第43話 千江皇后陛下 (おまけ)
あらすじでも書きましたが、これはオマケということで、1720年前後のネット事典のまとめになります。
そのために、更なる未来が垣間見えることになっていますが、どうか緩く見て下さい。
千江皇后陛下 1597年生 1666年没 (第13部から最終部まで登場)
徳川秀忠と小督の間の次女になる。
(この世界では九条完子が二人の間の長女の為)
長女の完子が、学習院初等部入学の為に日本に6歳で留学したために、事実上の長女として秀忠夫妻の鍾愛の娘として、千江は育つことになる。
1611年に日本と北米共和国の更なる和解の証として、当時、尚侍であった鷹司(上里)美子の仲介により、千江は日本の皇太子(後の後水尾天皇陛下)の妃になる。
更に家格を心配した義理の伯母のエウドキヤ女帝によって、養子としてローマ帝国の皇女にもなった。
(具体的には、エウドキヤ女帝と皇配の浅井亮政の間の養女ということになる)
日本に赴いた後、千江は事実上の家庭教師を務めた美子と親しむようになり、私的な場では「お姉様」と呼ぶような仲になった。
このことが、後に夫を亡くした美子が中宮に入内するのを、千江が認める背景となったとされる。
生涯に亘って後水尾天皇陛下とは極めて仲が良く、更に美子中宮ともお互いに仲が良かったことから、
「理想的な一帝二后」
と今でも伝わるほどの関係を築く。
更にそうしたことが、後水尾天皇陛下と千江皇后陛下の間の皇女、文子内親王殿下が、鷹司信尚と美子中宮の間の次男の上里松一と結婚することにまでつながった。
その一方で、子ども運には恵まれたとは言い難い生涯を送られた。
後水尾天皇陛下との間に四男五女を儲けたが、長男は死産であり、次男、四男も病弱で夭折した。
(それが後水尾天皇陛下が、美子中宮を入内させた最大の理由とされている)
三男の高丘親王殿下のみが長命したが、後水尾天皇陛下からすれば第五皇子であり、皇太子とは縁が遠い存在で、常盤宮家を創設したが、結局は男児が高丘親王殿下には産まれないまま薨去されたため、常盤宮家は断絶した。
そのため、男系の皇族で千江皇后の血を承けた御方は、今はおられない。
(尚、高丘親王殿下は女児には恵まれており、女系で血は伝えられている)
1666年に崩御され、後に後水尾天皇陛下も同じ陵に葬られた。
(作者としての呟き)
この世界の千江の子どもに関しては、色々と悩んだ末に、四辻与津子と東福門院和子を合わせたような感じで描くことになりました。
この辺り、以前にも他で呟きましたが、当初の大プロット、後水尾天皇陛下と東福門院和子様の婚姻で本編完結と考えていたことの名残も入っています。
本当に昨年の大河ドラマで源氏物語が取り上げられていなければ、こんな結末にならず、千江皇后陛下の産んだ皇太子殿下が、将来は即位するかも、という結末になったでしょうが。
源氏物語で、藤壺中宮が産んだ冷泉帝が誕生している以上、やはり、藤壺中宮に相当する美子の子が将来は皇位を継承するのが垣間見える最後にしたい、と考えたこと。
それに史実でも、和子様の産んだ皇子は即位されていないことから、それに合わせるというのも変ですが、それに近い形にしよう、と考えた次第です。
とはいえ、その為に最終部が近づくにつれて、色々とムリに近い描写をすることになり、本当に苦労することになったのは、自業自得としか言いようが無いことでした。
尚、千江の性格ですが、本当に史実での性格が私には掴み難くて、オリジナルといわれて当然の性格になっています。
この辺りは描写の都合もあります。
最終的に美子を中宮として入内させることにした以上、千江がそれに激怒するようでは、この小説の軸が崩れかねません。
そうしたことから、従前から千江と美子は仲が良く、美子が出家遁世するよりも、まだ入内した方が色々とマシと千江は考えたという描写になりました。
そんなことが浮かんできます。
ご感想等をお待ちしています。




