第54話 近衛前久(まとめ編・下)
1582年の保守党の勝利は、織田信長の政界引退という事態を引き起こしたが、近衛前久と織田(三条)美子の暗闘はまだまだ終わらず、長きに亘って続いた。
尚、1582年の保守党の勝利によって前久は首相就任を目指したが、美子らが義久の野心や世論を煽ることで義久が首相となった。
それならば、内大臣に居座ろうと前久はしたが、正親町天皇陛下の意向から、内大臣は九条兼孝(美子の義弟)となり、美子は尚侍に復帰した。
そして、これ以降は年齢等の問題から、前久は内大臣等になることはなく、貴族院の親保守党の重鎮議員、摂家の最長老として、人生を送ることになった。
とはいえ、前久と美子が常に対立していたとはいえず、例えば、1586年の近衛前久の娘の前子の皇太子(後の後陽成天皇陛下)殿下への入内を協力して行い、朝儀復興を果たしているが。
この当時、(元を糺せば外国人の)美子は、九条兼孝を妹婿に、二条昭実を娘婿に、鷹司信房を姪婿にすることで、三摂家(更に言えば、この三人は実の兄弟)との縁を確立して貴族院等で勢力を確立していたのだ。
その為に、前久としても一条内基と連携することで貴族院等で対峙するしかない状況で、このことが前久としては腹立たしくてはならず、それが前久と美子が、30年近くも暗闘する事態を引き起こした。
だが、その一方で、前久と美子も皮肉なことに「皇軍知識」に触れてきたこと等から、
「皇室、今上陛下は君臨すれど統治せず」
が皇室存続のためには必要不可欠だ、という一線では手を組み続けることになった。
そうしたことが、後陽成天皇陛下の様々な暴走から引き起こされた皇位継承や生前譲位問題等で、前久と美子が手を組んで、皇室典範改正等を遂行するという事態を引き起こした。
又、日本の植民地問題解決の軟着陸、大日本連邦帝国への国体移行を円滑にしたのも、前久と美子が協調して貴族院を主導したことが大きく働いている。
そういった史実等からすれば、単純に前久と美子が対立し続けていた訳ではなく、本当に複雑な関係を維持し続けたというのがよく分かる話で、様々な創作物(小説等)では、単に二人が常に対立した関係にあるとして描かれることが多いが、実際にはそう単純に対立関係が続いた訳ではなく、熟練した政治家同士が、腹に一物を抱え込み合ってのやり取りが、長年に亘って続いたと言うべきだろう。
そして、1611年に後陽成天皇陛下から後水尾天皇陛下への譲位が事実上は強行された頃から、前久は体調を崩すようになった。
前久としては、自らの男系の男子の孫がいないことを気に掛け、近衛家の後継者問題につき奔走することになった。
最終的に自分の死後は自らの女系の孫であり、後陽成天皇陛下と自らの娘の前子の間の皇子になる近衛信尋が、男児のいない息子の近衛信尹の娘婿として近衛家の後継者として定められることで、一旦は落着したが、孫娘が年上の為か、信尋と仲が悪い事態が生じた。
ぞして、前久自身は孫娘と信尋の仲が悪く、孫娘が奔放なことを気にしながら、近衛家の将来を心配した末に1612年に薨去することになった。
実際に前久の死後、孫娘は複数の愛人を夫の信尋を公然と無視して作る有様となり、信尹は心労から酒浸りとなって薨去したのだ。
更に、最終的には孫娘は、激怒した前子によって監禁された末に狂死することになり、信尋は鷹司信尚と美子の間の長女の智子と再婚して、近衛家の血脈は伝えられることになった。
尚、智子は前久のライバル、宿敵の織田(三条)美子の曾孫説があり、それが真実ならば、信尋と智子が結婚したことが、前久と美子の因縁を解いて、近衛家が存続する事態を引き起こしたといえる。
鷹司信房ですが、正妻の佐々成政の娘は家格等の問題から、九条兼孝と敬子の養女になっています。
その為に織田(三条)美子にしてみれば、姪婿という関係になるのです。
(更に言えば、鷹司(上里)美子も九条兼孝と敬子の養女になっており、鷹司信尚も、織田(三条)美子にしてみれば、姪婿になるという二重の関係になることに)
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