第59話 尼子勝久と山中父子(まとめ編)
尼子勝久 1553年生 ?年没
山中幸盛 1545年生 1600年没
山中幸元 1571年生 1651年没
尼子勝久は、本来からすれば、尼子宗家からすれば傍系の出身になる。
尼子勝久の曽祖父の尼子経久が尼子宗家の4代目であり、経久の次男の国久が分家を立てた。
更に勝久からすれば父、国久からすれば嫡長子に誠久はなるが、勝久は五男に過ぎなかった。
そうしたことからすれば、勝久は尼子宗家の傍系にも程がある、と言われても仕方ないが。
現在では、勝久の家系こそが、尼子宗家のような扱いを世界的に受けている。
これは勝久が、日本の首相を務め、又、京極本家との和解を果たしたことに因るものだが。
それには様々な紆余曲折があり、更に言えば、山中父子の奮闘が極めて大きいモノがあった。
尼子宗家は京極本家の分家であり、詳細は省くが尼子経久の代に京極本家に代わって、幕府から出雲守護に任ぜられて、山陰地方の一大勢力となった。
だが、「皇軍来訪」によって尼子宗家は出雲、伯耆2国の国司となることになり、更には当時の当主の晴久が1561年に没したことから、国司の地位も返上せざるを得なくなり、山陰地方の名族として存続するだけの有様を呈した。
こうした状況が変わったのが、大日本帝国憲法発布と衆議院議員総選挙の開始だった。
この状況から、地方の名族(というよりも、その周囲)から衆議院議員を目指す動きが起きた。
(これは国会議員になることによって、様々な利権を周囲が得られるのでは等の思惑からだった)
そして、近衛前久と島津義久の連携は、1578年に尼子一族にまで声が掛かる事態を引き起こした。
尼子宗家の当時の当主の義久は衆議院議員を目指すことを断ったのだが、山中幸盛を始めとする周囲は尼子家の面々をしらみ潰しに担ぎ上げようとした。
そして、最終的に幸盛らの懇願に根負けした勝久が、人身御供のような感じで衆議院議員選挙に出馬して衆議院議員となり、保守党に所属することになった。
勝久は幸盛らの援けで衆議院議員に当選し続けたのだが。
勝久自身は余り野心を表面に出す性格ではなく、清廉な議員として身を律し続けた。
そうしたことが皮肉にも保守党内で信望を集め、徐々に親勝久の議員を増やした。
だが、このことは必然的に勝久やその周囲にしてみれば、そういった議員を支援せねばならない事態を引き起こすことでもあった。
そうしたことが、幸盛の長子の幸元が中学を卒業して早々に、1586年に出雲の日本酒の大手蔵元の事実上の婿養子に迎えられる事態を引き起こすことになった。
幸盛は長子の幸元を蔵元にすることで、勝久の財政を充実させようと考えたのだ。
そして、幸元はその父の期待に十二分に応えることになった。
幸元は「鴻池」というブランドの高級日本酒を売り出し、地元の出雲大社への納入に成功、更に保守党が主催する様々な宴会等でも、勝久を介して「鴻池」を売り込んだ。
それによって得た多大な信用を活かして、尼子家が宇多源氏の一門であることから、公家の庭田家(宇多源氏)を介して、宮中や本願寺にも「鴻池」を売り込んだ。
(本願寺顕如の実母は、庭田家の出身である)
更には、幸元はエジプト、ローマ帝国に移住した京極本家や、北米共和国の武田家(武田(上里)和子は、既に義絶されていたが、一時は顕如の猶姉になっていた)を介して、日系諸国へ「鴻池」を売り込み、日本酒の海外輸出の先鞭を果たしたのだ。
そして、こういった日本酒事業で多大な富を得た幸元は事業の多角化を図り、更には金融業にも手を出して、山中財閥を形成することとなった。
山中財閥は勝久の政界での活躍を金銭面で支えることになり、勝久を保守党の雄にのし上げた。
本当にすみません。
思ったより長くなったので、次話は解説編になりますが、まとめの続きが半分ほどを占めることになります。
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