第15話 九条(上里)敬子と九条兼孝
九条敬子 1554年生 ?年没 (第3部から最終部まで登場)
九条兼孝 1553年生 ?年没 (第5部から最終部まで登場)
上里松一と上里愛子(張娃)の長女(上里家の兄弟姉妹でいえば四女)になる。
母譲りの美貌と芸術の才、特に楽才(琵琶の名手として世界に知られ、又、琉球の三線を世界に広めた発端は敬子の演奏だ、と後に伝わる程)に恵まれており、そうしたことから14歳にして九条兼孝の愛妾に誘われるが、義姉の織田(三条)美子らが奔走した結果、琉球王国の国頭親方の養女となり、九条兼孝の正妻として嫁いだ。
九条兼孝とは仲の良い夫婦であり、幸家らの実子に恵まれ、後述するが、輝子や美子といった養子も迎えており、そういった子どもらと共に仲の良い家族生活を最期まで送っており、その死を子どもらが看取った。
九条兼孝は二条晴良の長男で九条稙家の養子になり、九条家を継いだ。
本来ならば、九条家当主として内大臣を長年に亘って務めるべきだが、義姉の織田(三条)美子曰く、
「一般人としては善い人だけど、致命的な程に政治的センスが無い」
と評される人物で、代々の今上陛下からも信任が薄く、1582年から1586年に内大臣を務めた後は、政治的には無職をずっと強いられる羽目になった。
(後に首相に成る伊達政宗が農水省に就職した際、公然とその斡旋をしたことが、政府と宮中を峻別していた時の正親町天皇陛下の逆鱗に触れ、それが尾を引いた、と伝わっている)
その一方、鷹司(佐々)輝子や鷹司(上里)美子の養父母に九条兼孝夫妻は成っており、又、徳川完子を幸家の妻にする等、日系諸国の修好に陰で活躍したのも事実である。
後水尾天皇陛下と養女に迎えた中宮の鷹司(上里)美子の長男、後の後光明天皇陛下の立太子の礼を見届けて薨去し、妻子に囲まれて幸せな最期を迎える。
将来の九条家の繫栄を確信して没したが、皮肉なことにこの縁等から、女系の血は承けたものの、男系としては鷹司信尚と美子の孫が九条家等を継ぐことになり、兼孝の男系子孫は絶えることになった。
(作者としての呟き)
周囲に織田(三条)美子や兼孝の実弟の二条昭実、又、鷹司(上里)美子といった怪物級の政治家が揃っていては、この世界の九条兼孝まで政治的に動かしては、それこそ作者の手綱がどうにも取れなくなれそうだったこともあって、結果的に表面上は影の薄い夫婦になりました。
それにしても、敬子の楽才については、もう少し本編で詳細に描きたかったな、とは想うのですが。
では何時、描けたの?と言われると、意外と機会が無かったな、とも考えてしまいます。
その一方、敬子の御蔭で、色々と上里家の面々と摂家等とのつながりが、本編等において自然とできたのは極めて有難かったです。
織田(三条)美子は本来から言えば外国出身ですし、一応は三条公頼の死後養子という立場にはなっていますが、公家社会から全く浮いた存在で、更には近衛前久とは宿敵に近い関係にもなります。
そうした状況下、九条兼孝と敬子夫妻の存在は、二条昭実や鷹司信房との関係も自然とできることになり、上里家の面々が公家社会に馴染むのを描くのに、作者としては極めて有難いことになりました。
それにしても、をつい多用してしまいますが。
九条兼孝夫妻の養子等の関係から、義理とはいえ、鷹司信房と輝子夫妻は叔父と姪の結婚、更にその夫妻の長男の鷹司信尚は、叔母の美子と結婚することになりました。
ネット小説世界等でも中々お目に掛かれないような公家社会のややこしい家族関係を、作中で築いてしまいました。
何でここまでの関係にしてしまったのか、と考えてしまいます。
尚、兼孝の男系子孫が絶えたのは史実準拠です。
本当に現実世界どころか、創作世界でも中々無いような複雑な家族関係が構築されることになったことについては、作者の私でさえ、どうしてこうなった、という考えが浮かんでなりません。
尚、九条兼孝は政治的には無職といってよいですが、25歳以降は摂家当主ということから与えられた官位から終身貴族議員を務めてはいます。
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