第9話 武田(上里)和子、及び武田義信(まとめ編)
武田(上里)和子 1542年生、?年没、(第1部から第15部まで登場)
武田義信 1538年生 ?年没、
(本編において、基本的にこの二人は共に登場して活躍することが多いので、まとめて描きます)
和子は上里松一とプリチャ(永賢尼)の初子になり、アユタヤで生まれ育ち、6歳の時に上里愛子(張娃)の養女に迎えられて、その後は日本で実父と養母の下で育つ。
14歳の時に実母のプリチャ(永賢尼)が仲介して来た武田義信との縁談を受け入れて結婚し、初等女学校卒業後に既に北米に在住していた夫を追って、1556年に北米に赴く。
尚、その際に夫との家格の差を埋めるために、本願寺顕如の実母の顕能尼の猶子に和子はなった。
義信は武田晴信と三条氏との間の長男になる。
「皇軍来訪」前後の武田家の当主を巡る紛争から、武田晴信の実弟の信繁が武田家の当主となり、義信が信繁の養子となって、次期当主となる予定だったが、信繁に実子が産まれたことから、義信は自発的に身を引くことになり、北米に赴くことになった。
更に言えば、この当時の北米はゴールドラッシュに沸いていた時期でもあり、そうしたことから、義信と共に多くの武田関係者、甲斐や信濃の有力者が北米で一旗揚げようと赴くことになった。
更にこのことが、後の北米独立戦争で独立派の軍事力の一端等を武田家関係者が担うことにもなった。
そして、義信と和子は北米大陸の開発に勤しんだが、そこに起こったのが、1557年の後奈良天皇崩御からその余波として生じた法華宗不受不施派の北米大陸への大量移住であり、更にそれに対処するための浄土真宗本願寺派の宣教、拡大だった。
和子は本願寺顕如の義姉であり、その縁から本願寺派に肩入れせざるを得ず、又、和子の異父兄の勝利の妻の宇喜多氏の身内の多くが法華宗不受不施派の信徒として、北米大陸に移住してきたことから、否応なしに、それにも対処せざるを得ない事態に陥ることになった。
更に言えば、(17世紀末に近いこの世界では信じがたいが)当時の北米大陸の日本の植民地は米作に適しているように開拓するには困難な状況にあり、そうした状況も相まって、当初はカリフォルニア周辺から始まった北米大陸の日本の植民地は、急激に北米大陸の中東部を目指して拡大する事態が起きた。
そして、1562年からの対スペイン戦争の勃発から拡大は、武田義信と和子夫妻が徳川家等と協調した上で、米作の適地としてカリブ諸島を日本の植民地にしようとする動きを引き起こし、終にはスペイン本土の一角であるジブラルタル占領にまで至ることになる。
こういった行動を武田夫妻や徳川家等は、当時の日本に取って良かれと考えて行ったが、当時の日本政府にしてみれば、完全に現地勢力の暴走であり、武田夫妻らに激怒することになった。
その為に褒賞等は行われなかった。
更にこれだけの植民地の拡大は、人手不足から大量の異人種の年季奉公人を北米植民地を受け入れる動きを引き起こしたが、その一方で、日本本国は年季奉公人を規制する動きを強めつつあり、こうした状況が北米独立戦争を引き起こすことになる。
そして、北米独立戦争時、徳川家康、武田夫妻は北米独立戦争の三首魁とされることとなった。
北米独立戦争終結後、北米共和国大統領等の座を巡る選挙戦が何度か行われたが、武田義信は徳川家康に敗れて大統領には成れなかった。
だが、武田夫妻の長男の武田信光が徳川家康を破り、1594年から1606年の3期12年に亘って大統領を務めている。
武田信光が大統領選で徳川秀忠に敗れた後、夫妻は共に60歳を過ぎていたこともあって、その後は隠居して、悠々自適の生涯を送って共に病死した。
もう少し、この夫妻については、主観的な説明等を入れたい、とも考えたのですが、どうにも上手い描写が思い当たらず、このようなことに。
尚、作者なりの呟きは、明日夜に投稿します。
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