第23話 広橋愛(まとめ編)
広橋愛 1569?年生 ?年没 (第9部から最終部まで登場)
未だに様々な噂等が世界で飛び交う女性と言える存在である。
本人や周囲、家族等(その中には後水尾天皇陛下まで含まれる)によれば、1569年頃にチグリス、ユーフラテス川の畔にあったオスマン帝国領のマンダ教徒の村で生まれ育ったが、サファヴィー朝とオスマン帝国の戦乱の中で、幼児といってよい頃に村は焼き払われて、両親等は殺され、生き残った自分は奴隷になって、様々な主人の下を転売されていった。
(1569年頃という曖昧な表現になるのは、広橋愛本人自身にも正確な生年が不明の為)
その末にイスラム教徒に改宗してオスマン帝国のカリフの下に献上され、ハレムの女性となった後に、1590年にオスマン帝国へ軍事指導の為に派遣された上里清に下賜されて愛妾となり、1591年に鷹司(上里)美子を産んだとされる。
(だが、この上里清の愛妾になるまでについては、トンデモ説を含め複数の異説がある。
詳細は別話の広橋愛の出生等の謎のまとめを参照)
尚、上里清の愛妾になって以降の生涯については、上里家の家族を始めとする多くの証言や書類等があり、ほぼ確実な人生をたどることができる。
1595年に上里清がオスマン帝国から日本に帰国する際、上里清の妻の理子の単独養子になることで日本人に帰化して、それ以降は上里家の家族として、ほぼ暮らすことになった。
(更に言えば、それ以前に愛は清との愛妾関係を解消しており、同居人となっていたのだが、これ以降は上里清夫妻の事実上の養子となり、実娘の美子の義姉という立場になった)
(これは上里清との間に美子を愛が産んでいるために、愛を上里清夫妻の養子にすることは、いわゆる妾養子として違法行為になるので出来ないという事情から生じた苦肉の方法だった。
その為に一時、上里清と理子は離婚して、愛を理子の単独養子にした後、清と理子は再婚するという形式を取ったのだ)
日本人になった後、愛は義理の従兄になる伊達政宗の国会議員事務所の事務員として当初は働くが、その頭の良さ等から、速やかに秘書に抜擢されて、片倉景綱に次ぐ第二秘書を長く務めることになり、片倉景綱が1610年に退職した後は第一秘書となった。
そして、伊達政宗が政界を引退した後は、その後継者となった伊達忠宗の第一秘書を4年務めた後、1630年に伊達忠宗が二期目の当選を果たしたのを見届けて、片倉重綱に第一秘書を引き継ぎ退職することになった。
その為に長年に亘る政界の裏事情を把握しており、与野党間の調整に際しては様々に常に暗躍していた、又、実の娘になる美子が中宮にまで上り詰めたことも相まって、政府と宮中が裏でやり取りをする際には、密かに暗躍していた等の噂が絶えない女性でもある。
私生活では上里清夫妻の義子となった後に、義父母から結婚を勧められたこともあるらしいが、生涯に亘って独身を貫く。
本人の言葉に因れば、
「奴隷にまで堕ちた身ですから、結婚する等は考えられません」
と語っていたとのことである。
その一方、徳川秀忠の庶子になる正之を懐妊していた女性を、上里清夫妻が庇護した縁から、正之を養子として引き取ることになり、広橋家(分家)を創設した。
そして、養子の正之を育て上げ、最期は正之に看取られて亡くなることになった。
尚、こういった経歴から、生涯で何度か、愛は改宗している。
マンダ教徒からイスラム教徒に、更に日本人になったことから、養母に合わせて仏教徒に改宗しており、葬儀等も仏教で行われ、墓も仏教徒として建立されたが。
本当はイスラム教徒から仏教徒に改宗したのは擬装で、実はマンダ教徒に戻ったとの噂が絶えない。
話中に出て来る別話ですが、次話になります。
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