順で力を届けようとしている。歌を歌い、神に祈り、自分の魂が壊れないように安全装置を介して出力を調整している。だが、その安全装置こそが、出力を弱め、敵にエネルギーを横流しする最大の原因だった。
パキン、と乾いた音がした。老人の杖が、負荷に耐えきれずに砕け散った。守護の光が消失し、再び極圧のエネルギーが解を襲う。老人は糸が切れたように雪の上に崩れ落ち、二度と動かなくなった。アイアの悲鳴が、遠く聞こえる。
「……ッ、……あああああああ!!」
解の理性が、白濁する意識の中で急速に冷えていく。かつて日本の放課後の教室で、進路希望調査票を前に感じていた、あのどこにも行けないという閉塞感。だが、今の彼を支配しているのは、それとは真逆の、一秒先の生存さえも自分の手で掴み取らなければならないという、剥き出しの闘争心だった。
老人の行動は、無駄ではなかった。彼の非効率な魔法が、解に一つの「解法」を教えたのだ。
(わかったよ。わかった。あんたたちのやり方は、教科書通りで、丁寧で、正しいんだろう。でも、この地獄じゃ『上品』すぎるんだ)
解は、自分の右腕を焼く紫色の奔流を見つめた。老人が最期まで守ろうとした安全装置。それは人間が異世界の高エネルギーに触れても発狂しないための、言わば絶縁ゴムの軍手のようなものだ。解自身も、ここまで生き延びるために、魂を硬く閉ざし、殻にこもることで身を守ってきた。
だが、ゴム手袋をしたままじゃ、針の穴に糸は通せない。今の解に必要なのは、自分を守るためのゴムじゃない。この塊の核を、根こそぎ引きずり出すための「素手」だ。
(外せ。全部だ。自分を守るための『壁』を、攻撃に転用しろ)
解は、これまで自分を支えてきた魂の殻という概念を、根本から定義し直した。
これまでは、外のノイズを遮断するためにこの殻を壁として使ってきた。だが、それでは怪物の核に干渉しきれない。イメージするのは、理科の実験で使った「電磁石」だ。鉄心を入れ、コイルを巻き、そこに一気に全電圧を叩き込む。自分の魂という「鉄心」に、周囲の荒れ狂うエネルギーを無理やり巻き付け、自分の意志という電流で一本に束ねる。
ショートしても構わない。焼き切れても構わない。この一瞬、こいつの心臓を止めるだけの「磁力」が生まれれば、それでいい。
「……、……!!」
背後で、アイアの絶叫が聞こえた。怪物の頭部が裂け、赤黒いエネルギーの口腔が、解ごと彼女らを飲み込もうと迫っていた。
(進路希望調査票に、書くことが見つかったよ、先生)
解は、口の中に溜まった血を吐き捨てた。彼は、自分を保護していた魂の殻を、内側から爆破するように解き放った。
――バチバチバチッ!!
魂のきしみが、もはや音ではなく、物理的な衝撃として解の脊髄を叩く。鼻から、耳から、目から、熱い血が噴き出す。肉体が内側から崩壊していく感覚。だが、その代償と引き換えに、解の右手は変質した。
それはもはや、人間の手ではなかった。怪物の心臓と一体化し、そのエネルギーの流れを直接掌握する、青白い火花を纏った「物理的な楔」となっていた。
(詠唱なんていらない。歌なんていらない。ただ、そこにある噛み合わせの悪い理屈を、俺が『なかったこと』にするだけだ!)
解は、怪物の核を、指先ではなく「魂の摩擦」で、ギリギリと締め上げた。
ギギギギギッ……!!
脳の芯が震える。それは、回転する歯車に鉄棒を突っ込んだような、致命的な摩擦の手応えだった。
「空っぽ」である俺の魂と、「過密」なこいつの核。性質の違う二つのエネルギーが、絶縁体なしで直接触れ合っている。それは理科室で習った、プラス極とマイナス極の直結なんてもんじゃない。
物質と、反物質。存在してはならない「真空」が、この世界の「過剰な理」とぶつかり合い、互いを食い尽くす「対消滅」を起こしているのだ。
――ギ、……ギャ、……ア、……ア……!?
怪物が、今までで最大の、そして最も悲痛な不協和音を上げた。再生しようと集まっていた瓦礫が、磁力を失った砂鉄のようにポロポロと剥がれ落ちていく。
解の周囲数メートルだけが、異常な静寂に包まれた。それは、全ての音が吸い込まれるような、死の真空空間だった。
「捕まえた。ここが、お前の『急所』だ」
解は、歯を剥き出しにして笑った。意識はもう、半分以上闇の中に沈んでいる。右腕の感覚はない。たぶん、炭のように焦げているだろう。だが、掴んだ「核」の手応えだけは、かつてないほどに確かだった。
彼は自分を守るための壁を捨て、世界を壊すための剥き出しの力を解放した。怪物は苦悶し、周囲の瓦礫をさらに激しく巻き上げ、最後の悪あがきとして、その巨体ごと自爆しようと膨れ上がる。
解は逃げない。離さない。その爆発の中心で、ただひたすらに、目の前の理屈をねじ伏せるためだけに、最後の力を右手に込めた。
「デ・ア――――ッ!!」
閃光が、スラムの夜を白く塗り潰した。




