第1話 上里松一(まとめ編)
登場人物の生没年ですが、皇軍関係者については400年遡った年が、この世界では公式の生年になっているということでお願いします。
その為に上里松一の生年は、公式には1518年になっています。
上里松一 1518(1918)年生、1595年没 (第1部から第10部まで登場)
「皇軍」の一員としてこの世界に来訪。
その当時は海軍少尉で、戦艦「金剛」の乗組員だった。
その後、琉球王国の首都である首里出身であること等から、琉球王国政府上層部との通訳兼交渉役に皇軍上層部から任じられて、琉球王国政府との交渉に奔走し、皇軍から琉球王国が日本の属国になる代償として、琉球王国への内政不干渉を保障させる等、故郷を守ることに成功するが、その代償として、予備役に編入されてシャム王国のアユタヤに赴くことになる。
尚、アユタヤに赴くまでにマニラ出身の華僑で、倭寇の大頭目である張敬修に気に入られて、張敬修の長女になる張娃(後の上里愛子)と正式に婚約した。
そして、アユタヤに赴任した後、張敬修の勧めから現地妻のプリチャと同棲することになり、その間に和子、正道(道平)、智子の3人の子を儲け、又、プリチャの連れ子のタンサニー(美子)、サクチャイ(勝利)が、後に松一の養子になった。
又、アユタヤでは上里屋を経営して、張敬修の協力や日本との大量取引があったという事情があったが、アユタヤきっての豪商に5年程でのし上がる商才を発揮してもいた。
1548年のマラッカ攻略戦に現役復帰して海軍大尉として従軍、その際にプリチャの夫サクチャイを安楽死させたことから、その詫びとして松一はプリチャと偽装結婚して、すぐに離婚。
(プリチャを日本人にして、日本で安心して暮らせるようにする為という事情があった)
その直後、松一は張娃と改めて結婚し、張娃は上里愛子と改名する。
又、前後して上里屋を日本のインド株式会社に売却清算して、松一自身はインド株式会社の取締役に転職し、その後はインド株式会社の経営者として累進し、最終的には1573年にインド株式会社の最後の代表取締役会長として退任した。
(何故に最後という枕詞が付くかというと、会長職はその後は空席になり、北米独立戦争に伴う戦費捻出の都合等から、インド株式会社は北米独立戦争中に完全に分割民営化の路を歩んだという、本編では描けなかった事情から)
家庭生活では、プリチャ(永賢尼)の連れ子の美子と勝利を、妻の愛子との間の養子に迎え、又、プリチャとの間の3人の子は、愛子の養子にする一方、愛子との間に清、敬子、丈二、里子の4人の子に恵まれる等、多くの子に囲まれることになるが。
その一方で、その子らの縁談、結婚等に様々に振り回されることになり、特に美子が織田信長と、又、和子が武田義信と、智子が伊達輝宗と、敬子が九条兼孝と結婚したことは、それこそ日本国内外にも多大な影響を与えることになる。
又、こういった縁談等から、娘の美子は三条家の当主代行となり、又、敬子が九条家の正妻となったことから、松一は身分としては平民であったが、周囲からは公家で言えば羽林家、名家の当主と同格と見なされるようになり、後に上里家が多くの公家とつながる縁になった。
1573年にインド株式会社の代表取締役会長を退任した後、インド株式会社の相談役として悠々自適の生活を本人としては送るつもりだったが、1574年に起きた北米独立戦争により、この世界で得た実の初子になる和子を勘当、義絶せざるを得なくなるなど、老年になってからは苦悩することが多い日々を送ることになった。
1595年に癌によって病死。
その死を妻の愛子と長女の美子を始めとする、日本国内にいた妻子の多くが看取った。
亡くなる前、後に中宮になる4歳の孫の美子と逢い、
「儂の孫の中で一番の美人になる」
と予言したが。
実際にその通りで、美貌と才智から美子は中宮にまで上ることになった。
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