第6話 織田(三条)美子(まとめ編・下)
織田(三条)美子が、正親町天皇陛下の信任を得たことは、後々に多大な影響を与えた。
エジプト独立戦争が終結した後、美子は自らの妊娠出産(尚、この前後に、美子が広橋愛を産んだという異説が世界中に流れているが、日本政府は公式見解で否定している)の為に、尚侍を一旦は辞任するものの育児が落ち着いたことから、尚侍に復職して、正親町天皇陛下の最側近になったのだ。
そして、1574年の日本史上初の憲法制定に伴う国会選挙から首相選出において、様々な真偽不明の裏話とされるモノが流布されているが、それでも(この世界中の)多くの政治評論家、歴史家の最大の通説になっているのが、
「織田(三条)美子が正親町天皇陛下の最側近になっていたことが、正親町天皇陛下に、織田信長を日本史上初の首相指名に踏み切らせた最大の要因である。
もしも、美子がいなければ、正親町天皇陛下は織田信長を首相に指名するという決断を下せなかった」
ということである。
実際に織田信長は、大坂全労連から大日本帝国全労連、更には日本労農党の結党を(この世界では)成し遂げて来た人物である。
日本以外の国(その中には北米共和国やローマ帝国も含まれる)の大半の政治評論家や歴史家から、
「織田信長こそが、市民、臣民からの世界史上最大の無血革命家」
と評される程の人材なのだ。
そういった人材が、日本史上初の首相に成る等、ある意味ではアリエナイといってよい。
だが、美子が妻であったことから、正親町天皇陛下は、その夫ならば問題無い、と考えて首相に指名することになり、更に言えば、その指名に報いようと織田信長は粉骨砕身することになり、(この世界の)日本、及び世界の立憲政治が確立していく事態が生じることになった。
尚、夫の首相在任中は、美子は尚侍を退任して、一貴族院議員となり、夫婦で政府、宮中を牛耳っているように見られないように務めた。
夫が首相を退任して政界引退後は尚侍に復帰して、島津義久首相時代の宮中を事実上は取り仕切ったが、木下小一郎首相誕生に伴い、尚侍を改めて退任する。
その後は貴族院の重鎮議員として、日本政府、宮中に睨みを利かせる存在になり、近衛前久と並ぶ日本の政界の黒幕的存在になる。
猶、正親町天皇陛下との関係は良かったが、皇位継承問題等から、後陽成天皇陛下と美子の仲は極めて悪かったと伝わっている。
その為に当時の一部の公家から様々な悪口が流れているが、その代わりに後水尾天皇陛下との仲は極めて良好で、異説では彼女の秘密の孫とされる義理の姪の鷹司(上里)美子が中宮に成れた一因は、美子の為とされる程である。
実際、この時期、後陽成天皇陛下の御代の皇室典範改正については、近衛前久と美子が手を組むことで遂行されたというのが、当時から今に至るまでの評価である。
その為に、後陽成天皇陛下が側近に対して、
「本来は異国の民であるあの女(美子のこと)が、我が国の皇位継承を操るとは。天皇の地位を蔑ろにするものだ」
と罵倒したと伝わる程である。
だが、後水尾天皇陛下の御言葉によれば、
「美子こそ真の皇室尊崇論者である。皇位継承が安定化したのは美子の御蔭である」
とのことで、この言葉に多くの歴史家等は賛同している。
そして、義理の姪である鷹司(上里)美子が中宮として入内して、その長男が皇太子への立太子の礼を行うのを見届けた上で薨去した。
その薨去を受けて、正一位を贈位するとの動きがあったが。
「夫の信長が正一位である以上、私は従一位で充分です」
と公言していたことから、美子には従一位が贈位された。
猶、夫の信長との間には20人もの子宝に恵まれており、琴瑟相和す仲の良い夫婦であったとも伝わる。
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尚、解説編を明日、投稿します。