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楽園の果実  作者: 蜜柑桜
第十二章 神の試練
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(四)

 手の内にある果実は炎よりも強く輝いているのに、それに触れている肌には何の熱も感じない。実に不思議なものだという言葉が浮かぶが、感動や恐怖はなかった。小刀を入れて薄い切片を作り出せば、金色の粒子が弾けて指の間から零れ落ちる。

 作り話であっても不思議でないと思われている神話や伝説の力が、あながち万事偽りでないことは、魔法を司る一族の末裔として言い聞かされてきた。

 自分も甥くらいの年の頃には憧れたものだ。その後、魔法の力が最も憎らしいものになるとは知らずに。まさかこんな形で自分がその力を使おうなどと、遠い青年時代には思いもよらなかったが。

 そんなことが取り止めもなく頭の中をよぎるうち、宰相は国王の居室に繋がる廊下に来ていた。いまや王の身体管理の一切を掌握しているのは自分だ。

 国王は少し前から容態がいっそう不安定になり、意識を失うことが増えた。ほぼ一日中を夢現で過ごすことが多いが、特に深い眠りに入り、覚醒が難しくなることもある。しかし心配する医師に対し、下手な治療より自然の成り行きに任せたい、というのが国王の希望だった。その王からの言質をとり、安静を理由にして自分の許可なく国王の居室に人が寄ることは禁じている。今日も独りで寝室にいるはずだ。

 だが、廊下の先にはすでに男が一人、王の居室の前に立っていた。

「おっと。陛下はいま深く眠っていらっしゃるところだからさ、邪魔はしないでもらえるかい」

「お前は、先頃厨房に入った料理番だったか。名は確か……グラディ……」

「おや、宰相さんみたいなお偉方に名前を覚えてもらっているたぁ、光栄だね。宿屋から転職した甲斐があったかな」

 男はおどけた調子で、片足を軸に身をくるりと宰相の方に向ける。

「城を管理する者として当然のことだ。して、なぜその料理番がここにいる?」

「何故かって? ちょっとクエルクス(あれ)から依頼状もらってね。下っ端の名前は覚えているくせして、あんたの甥っ子がどれだけ頭が回るかは記憶にないみたいだな」

 宰相は男の正面に進み出ると、冷えた眼差し向けた。それに臆することなく、グラディは逆に嘲笑を混じえて黒鳶色の瞳を見返す。

「ついでに衛兵登用試験に合格したやつの名前も、数年前の分まで覚えといた方がいいよ」

 忠告しとくけど、と言い添えながら、鞘に納まった長剣をかつん、と床に立て、両手を柄の上に休ませた。

 クエルクスか、と、宰相が呟く。

「なるほど、陛下に護衛をつけたと安心して、王女だけに付き添ったか。王を守るなど……過去の残虐から学ぶには、あれはまだ若すぎたか」

「あんたさぁ、その王に救われて宰相にまでしてもらったんじゃん。感謝とかねぇの?」

「貴様に何がわかる⁉︎」

 怒号が空気を震撼させ、壁際に置き並べられた照明の金細工に残響が跳ね返る。

「あれはいいさ! 私の(あれの父)は自分も妻も逃げおおせ、息子も残った! 争乱が終われば一家もろとも宮廷に召し抱えられて寿命を全うしたのだから、のうのうともしていられよう! だが私はどうだ!」

 宰相の落ち窪んだ眼窩の奥で瞳が怪しい力を宿す。もはや理性は私怨に凌駕され、周囲を憚ることなく叫ぶ。

「私は妻も、息子も、まだ赤子でしかなかった娘さえ殺された……妻は魔法使いの一族でもなんでもない、ただその末裔()の伴侶だというだけの理由で!」

 先王が魔法使いの末裔をその一族もろとも一掃しようと血眼になっていたとき、密かに逃れようとした者は多かった。こともあろうに、家族の避難先を探そうと自分が城を空けたその間に、ほんの小さな不運で素性が露呈した。救済の手は間に合わなかった。ほかの生き残りから城に帰らず身を隠せと言われ、最愛の家族の亡骸を見ることもないままに都を離れねばならなかったのだ。

 城から離れた地で知らせを受けたとき、この身を斬ろうとすら思った。だが死にきれなかった。民を守るはずの権力を持つ者が、権力にしがみつくばかりに抵抗する力すらない妻子を殺めたことが、あまりにも憎かった。

「いまの王がそうでないなどと、誰が保証できる? 所詮は先代と同じ血が流れている者だ。病が少しでも快復しようものなら、力の衰えに怯えて同じようなことをしないと、誰が言える?」

 全身を小刻みに震わせ、微笑のうちに狂気を滲ませた宰相を前に、グラディは首の後ろを掻いて溜息を吐く。

「あんたとクエルクス(甥っ子)がこんだけ性格違うんだから、血の繋がりなんてのは関係ないってのもわっかんないかねぇ……」

 だが宰相の耳には言葉など無意味だった。右の手に乗せていた林檎を左手に預け、長衣の合わせに手を入れる。

「御託はもういい。そこをどけ」

 グラディは舌打ちし、剣の鞘と柄の間に指を立てる。

 わずかにずれた宰相の衣の間から、銀の刃が光った。 




 何回、何十回、名前を呼んだか。

 頬を触れても、手を握っても無駄だった。ラピスの顔はみるみるうちに色を失い、いつも優しく笑っていた唇の桜色は、どんどん薄くなるばかりだ。

 微かに残っていた脈動は、一回一回、脈打つごとにその間隔を空けていく。そしてやがて認識するのも難しくなり、遂に止まった。

「ラピスっ……!」

 握った細い手から振動を感じなくなったのは、きっと自分の感覚が鈍っただけに違いない。そう信じたくて、耳元で呼びかけ、体を繰り返し揺すった。肌が冷たくなってきたといっても、まだほのかな温かさは残っているのだ。

 それでも瞼は閉じられ、ぴくりとも動かない。どんなにクエルクスが呼んでも、瑠璃色の瞳が再びこちらを見ることはなかった。

「……嘘だ」

 ラピスの胸の上で、アネモスがくれた紅葉色の珠が秋の陽を反射する。

「嘘だぁっ!」

 クエルクスの膝が床に落ちる。ラピスの枕元に額を押し当て、拳を寝台に叩きつけた。

 守ろうと思ったのだ。

 城を出る前に真実を告げれば、ラピスは城に残ると言い張っただろう。その状況で宰相を糾弾しても、証拠がなければ否定されるだけだ。さらにそうなった時には、むしろ城内にいる方が命を狙われただろう。

 だから宰相の手の届かないところまで離して、生き延びさせようとしたのに。

 ——もっと早くに告げていれば。(ここ)になど戻らなければ……

 ユークレースに帰るといったラピスを止めていれば。

 トーナ女王に会った時点で、女王の居所に留まらせていれば。

 神の国に立ち入らずにいれば。

 そもそも秋の国など、目指さずにいれば——

 ユークレース国王は、かつて両親と自分を救った。だからこそ今度は、できるのならばその恩義に報いなければならないという思いが消えなかった。救えるかもしれないという希望があるのに、国王の病状悪化を黙って見たままには出来なかった。

 だが、ラピスもユークレース王も、どちらも救いたいと思うのは欲が過ぎたのか。だから神の制裁を受けたのか。

 神々の力を、人間が軽々しく借りられると安直に信じた。そのこと自体が愚かだったのだ。その傲りの結果がどうだ。

 この手で、ラピスを殺したのだ。

 こんな汚れた手は壊してしまいたい、そう腕を振り上げる。

 だが強く握りしめた拳は宙で止まり、そのまま無為に込めた力で震えるだけだった。

 そんなことをしても何にもならない。もう全て無駄なのだ。

 力なく手を下ろし、のろのろと顔を上げる。幼い頃からずっと見てきたラピスの顔がすぐそばにあった。さきほどまでのように苦痛に歪むこともなく、見るに耐えない痛ましさも浮かんでいない。穏やかで、ただ眠っているだけかのようだった。長旅と心労のせいで雌黄色の髪は艶なく痛み、丸みのあった頬の肉も落ちてしまった。それでも、クエルクスの目に映るラピスは美しかった。

 ぼうっとする頭のまま立ち上がり、そっと頬に触れると、白い肌がクエルクスの指を冷やした。閉じられた瞼を縁取る長い睫毛が、うっすら影を作っている。呼びかけたらいまにも目覚めて、明るい声で微笑みそうだ。

 だがもう、あの声を聞くことも、あの笑顔を見ることもできないのだ。こんなにも近くにあるのに、もう届かない——他でもない自分のせいで。

 視界の中で、ラピスの姿が滲む。

 どんなに辛くても、決して自分からは逃げ出そうとしなかったラピス。涙も隠して、毅然と立っていようとした少女。

 出来ることなら手を伸ばして、その細い肩には重すぎる荷を軽くしてやりたかった。許されるならこの腕に抱いて、せめて震える身体を止めてやりたかった。そんな小さなことすら、してやれないで。

 こんな形で失うことになると、知っていたら——

 強くて気高く、脆くて優しい、かけがえのない存在(ひと)

 ただ愛しくて、ひたすらに愛しかった。そしていまもなお——

 クエルクスは両の手のひらで、ラピスの頬を優しく包み込んだ。そしてゆっくりと、その小さな唇に、自分のそれを重ねた。

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