第8話「母の味」
カーティスにとって母の味ともいうべき食卓は無い。
彼の最も小さい頃の記憶は動物のように肉を喰らっていた頃のものだ。
カーティスは、六歳前後でギルド本部が運営する孤児院に引き取られるまでダンジョンの中で育っていたと思われる。
思われるというのも正確な情報がないのだ。
六歳前後の少年がダンジョンの中で発見され、保護されたとの情報は当時新聞を賑わせた。
発見された当時、彼はマーナガルムと呼ばれる狼のようなモンスターと共に行動していた。四つ足で歩き、唸り声を上げ彼らと共に冒険者を襲っていたらしい。
先ほどから、<らしい>だの<思われる>だのと曖昧な表現が多いのは彼には当時の記憶がほとんどないからだ。
生まれた時からそこにいたのか、途中から親に捨てられたのか、どうやってダンジョンンに紛れこんだのか全く分からなかった。
人を襲っていながらも運よく人間であることを相手が見破ってくれたこと、そしてその相手がS級の強い冒険者だったことが功を奏した。
気絶してダンジョンからカーティスのことを連れ出してくれたのだった。
それからは、大人たちはこの少年の扱いに困ることになる。なんせ、辛うじて外見的特徴から南の方の出身だということは分かるが、それ以外全く情報がない。そして、何よりも彼らを困らせたのは少年が人語を話せないという点だった。
彼は二足歩行も人語も人として最低限の行動を取ることすらままならない状況だったのだ。
最初は心を痛めた大人たちだったが次第に彼がお荷物になっていた。
しかし、彼は特別だった。
いかにダンジョンの中で生き残ったかは分からないが、マーナガルムと共に生きていたこともありその身体能力はずば抜けていたのだ。通常の人間にはできない身のこなしが彼であれば出来る。
それに彼は体も強かった。状況が分からず暴れる彼を押さえつけて何とか診察を行った医師たちは驚愕した。彼にはいくつもの骨折があり、普通の人間が気絶するほどの痛みにも耐えながら生活していることが分かったのだ。
直ちに彼の治療は実施された。
大人たちは考えた。この少年をどのように人間界として受け入れれば彼の素晴らしい能力を捨てずに済むのか、脅威ではなく強力な武器とすることは出来ないか。
そうして彼は自身を見つけたS級冒険者の下で生活を行うことになった。
師匠は、最初はカーティスを犬のように躾た。
まずは上下関係からだ。
意識がある状態であった瞬間、ありえないほどの殺気を浴びせられ失禁した。
完全に師匠が上だと一発で分かったところから躾は始まった。
四つ足で歩こうとすれば投げられ、唸り声には一切怯むことなく反応しない。
食事も犬のように舐めようとしたり自分で狩ったものを食べようとしては取り上げられた。
その代わり、カーティスが震える夜には布団をかけ、嫌なものは嫌とハッキリ言うよう言われた。そして、二足歩行をすれば今までに食べたこともないような食事が与えられることを学んだ。
カーティスは学んだ。半年ほど経つと彼は少しだけ言葉を話せるようになっていた。
そして持ち前の運動神経を活かして二足歩行も可能になっていた。
温かい食事を食べられるようになり、体もある程度治った。
ものは知らないが三、四歳児程度の知識が付くと彼は孤児院へと戻された。
孤児院では、年長者が下の子供たちの面倒を見る。
彼は、最初こそ怖がられもしたが、自身の身は自分で守れたし、なんだかんだお節介で姉御肌の年上の少女可愛がられ子供たちの社会を生き抜いた。
ただ、彼はどうしても言葉を話すことは好きになれなかった。
言葉の意味が分からないわけではない。十二歳になることに職業訓練校に通う他の子に交じって学力検査も受けたが、平均以上の学力はあるらしい。
だが、読み書きに問題はなくても集団の中でどのタイミング話し出せばよいのかずっと分からないままだった。
学校に通わないものは、自分で職を探さなければならない。
孤児院経由で自分を拾った冒険者に連絡を取って自身も冒険者になったのは必然だったと思う。そうして数年かの冒険者について国中を回った。初めて持つ獲物の使い方を教えてくれたのも、様々なサバイバル方法を教えてくれたのも彼だった。
十六歳になると独立し冒険者として一人で身を立てた。
最初は自身の動きについて来られない周囲を置いて突っ走ることも多かった。
当時は、あの人と意外の人間と自分は一緒にダンジョンを潜ることは出来ないと思っていた。
だが年を追うごとに、ただの動物だったあの頃のように怪我をしたりしながら仲間というものを持って狩りをする重要性を学んだ。
多くの動物もそうだ。群れを組んで狩りをする。
群れの仲間の特徴を理解したうえで相手の弱点を突く。
そうして初めて一人では難しい狩りを行うことが出来る。
ただ弱いと思っていた者も自分には無い強みがあることがある。
彼らを活かせば自分はもっと高みへと行ける。
ただ、ずっと戦い続けて三十歳を迎えようとしていた頃、カーティスは自身の感情に気が付いた。
二十歳の頃にはS級としてもう十年程戦ってきた。
それまで誰も踏破出来ていなかったダンジョンを最年少で踏破した記録も持つ。
だが、どこか満たされない。
最初は師匠との冒険で毎日学びを得て、そこから一人で傷を負いながら生きて来た。そして何人かの戦友が出来、旨い飯を食って、女にもありつく。
だけれど、どこかで飢えた獣と同じなのだ。
何かを渇望しているが、その何かが分からない。
戦友からパーティに誘われることもあったが、あまり一所にいた事がないせいか長続きしなかった。それに女たちも途中から自分にすがり求めるばかりで煩わしくなってしまう。
死にたい人間が時々いるらしいが、カーティスにはそういった思いはない。
むしろ、死は純粋な恐怖をはらんでいて絶対的に生き物として避けるべき存在だと認識していた。ダンジョンでの生活がそうさせたのか、彼の本能に刻まれているのだ。
だが、かといって生きたいかと言われるとそれもよく分からなかった。
カーティスは満たされない何かをずっと求めながらも、ただ漠然と生き続けていた。
そんな時に出会ったのがエレナだった。
カーティスが顔を覚えられる人間はそう多くはない。どちらかと言えば匂いや雰囲気で相手のことを認識している。
だが、彼の目にも彼女の柔らかな笑みは刻まれた。
彼を目の前に委縮する人間は多い。肩書や雰囲気がそうさせるのだ。
彼女も最初は緊張していたようだが、初めて目が合った気がして声をかけた時、彼にこれまで纏わりついてきた女たちとは異なる柔らかな笑みに自分が温かな何かに包まれた気がした。
自身も長い人生で身に付けて来た笑顔を返す。
彼女は自分にもあまり物怖じしていないようだったので好感が持てた。
孤児院の少女に母親とは何かと聞いたことがあった。
「温かくて、包んでくれる存在だよ」
そう言った少女の表情は思い出せなかった。
けれど、ふとそんな話を思い出してしまう。
そんな温かい雰囲気をまとった少女だった。
翌年彼女は少しだけ大人になっていた。
以前はまだまだ村から出て来たての少女といった雰囲気だったが、少し都会の女たちのように少しだけ甘い匂いを漂わせるようになっていた。
悪くはない。ただ、彼女が他の女たちのようになってしまうのは残念な気がした。
そんなことを思いながら行った事前の探索で族に襲われてしまった。
病院で家に誘われたときは驚いたが、実際に言ってみるとそこには温かい料理があった。
以前北の方の村で頂いたそれはシチューという煮込み料理らしかった。
野菜や肉の混ざった良い匂いが鼻孔を擽る。
カーティスはギルド本部のお偉いさんたちと高価で美味しいと言われる食事もとってきたがあまりそういった類の複雑な味は好まなかった。
それよりも孤児院で食べたような単純だが皆が集まるって来るような素朴な味が好きだった。
動物は火を恐れる。
加熱したものであっても昔のカーティスは冷たくなってからしか食べられなかったが、克服しておいて良かったと改めて感じた。
なんとも温かな味が舌に広がる。
ちょうど良い温度で温められたそれは、口に運ぶと出汁が効いたスープが舌の上いっぱいに広がった。少し顎を動かすと柔らかくなった肉と野菜が直ぐに口の中で解けていく。
旨い。
病院食はどこか味気なくずっと空腹を抱えていた。
それに、今日は大規模討伐の初日で気も立っていたこともあり、食事を好きなだけ掻き込むカーティスにエレナは嫌な顔一つせず食事をついでくれた。
彼女の様子を見るに疚やましい所や厭いやらしい誘いは一切なさそうだ。
全くそんな気配がない。むしろ、あの温かい笑顔がそこにはあった。
人は色々と考えてしまうとストレスのせいかその匂いが変わってしまったりすることがよくあるのだ。そして彼は変化に敏感だった。
急な誘いだったので間者かと思いもしたがそういったことも無かった。
何故か彼女からはずっと甘ったるい好意の香りがする。
彼女の無垢な笑顔は本物だったのかと裏切られなかったことに安堵した自分がいた。
名残惜しいが食事を平らげてしまった。
彼は自分から話すのは苦手だ。
なぜ彼女が食事に誘ってくれたのか、好意を漂わせているのか全く見当はつかなかったが、この時間が終わってしまうのが酷く寂しかった。
ああ、こんな感情が自分にもあるのだなと驚いているとエレナから想定外の言葉が出た。
―――彼女はまた寄っていいと言ったのだ。
正直何も面白い話は無かったと思う。
ただ、自分にとって心地よい時間が流れていただけだ。
それにも関わらず彼女は再度誘ってくれた。
残りの日数でこの家に寄る余裕はないだろう。
だが、抗いがたいほどに魅力的な提案だった。
翌年にロスハーゲンの街を訪れると以前よりも活気に溢れる街になっていた。
旅をしている間に彼女のことは忘れていた。
ただ、ふとした表紙にシチューを食べたいと思う瞬間は増えた気がする。
ギルドへ向かうとそこは去年と比べれば大盛況と言っていい状態で受付の面々も忙しそうにしていた。
カウンターを眺めるとエレナがいた。
一気に彼女の匂いを思い出した。
彼女と同じように彼女の家も優しい匂いで満ち満ちていた。
そちらに気を取られていると馴染の冒険者たちに声をかけられる。
長年このギルドに努めるデイヴィッドによればこの一年で冒険者が1.2倍ほどになったらしい。中にはそれなりに腕が立つものもいるようだ。
「お前さんの出番も減るかもな」と豪快に笑いながら言われたが、少しだけ残念に思う自分がいた。
カーティスは、もう三十七歳。いい年をしたおっさんだった。
それまで年齢なんてただの数字で気にしたことはなかった。
自分の体のことは一番自分がわかっている。まだ、問題はないはずだ。
けれど酷く自分が劣った存在に思えた。
なるほど。皆が言う老いとはこのことかとどこか冷静に思う自分がいる。
たった一回、病院にいる自分を哀れに思った親切な少女の気まぐれで誘われただけだと分かっていたが待っていると言った彼女の言葉に期待している自分を自嘲する。
そうこうしている間に今年の大規模討伐は異例の速度で完了しようとしていた。
もうロスハーゲンの街にいる必要がなくなる。
結局一度も彼女と話すことは無かったと思っているとことは起こった。
下層では異常に強いモンスターたちが大量発生しており、S級の自分でさえも気を抜けば致命傷を負いかねない状況だった。
早い段階で若者たちを外に出ておくよう言うべきだった。
今年は手前の層にあまり強いモンスターがいなかったこともあり力がない者も見誤った者もいたのだろう。何より今年から新たに大規模討伐に参加したものも多くどの程度の危険性があるか周知出来ていなかった。
倒れていく者たちを動ける奴等に運ばせる。
一刻を争う状況だった。
カーティスが重症の青年を連れて外に出ると外も野戦さながらの有様だ。
応急処置用のテントからは所どころで悲鳴が聞こえてくる。
ギルドのメンバーは休みの者や普段は裏方の業務を行っている者たちも駆り出されているようだった。
周りを見渡すと匂いがした。
あたりには血の匂いが立ち込めていたが、彼女の匂いは直ぐに分かった。
瞳がかち合う。彼女がこちらに駈け寄ってきた。
男を小脇に抱えていたことを思い出し、彼女に渡す。
程なくして、全ての冒険者を亡骸も含めて外へ運び出した。
―――やっとダンジョンでの討伐を終えた。
明日以降再度今後のスケジュールを組みなおす必要がある。
皆疲れ切っているはずだ。
仮住まいに戻ろうかとも思ったが、気が向かない。
気持ちが高ぶっているのがわかる。
これまでもこういったことはあった。若い頃は女の所に行って鎮なぐさめたりもしていたが、最近はもっぱら寝て過ごしてごまかしていた。
しかし、今日は想像以上に甚大な被害が出てしまい精神的にも疲れていた。
なんだか温かい食べ物が食べたい。シチューが食べたい。
ああ、彼女の顔が浮かぶ。
気づいた時に足が向いていた。彼女に伝えた言葉に嘘は無い。
―――ああ、こんなにも彼女のたった一言に自分は縋っていたのか。
情けないとの思いとは裏腹に自然と足は向いていた。
家の前までつくといい匂いが漂ってくる。
彼女の作るシチューの香りだった。
腹が鳴ったのが分かった。どんなに血生臭い現場を見た後でも腹は減る。
生き物とはそういうものだ。
今日は何の約束もない。引き返すことも考えたが彼女の声が脳内で木霊した。
<私、待っています>
ちょうど一年前の言葉を頼りに扉を叩く。
彼女は変わらず優しい笑顔でカーティスを迎えてくれた。
前回とは違う即席と思われる具材たちだが彼女のシチューは相変わらず旨かった。
そして何より、彼女の笑顔に癒されている自分がいた。