05
退院は、思っていたよりあっさりだった。
医師は「問題ありません」と言い、看護師は笑顔で書類を渡した。それで終わりだ。
だが、病院の自動ドアを抜けた瞬間、葉山薫はわずかに足元が揺れるのを感じた。
酔っているときの、あの感覚に似ている。
頭が遅れてついてくる。
十月学園に戻ると、日常は何事もなかったようにそこにあった。
チャイムは鳴り、教師は板書をし、生徒はノートを取る。
授業中、葉山は自分が「普通」を演じられていることに少しだけ安心した。
黒板の文字は読める。
教師の声も聞こえる。
質問されても、答えられる。
ただ、時折、視界が一瞬だけ遠のく。
机に手をつくと、それは収まった。
誰も気づかない。
それでよかった。
放課後。
葉山は校舎の隅にある、第二化学準備室へ向かった。
使われなくなって何年も経つその部屋は、正式には立ち入り禁止だ。
だが、鍵は壊れたまま、誰も直そうとしなかった。
葉山と久我山亮と、矢野。
三人で、勝手に使っていた場所。
ドアを開けると、埃の匂いがした。
「やっぱ、静かだな」
先に来ていた矢野が、椅子に腰かけたまま振り返った。
相変わらず無造作な髪に、眠そうな目。
「そりゃ一人減ったし」
その言い方に、悪意はない。
だが、その“一人”が誰かを、二人とも理解していた。
久我山亮は、もうここに来ない。
三人で使っていたはずの机が、妙に広く感じられる。
いつも久我山が座っていた位置が、空白として主張してくる。
「大丈夫、葉山?」
矢野が、少し声を落として言った。
「顔色、あんま良くないねぇ」
「まあ、退院したてだし」
軽く返したつもりだったが、喉の奥が微妙にむかついた。
やはり、どこかがおかしい。
矢野はそれ以上突っ込まず、話題を変えるように続けた。
「無理すんなよ。あの事故だよ。」
その言葉で、葉山の中に引っかかっていたものが、浮かび上がった。
少しだけ迷ってから、葉山は口を開いた。
「なあ、矢野」
「ん?」
「久我山から、手紙もらったんだ」
矢野の動きが止まった。
「たぶん遺書ってやつだ」
沈黙が落ちる。
埃の粒が、夕方の光の中でゆっくり舞っていた。
「……実はさ」
矢野は、カバンを足元に引き寄せた。
ファスナーを開け、奥から白い封筒を取り出す。
「僕も、もらってる」
「ええ?」
「二週間前。下駄箱に入ってた」
二週間前、そのころから久我山は学園にきていない。
封筒は、久我山の字で宛名が書かれている。
間違いないだろう。
「ずっと、開けてない」
「開けてない、って……」
葉山は封筒に視線を落とし、すぐに気づいた。
封は、完全ではない。
一度、開けられた痕跡がある。
それから、元に戻された跡。
「……誰かが、先に見てるぞこれ。」
葉山の言葉に、矢野は目を見開いた。
「え?嘘だよ?僕気持ち悪くて開けてないんだから。気のせいじゃない?」
「…うん、たぶん気のせいだ…うん」
自分でも理由は説明できなかったが、葉山には確信があった。
二人は、同時に封筒を開けた。
中身は同じだった。
マンションの写真。
女性の証明写真。
そして、便箋。
矢野が、女性の写真を手に取る。
「……これ」
「何かある?」
「制服」
その一言で、葉山は息を呑んだ。
「うちの学校のじゃん、これ」
確かに、見慣れた色とデザインだった。
学生証用の写真だ。
「気づかなかった……」
その瞬間、葉山の脳裏に、白い光がよみがえった。
バス。
封筒。
文字を追った、あの瞬間。
爆発。
「……そうか」
呟きが、自然と漏れた。
「俺、この遺書読んだ直後に……」
「事故だろ?」
「違う。爆発したんだってバックだかリュックだかが」
「え?そうなの?」
矢野は、言葉を失った。
「え?なに?そんな処理されてんの?」
「うん、バスの整備不良だって」
「なんじゃそりゃ」
世間ではそう処理されたらしい
だが葉山は身をもってそれが整備不良などではないことを知っていいる。
世の中の混乱を招かないため、とか言う大人らしい言い分なのか。
それはわからなかったが、もう一つ疑問が生まれた
「矢野はこれ手にしてから殺されかけたりしてない?」
「え?」
「そのまんまの意味だよ、俺遺書読んだ瞬間『ドン!』よ」
「見ての通りノーダメージです」
それが不思議だ、一方は死にかけてもう一方は無傷。
この差は何なのだろう。しかも遺書を手に入れた時期は矢野の方が早い。
沈黙が、再び準備室を満たした。
そのとき。
《――葉山 薫。至急、理事長室まで来るように》
校内放送が、無機質に響いた。
二人は顔を見合わせる。
「よんでるよ」
「らしい」
葉山は立ち上がり、軽くめまいをやり過ごしてから、ドアに手をかけた。
「行ってくる」
「一人で大丈夫?」
「たぶん」
その“たぶん”が、どこまで信じられるのか。
自分でも、わからなかった。
葉山は廊下へ出る。
日常は、まだ壊れていない顔をしている。
だが、その裏で何かが動いていることだけは、確かだった。




