月見草
夜が磨かれていく。
昼はただ眩しくて、何もかもを同じ白さにしてしまうのに、夜はものの輪郭をひとつずつ手触りに戻してくれる。天乃宮学園の壁は月に洗われ、四階・左から三つ目の窓だけが、薄い灯りを抱いていた。そこに、彼女の生活がある。遮断された空気、管理された温度、規則に守られた孤独。
ここから中へは何も入らない。僕はもう、それを“映像ではなく身体”で知っている。だからこそ、外から行く。外から、見せる。外から、会う。
手袋の継ぎ目が微かにきしみ、指の腹が石材の冷たさを拾う。庇の縁をなぞって、縦樋に重心を移し、呼吸を細く切る。落ちる想像をしたら落ちる。だからしない。ただ、窓へ。
筋肉の震えが意志より先に疲労を訴えはじめたころ、僕は窓の外の細い縁に身体を寄せた。膝が笑い、喉が乾く。ガラスへそっと手を置く。ひんやりとした面が掌に広がる。中の空気は動かない。中の時間も、外よりゆっくりだ。
視線が合った。
澪は椅子に座っていて、キーボードに手を置いていた。画面の光が頬の線を薄く撫でる。驚きは走る。けれど、悲鳴も叱責もない。先に来たのは、目の奥の測量だ。彼女は見たものを一度、自分の内側に置き直す人だと、その一瞥でわかる。
やがて、短く打鍵音が鳴った。窓際のモニターにも、僕の端末にも、同じ文字が出る。
〈何をしているの〉
非難でも、脅しでもない。現実の確認だ。
僕はうなずいて、胸の前で白紙を広げた。紙そのものが用件ではない。ここへ物を“入れる”ことはできないと知っている。ただ、これは“外から見せる”という意図の形。僕はライトを点け、短い言葉だけを光に起こす。
――入れられないから、外から見せに来た。
淡い青が、夜の面に浮かぶ。文字は短いほど強い。説明が長くなる前に、手を止める。
澪は視線で最後の一画まで追い、そこでふっと呼気を小さく漏らした。キーボードに置かれていた指が、ほんのわずかに力を失う。その瞬間だけ、彼女は“生”になった。消毒の論理にも、規則の言い訳にも属さない、ただの反射として。
彼女は静かに、しかし速く打った。
〈画面越しのあなたに興味はない〉
昼間に見た一文と同じ。けれど、意味は違う。
窓の外の僕は、画面ではない。彼女は“それでもあなたが画面になるのなら、すべてを拒む”と言っている。僕は首を縦に振り、光で返す。
――画面にならない。君を、見る。君のほうを、見る。
見つめ合う時間が、思った以上に長くこぼれた。外気が肌から熱を奪っていくのに、胸の奥だけが温度を保っている。僕はやっと理解する。
彼女は“高嶺”だ。力づくで近づけば、花はつぶれる。近づかないまま見上げれば、ただの憧れで終わる。だから、距離を測る。
彼女は、僕を測っていた。
無謀と愚直の境界、臆病と丁寧の違い、彼女の規則と僕の誓い。その中間だけに足場があると、澪は最初から分かっている顔だった。
画面の向こうで、彼女の瞳がわずかに揺れた。そこに映るのは、たぶん僕ではない。窓ガラスに押し当てられた僕の影でもない。彼女自身だ。
澪は自分を見る。そうやって、ずっと生きてきたはずだ。管理された数字、許容値、ルーチン、観察記録。彼女は自分の内部を観測し続ける習慣でもって世界を受け止める。その習慣は、誰かに押しつけられたものかもしれないし、彼女が選んで強くなったやり方かもしれない。どちらにしても、彼女の生き延び方だ。
そしていま。
窓の外にいる“僕”が、その習慣を壊しはしないまま、習慣の外縁を照らしたのだと、僕にも分かる。
入らない。壊さない。それでも、君の窓際まで来る。
彼女は視線を少し落としてから、また上げた。
打鍵音が戻る。彼女の言葉は、曖昧さを嫌う。
〈あなたは、こちらに入れない。私は、そちらに出られない〉
〈それでも、あなたは来た〉
それは、評価ではなく事実だ。事実だけを積む。その先に、初めて選択が置ける。僕は光を走らせる。
――来るしか、なかった。
――君に会いたいことを、諦める言葉が、どこにも見つからなかった。
息が合った、と思った。
会話が成立する前に、呼吸が合う。それは、言葉より先に信頼になる。窓一枚の差など、どうでもよくなるほどに。
澪は画面から目を離さずに、少しだけ首を傾けた。観測の角度を変える仕草。違う答えを許容する角度。
僕は、その仕草に救われる。僕はきっと、救わればかりになるだろう。彼女は“救う意志を持たないまま救う人”だ。
彼女が再び打ち込む。
〈私はあなたの許嫁ではない〉
文字が冷たく光る。僕は受け取る。
――はい。僕も、そう思う。
その光を書きながら、自分の胸が少しだけ痛むのを、痛みとしてちゃんと味わう。
許嫁。制度。親たちの都合。未来のためという名の現在への怠慢。どれも、僕と彼女が自分の足で選んだものではない。
僕はライトをわずかに下げ、紙面に短く付け足す。
――“高嶺”は、約束で結べば砕ける。
――“高嶺”は、憧れで留めれば遠ざかる。
――だから、友達として、君のそばに立ちたい。
澪の肩がほんの少しだけ落ち、力が抜ける気配がガラス越しに伝わる。
それは“敗北”ではなく、“選び直し”の楽さ。
彼女は、許嫁という語の中に縫い込まれた数の多い糸を、一本一本ほどいて結び直すことができる人だ。切るのではなく、整える。そのほうが彼女に似合う。
打鍵。
画面に、決定的な行が浮かぶ。
〈許嫁はまだ難しいですが、お友達から、始めましょう〉
夜の空気が、すこし温度を上げた気がした。
僕は頷く。反射で、何度でも頷く。光を四文字だけ走らせる。
――ありがとう。
まぶたの奥が熱い。けれど涙は落ちない。ここは泣く場面じゃない。合意の場面だ。
僕は紙を胸に戻し、ライトを消し、窓に額を寄せた。ガラスがひやりとしただけで、痛みはない。
君に触れたいと思ったのは本当だ。
けれど、触れないことで守れる距離がある。それを、今夜だけは選べる。僕は選ぶ。
澪は視線で「降りて」と言った。言葉にせず、命令にもせず、ただ提案として。
僕はうなずき、縁から静かに体勢を変える。帰り道のほうが危ない。落ちる想像を、ひとつずつ言葉にして外へ捨て、足と掌にだけ意識を残す。庇、樋、踊り場。
地面に触れた瞬間、膝が緩む。草の匂いが濃くなる。肩で息をした僕を、夜が吸い込んだ。
振り返る。窓はまだ灯っている。淡い、意思の色で。
校舎脇の影から、いろはが歩いてくる。
彼女は僕の顔を見て、何も訊かない。訊かないという正しさを、彼女は知っている。
「……おかえリ」とだけ言って、前髪を耳にかけなおしてくれた。「綺麗な帰り方をしたね」
「綺麗……?」
「うん。君は“勝ち”に来たらきっと転ぶから。整えたね」
胸のあたりで小さな笑いが生まれて、それがやっと口元へ出ていく。
僕は首を振る。「僕だけじゃない。澪さんのほうが、ずっと整ってた」
「そうね」といろはは笑う。「君にとって澪は“高嶺”で、澪にとって君は“無謀”で、でもその“別の高さ”が並べることを二人とも知ってた。だから許嫁じゃなくて、友達でいい」
友達。
今まで何度も使ってきた言葉なのに、今夜ほど重く、清潔に響いたことはなかった。
友達であることは、約束より長い。
友達であることは、憧れより近い。
友達であることは、選び続けることだ。
いろはと並んで歩き出す。足を引きずるほどではない痛みが、身体の隅々を現実に繋いでくれる。
校舎の角で風が潰れ、また生まれる。影が二つ、伸びたり縮んだりしながら重なって、また離れる。
背中で、窓の灯りがひとつ小さくなる。消えたのではなく、眠りに入ったのだ。
きっと明日になれば、彼女はいつも通りに自分の一日を整え、僕はいつもより少しだけ胸を張って“おはよう”を用意する。
僕らはまだ互いに遠い。遠いから、見失わない。
僕らはもう互いに近い。近いから、見誤らない。
寮の階段に差しかかったとき、端末が小さく震えた。
画面には、短い通知。差出人の名前は、ただの記号で伏せられている。
〈明日の朝、窓の外で“おはよう”をゆっくり書いてください。
見える位置で。短く。逃げないで〉
僕は立ち止まり、目を閉じて息を吸い、吐き、それから頷いた。
いろはが覗き込む。「連絡?」
「……うん。友達からの、お願い」
「いいね」と彼女は笑った。「お願いできる関係は、強い」
部屋に戻る。膝と肘を洗う。鏡は見ない。今夜の顔は、誰かに見せるための顔ではない。
明日の文字を、頭の中で練習する。
長くしない。飾らない。誇らない。
おはよう。
この二文字に、どれだけの選び直しと、どれだけの“これから”を詰め込めるか。
窓の外から、君にだけ見える光で。
ベッドに背を落とす。天井の白は眠りを呼び、指先の痛みは、今日が本当にあったことを保証する。
目を閉じる前に、もう一度だけ思う。
――許嫁ではなく、友達でよかった。
その選択の重さが、胸の中心で確かな形を持つ。砕けない。握りつぶさない。置いておける重さだ。
その重さを抱いたまま、僕は静かに眠りに落ちていった。




