第1話 凪の終わり
もしも魔法という奇跡が実在するなら。それはきっと、とてつもなく燃費の悪い、欠陥だらけの不良品だ。
エネルギー保存の法則。熱力学第二法則。俺が昨日まで生きていた日本の教室では、それが絶対のルールだった。原因があって、結果がある。そこに無駄な装飾が入り込む余地はない。
だが――。
「――っ、が、はっ……!」
意識の覚醒は、緩やかな浮上ではなく、墜落に近い衝撃と共に訪れた。肺に流れ込んできたのは、空気ではない。粘り気のある、重苦しい「何か」だ。
久澄 解、17歳。つい数分前まで、俺は放課後の教室で、進路希望調査票の白さに頭を悩ませていたはずだった。窓の外には、春特有の穏やかな街並みが広がっていて、空気は退屈なほどに凪いでいた。
だが、今ここにあるのは、存在そのものを圧殺しようとする狂気的な密度だ。
目を開けることすら叶わない。全身の毛穴という毛穴から、得体の知れない高密度のエネルギーが無理やり侵入してくる感覚が全身を苛む。深海一万メートルの水圧に生身で放り出されたら、これほどの絶望を味わうだろうか。
俺の内側にある魂という名の核が、この異常な高圧環境に対して本能的な悲鳴を上げている。この圧力に負けて霧散してしまわないために、俺の魂は無意識のうちに防衛反応を起動させていた。あちら側の平和な世界で自己を保っていた殻が、かつてないほど硬く圧縮され、まるで絶縁体のように結晶化していく。
「……は、ぁ……っ」
どうにか重いまぶたを押し上げる。視界に飛び込んできたのは、一面の灰色だった。見上げる空を覆うのは、光を拒絶するような重苦しい雲。地面には正体不明の廃材が不規則に積み上がり、その隙間からは、甘ったるくも鼻をつく、不気味な紫色の霧が這い出している。
夢じゃない。皮膚を刺す痛みと、肺を焼く熱さが、ここが現実だと告げている。俺は、自分がかつていた日本の凪から、この窒息寸前の飽和世界へと叩き落とされたのだ。
ふらつく足取りで、瓦礫の山を彷徨う。一歩を踏み出すたびに、魂の芯がきしむような異音が脳内に響いた。腹の底を、冷たいかぎ爪で掻き回されるような強烈な飢え。細胞の一つ一つがエネルギーを渇望し、急速に燃焼し尽くされているような感覚だ。
ふと、前方から奇妙な旋律が聞こえた。瓦礫の影を曲がると、そこに二人の人影があった。
一人は、ボロボロの青い外衣を羽織った老人。その隣には、痩せ細り、煤に汚れながらも澄んだ瞳を持つ少女が跪いている。少女は十歳前後だろうか。現代日本の同年代と比べてもあまりに痩せこけており、枯れ枝のような腕が震えていた。
「…………」
俺の存在に気づき、老人がこちらを見た。その目は慈悲深いようでいて、同時に獲物を定めるような冷徹な光を湛えている。彼が何かを口にした。
「……? ……、……?」
聞き取れない。単語の端々にラテン語や英語のルーツのような響きはあるが、文法が複雑怪奇で、今の俺には高尚なノイズとしてしか処理できなかった。
老人は俺の混乱を無視し、手元にある淡く発光する石の欠片に視線を戻した。その直後だった。
「きゃっ……!」
少女が短い悲鳴を上げた。石の鋭利な角が、彼女の細い腕を深く切り裂いたのだ。鮮血が、灰色の地面にこぼれ落ちる。
老人が動いた。彼は迷いなく、朗々とした、しかし厳格な響きを持つ「歌」を口にした。
「――、――、――」
瞬間、俺の知覚が絶叫を上げた。老人の口から放たれた音が、周囲の重苦しい空気を無理やり整列させ、目も眩むような光の粒子へと変貌していく。少女の傷口がその光に包まれ、肉が盛り上がり、傷が塞がっていく。
本来なら、それは「奇跡」として拝むべき魔法の光景だった。だが、あちら側の学校で物理や生物を学んできた俺の脳は、その光景を「深刻なエラー」として認識した。
(なんだ、今の。エネルギー効率が悪すぎる……!)
細胞を結合させ、傷を塞ぐだけなら、あんな過剰な発光現象は必要ない。ただの治療のために、空間を揺らし、無駄な光をまき散らし、どれだけのエネルギーを熱のロスとして空中に捨てているんだ。
マッチ一本で済む火を起こすために、家を丸ごと一軒燃やしているような、絶望的なまでの非効率。
(やめろ……その無駄な光の波を、俺に当てるな……!)
俺の硬い魂は、その不規則な波形を打ち消そうと、無意識に逆位相の波を鳴らし始めた。ノイズキャンセリング・イヤホンが、外部の雑音をかき消すのと同じ原理だ。
「う、あ……あああッ!」
脳内を直接掻き回されるような激痛。老人が物理法則を無理やり曲げたことで生じた空間の歪み。その余波が、絶縁体である俺の魂と衝突し、強烈な摩擦を生み出したのだ。
俺は膝から崩れ落ちた。視界が白濁し、意識が遠のいていく。
「……? ……!!」
老人が、心配そうな声を出して近づいてくる。彼は、崩れ落ちた俺の肩を支えようと、その大きな手を伸ばした。その手が、俺の制服の肩に触れた、その瞬間――。
――バチィッ!!
静電気などとは比較にならない、青白い火花が空間を裂いた。まるで高圧電流に生身で触れたようなショート。この世界の魔法の法則が、俺という異物を弾こうとするエラーの火花だ。
「……!?」
老人は、熱した鉄を掴んだかのように、弾かれたように手を引っ込めた。慈悲深い顔から色が消え、代わりに剥き出しの戦慄が浮かび上がる。彼が触れたのは、柔らかな人間の肉体ではない。この世界のあらゆる定義を通さない、極限まで圧縮された「絶縁体の魂」だった。
俺は霞む視界で、空を見上げた。厚い雲を切り裂くように、地平線の彼方まで続く巨大な亀裂が光り輝いている。
進路希望調査票の白さなんて、もうどうでもよくなった。ここは、理屈の通じないデタラメな世界だ。
(なら、俺が)
意識の最後の一片が闇に沈む直前。俺の脳裏にあったのは、死への恐怖ではなく、不完全な数式を見せられた時のような、冷たい訂正の意志だった。
(このバグだらけの世界を、俺の理屈で解体してやる……)
重苦しい紫色の霧が、倒れ伏した異邦人の体を静かに飲み込んでいく。孤独な修復者の反逆が、ここから始まろうとしていた。




