第52話 木下小一郎
この世界の豊臣秀吉父子を描いたことから、この世界の豊臣秀長も描くことにしました。
それにこの世界の日本の首相を務めたという事情もあります。
木下小一郎 1540年生、1598年没 (第8部から第10部まで登場)
日本の第3代首相を労農党を中心とした与党にして、1590年から1598年まで務める。
日本の国政を担う二大政党の一つ、労農党の立て直しに奮闘した名政治家として、又、北米共和国やローマ帝国の軍事的脅威に対して対処したタカ派の首相として後世に名を遺している。
木下小一郎だが、この時代ではよくあったことだが、小学校を卒業してすぐ、10代になって早々の身で尾張の那古野の紡績工場で働くことになった。
そこで一生懸命に働いて徐々に周囲から認められたが、所詮は小卒で学歴から、管理職等になるのは無理だと自他共に判断する状況にあった。
そうした小一郎の状況が変わったのが、1558年の尾張全労連の結成である。
1557年に織田信長は大坂全労連を結成、更に全労連を全国組織にしようとした中で、尾張でも全労連を創ろうと奮闘した。
それを見た木下小一郎は、自らの周囲等に声を掛けて、尾張全労連結成に奔走し、その行動を見た周囲に推されて、尾張全労連の事務局長に20歳前の身で就任することになった。
尚、小一郎自身は就任を固辞したのだが、この頃の全労連は、細かいことを言えば違法組織とされかねない状況で、そうしたことから小一郎が事務局長に就任する事態が引き起こされた。
そして、小一郎は様々な周囲との交渉に努めて、尾張全労連を発展させて事務局長を振り出しに三役を務め続けた。
更に1574年の衆議院総選挙に労農党の公認を得て満を持して出馬し、尾張第1区でトップ当選を果たし、それこそ7選連続トップ当選という偉業を果たし、1582年の織田信長の政界引退を機に、激烈な党内抗争を勝ち抜いて労農党党首に、1590年には首相にまで躍進することになった。
だが、このことは心身を消耗させることになり、1598年の総選挙でもトップ当選を果たして首相就任を目捷にしながら、病からの急死を引き起こすことになり、その死は周囲から惜しまれた。
(作者としての呟き)
この世界の豊臣秀吉と秀頼を描いた以上、豊臣秀長も描かねば。
更に言えば、この世界では豊臣秀長は首相を務めているし、ということから投稿しました。
とはいえ、本編で描いた情報が少なく、それを補充するようなまとめにならざるを得ませんでした。
そして、あくまでもネット情報のまとめ、という体裁を取っていることから、前半のまとめ部分では描けない話が、幾つもあることに。
例えば、木下藤吉郎(羽柴秀吉)と小一郎の関係ですが。
表向き、ネット上ではオスマン帝国への叛乱を使嗾して死刑になった大罪人の実弟だが、小一郎本人は謹直で兄とは大違いの大人物で、日本の首相まで務めたという扱いにほぼなっています。
でも、実際には藤吉郎(秀吉)と小一郎は、パナマ運河建設祈念式典の際に密かに再会して、小一郎は兄の生存を知る事態が起きています。
他にも、加藤清正や福島正則が、ローマ帝国の陸軍軍人になったのは、兄や甥の生存を知った小一郎の裏の依頼からなのですが、ネット上では清正や正則がローマ帝国の軍人に憧れて転職したということになっています。
そんな感じで、まとめでは描けなかった裏話がゴロゴロとある事態が。
(後、この世界の秀次の人生も色々と考えます)
それにしても、史実では兄の名補佐役として名を遺した秀長では無かった小一郎は、この世界ではかなり違ったイメージを遺す事態が引き起こされました。
この世界では、信長の政治的衣鉢を継いだのは小一郎だ、更には二条昭実を介して伊達政宗首相を結果的に誕生させる事態を引き起こした労農党にとっての英雄、という扱いになっている気がします。
ご感想等をお待ちしています。




