第37話 徳川家康(まとめ編・下)
家康と瀬名が不仲になった理由として、よく言われるのが、家康の浮気癖である。
家康は愛人を何人も作ったのだ。
それだけならば、時代の性で済んだだろうが、家康は瀬名への当てつけのように、年上で経産婦の異人種の女性を愛人として何人も囲ったのだ。
この辺りを家康の好みの問題と擁護する論者もいるが、多くが瀬名を暗に貶めるモノで、瀬名が激怒して当然と主張される。
そんなことから、日本の北米植民地における外国人の年季奉公人禁止問題から、家康や武田義信夫妻らが日本本国からの独立を策したのに、瀬名は息子の信康と共に反対して、袂を分かつことになった。
更には家康と瀬名は離婚することになった。
又、家康は、実母の於大の方や長男の信康を始めとする親族の多くと絶縁することにもなった。
この為に今川家の縁者ということで得られていた家康の権威は落ちることになり、それを補う必要が家康には生じた。
その為に改めて家康は、松平家は足利家の血を引く存在であるとして、松平姓から徳川姓に改姓して、更には源義家公にあやかるとして、元康から家康に改名することになった。
そんな事態が起きた末に、1574年から北米独立戦争が戦われることになった。
尚、この時の日本の首相は織田信長であり、1556年頃に信長がカリフォルニアに赴いた際に、家康と親友になっていたのだが、この独立戦争は親友の仲を引き裂いた。
信長が1595年に亡くなる前、
「もし、航空機が今のようになっていたら、儂と家康殿が直に面談して戦争を回避できた」
と嘆いたそうだが、確かに1574年当時は複葉機が量産されだしたばかりであり、太平洋横断を航空機が行うのは不可能だった。
もし、1595年頃のように、太平洋横断を航空機で行うことが可能になっていたら、北米独立戦争が回避できたのかは、興味深いもしもではあるが。
現実には無理な話で、家康は北米独立戦争を武田義信夫妻らと遂行することになり、1579年にオスマン帝国の仲介によって、北米大陸西海岸部(カリフォルニアやオレゴン)とカリブ諸島等を日本本国領と認める代償として、北米植民地の独立を勝ち取り、北米共和国を建国することになった。
そして、どんな国の形にするか、様々な論議が行われた末に、大統領制と議院内閣制を組み合わせた国体とする北米共和国憲法を制定することになり、1582年に北米共和国の初代大統領に家康は就任することになった。
更にそれから12年に亘って、北米共和国大統領を務めることになった。
1594年に武田信光に大統領選で敗れたことから政界を引退して、悠々自適の生活を表面上は送るが、息子の秀忠の大統領就任を目指して裏では尽力し、1606年に秀忠の大統領当選を後押しした。
その後は、高齢になったことから、完全に引退し、好々爺として過ごした。
そして、1610年に孫娘の徳川千江が、皇太子時代の後水尾天皇陛下の皇太子妃になったのを、
「日本本国との完全な和解の象徴」
として、心から喜んで、自分の曾孫が何れは皇位に就くことを夢見たのだが。
皮肉なことに、この結婚を事実上は斡旋した当時の尚侍、鷹司美子が、後に後水尾天皇陛下の中宮となって皇子を産み、その子が皇位を継承したことから、その夢が果たされることは無かった。
1616年に患っていた胃ガンにより死去。
「北米共和国の建国の父」として盛大な国葬が執り行われた。
尚、人類の宇宙進出のきっかけを作ったのは家康といえるのだが、その発端が、再度の対日戦を想定した大陸間弾道弾開発であり、それに織田信長夫妻やエウドキヤ女帝らが逆ネジを加えて、国際協力に基づく宇宙進出にしたというのは、何とも皮肉な話である。
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