第19話 織田信長(まとめ編・下)
織田(三条)美子のまとめ編とは、色々と描写が違います、というツッコミの嵐等が起きそうですが。
ネット情報のまとめの転載という形式を取っている以上、ネット情報では食い違いが起こるのは、よくあることだ、と緩く見て下さるように、作者としては平にお願いします。
そして、大坂全労連から大日本帝国全労連が結成され、更にそこを主な支持母体とする日本労農党が結党されるのと相前後して、日本中で憲法制定、庶民も参加した国会創設の動きが芽吹くことになった。
これは日本各地において「皇軍知識」によってもたらされた工業化が進むことで、商工業の拠点となる都市が各所で建設等されると共に、都市の住民が自らの権利を訴え出したことから起きた流れであり、織田信長はそれを上手く活用して政界への進出を図ろうとしたが、数年に亘って容易には進捗しなかった。
その動きが変わったのが、1568年に起きたエジプト独立戦争とその余波である。
エジプト独立戦争の主要人物に濃尾出身者が多くいたこと、又、その首魁が信長の妹婿になる浅井長政であったことから、時の近衛前久太政大臣は、織田(三条)美子が三条氏の猶妹になっていた縁を活かして、美子を三条公頼の正式な死後養女とし、更に従三位尚侍に就任させて、オスマン帝国への副使兼停戦を命ずる勅使にしたのだ。
更には、この機会に信長夫妻を自らの味方にあわよくば取り込もうとまで、近衛前久はした。
このエジプト独立戦争を活かした近衛前久の策謀に対し、時の今上(正親町天皇)陛下の大御心を踏まえた上で、信長夫妻(尚、どちらが主導したかは諸説ある)は、それなり以上の対応を行った。
その結果として、エジプト独立戦争は大御心に沿った結末を迎えることになり、更にはスペイン等との講和もこの機会に成立することになった。
又、近衛前久は太政大臣を辞任することになった一方で、信長夫妻は今上陛下から深く信認されることにもなった。
そして、様々な紆余曲折があった上で、1574年に大日本帝国憲法が制定、公布されて、衆議院と貴族院という国会が開設されることになった。
この大日本帝国憲法の制定や国会開設等に関して、信長夫妻は近衛前久らと渡り合い、少しでも民本主義を実現しようと運動したとされている。
そして、選挙の結果、信長率いる労農党は衆議院の第一党を占めることになり、更には今上陛下の信認を得ていたことから、日本(というより世界)の憲政史上初めて首相に信長は就任できた。
更には、その情報は世界を驚愕させることになった。
貴族(公家)でなくとも首相に就任できる等、世界中で考えられてもいなかったからだ。
だが、好事魔多しで、このことが北米独立戦争勃発に繋がることにもなった。
労農党は外国人年季奉公人禁止を選挙公約としており、更に信長は首相就任の勢いでこのことを法律化したが、これは日本の北米植民地の住民の憤激を招き、北米独立戦争勃発を引き起こしたのだ。
そして、北米独立戦争勃発に伴い、信長は親友だった徳川家康(松平元康)と、その妻の美子は妹の武田和子と敵対することにもなった。
そして、5年余りの戦争の結果、日本の北米植民地はカリブ諸島等を失ったモノの、日本本国から独立を認められて、北米共和国を建国することになった。
更には、この5年余りの戦争は、北米植民地の独立を最終的には認めたモノであり、信長率いる労農党の人気の低落を招いた。
その結果、1582年の総選挙で労農党は敗北、信長自身も落選する事態となった。
その際に本能寺において信長は、
「是非もナシ」
から始まる名文の引退演説を行った上で、隠居生活をこれ以降は送った。
それ以降、鷹狩りや茶道等の様々な芸能等を隠居生活において信長は楽しみ、趣味人としての生活を送り続けた。
その結果、一部は趣味の域を越えたとされ、茶道が芸術になったのは信長が一因とされる。
1594年に脳卒中を発症してその翌年に没した。
そして、正一位が死後贈られ、国葬が執り行われた。
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