第56話 ステーキ
たき火が静かに揺れていた。
草原は風が通り抜け、夜空には満天の星が広がる。
アークは、収納魔法から黒毛魔牛の塊肉を取り出した。
まるで岩。 だが、光に照らされる肉の断面は、深い紅色に艶めいていた。
商人と護衛たちは、その場で息を呑む。
「……こ、これが……あの黒毛魔牛……?」
アークは無言で頷き、しゃもじを杖のように地面に突く。
その姿は、もはや儀式のようだった。
アークは、やるべきことを淡々と進める。
肉に指先を添える。 ほんの少し、時を巻き戻す魔法を流す。
熟成が最適な状態に整えられる。
しゃもが横で小さくつぶやく。
「アーク様の料理工程……毎回、人智を超えてますよね……」
火の準備は終わっている。 薪は、カノンが森で集めてきた、樹液を含む香りの良いものだ。
アークは肉をゆっくりと火の上に置いた。
ジュゥゥゥ……
油が溶ける音が、静かな夜に響き渡る。
香りが、風に乗り広がった。
商人は涙目で鼻を震わせる。
「な、なんだ…この…幸せのにおいは……」
護衛の一人は膝から崩れ落ち、空に向かって手を合わせていた。
カノンは目を輝かせ、しっぽ(ないけど、ある感じ)を振っている。
アークはしゃもじで肉の表面を押し、 旨みを閉じこめるように何度も何度も丁寧に焼く。
外は香ばしく、中は瑞々しく柔らかい。
十分だ、と判断したアークは、 しゃもじをひと振りして肉を高く跳ね上げ、空中でスパッと切り分けた。
スッ――
切り口は宝石のように赤く、じっとりと肉汁が光っていた。
商人は、ごくりと喉を鳴らした。
だが同時に、胸の奥に不安がよぎる。
「……魔物の肉を食べても……本当に大丈夫、なのでしょうか……?」
この世界では、魔物の肉を食べる習慣はない。
食べると呪われる
体が魔物化する
狂う
そんな噂が、どの国にも根強く残っている。
商人と護衛たちは、肉の香りに釣られながらも、手を伸ばせずにいた。
アークは無言でステーキをひと切れ持ち上げると――
「食わんなら、わしが全部いただくぞ」
そのまま口に運んだ。
噛んだ瞬間、肉汁が弾ける。
柔らかい。甘い。香りが強い。
アークは目を見開いた。
そして――
「ぴぇぇぇぇぇ!! うんまい!!!」
思わず立ち上がって叫んだ。
(これじゃ……!これなんじゃ!!)
転生するその瞬間に誓った。
「まずはステーキから」 と。
数々の面倒ごとに巻き込まれながら、延々と尻拭いしながら、ようやく辿り着いた。
アークは泣いていた。
ぽろぽろと、子供のように。
しゃもは少し引いた顔で見守っていた。
「……アーク様……感動のベクトルが毎回“食”なんですよね」
カノンは、もう待ちきれなかった。
「いただきます!」
もぐっ。
その瞬間、目がきらりと輝いた。
「……おいしい……!すごく……!幸せ……!」
商人は見ていてもう我慢できなかった。
おそるおそる、ひと口。
噛んだ。
――世界が変わった。
「……な、なんだこれは……!?肉汁が……柔らかさが……!今までのステーキは……靴底……!?いや……地面……!?いや……地獄……!!!」
護衛の一人も恐る恐る口にした。
そして無言で天を仰ぎ――
「…………生きててよかった」
もう一人の護衛は涙ぐみ、
「あの……任務中に、こんな……幸せがあっていいんですか……?」
火のそばは、しばし静かだった。
静かで、温かかった。
肉を平らげたあと、しばらく皆は満ち足りた沈黙の中にいた。
火がぱち、ぱちと小さく弾ける。
その中で、商人がゆっくりと頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございました」
アークは湯気の立つ湯飲みを口にしながら、軽く返す。
「気にするな。わしが食べたかっただけじゃ」
商人はかすかに笑ったあと、言葉を続けた。
「次の街に着きましたら……ぜひ、私どもの店にお越しください。 旅の同行と、この食事のお礼を……どうしても、形にしたいのです」
アークはちらりとカノンとしゃもを見る。
カノンは、にこりと頷き。 しゃもは、(どうせ断っても行く流れになる)という目でアークを見ていた。
アークは肩をすくめる。
「どぉせ通り道じゃ。構わんよ」
商人は胸に手を当て深く礼をした。
「……感謝いたします」
護衛たちも同じように頭を下げる。
夜の草原は静かだった。
星はどこまでも澄み、風は柔らかく頬を撫でる。
カノンは火のそばで丸くなりながら、眠たげに目をこする。
アークは火を見つめながら、静かに息をついた。
(……さて。次の街は、どんな飯が待っとるかの)
しゃもはそれを見て、やれやれと小さく呟いた。
「結局、根本は変わらんですね」
その夜、一行は交代で見張りをしながら、ゆっくりと休んだ。
明日も、西へ。 その先には――魔王がいる国が待っている。
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