(二)
森の中から向かってくる姿に最初に気がついたのは、見張りに立っていたアネモスだった。自分を見つけて手を振り、地面に降り立ってこちらに駆けてくる少女を、腕をいっぱいに広げて迎える。
「ラピス!」
その腕のすぐ手前でまろび転げそうになった細い体をすんでのところで受け止める。ぽすんと胸にぶつかった頭を、そのままきつく抱き締めた。
「ありがとう、待っててくださったの?」
「当たり前でしょう。まったく心配したよ。よく戻ったわね」
「あの子がね、送ってくれたんです」
ラピスが指差した先では、森から出たところでクエルクスが地面に降り、こちらへ歩んでくるところだった。アネモスはその横にいる獣を認め、目を大きく見開いた。
「青銅の蹄を持つ、女神の神獣……」
「え?」
ラピスとアネモスの方を見て、鹿は雪の中から足を上げる。青銅色の蹄が太陽の光を返して強く輝く。そして、まるで身の元を明かすように蹄を宙で数秒止めたあと、鹿はクエルクスの首筋に鼻で触れてから優雅な仕草で森の方へ向き直り、悠然と歩き出した。
「あっ……ありがとうーっ!」
ラピスが叫ぶと鹿は足を止め、振り返って首を少し傾けた。そして再び歩き出し、木立の間へ姿を消した。
アネモスは茫然とその様子を見守っていたが、鹿が完全に見えなくなると糸が切れたようにラピスの肩を繰り返し叩いた。
「すごいラピス! 貴女って人はもう、女神の使いまで味方につけちゃうんだから」
「へ?」
「青銅色の蹄を持つ白い鹿は神話に伝わる獣だよ。女神の乗り物で、加護の力を持つものだ」
アネモスは興奮してまた力強くラピスを抱き締めた。そこでラピスは、アネモスの服が真冬の防寒具でないことに気がついた。思えば周りの空気も、森に入る前の凍てついたものではない。ピンと張った感覚はあるが、肌は冬ほどの痛さを感じず、吹く風はむしろ心地よい。
「秋、ですか」
二人のところまで来たクエルクスが雪原を見渡す。その通りだった。秋の国で頬に触れていたものと同じ風が吹いているのだ。
「二人が秋の国に入ってから、ね。秋が来るなんて久しぶり」
「林檎を手にした瞬間に変わったのかもしれませんね」
「手に入ったの?」
ラピスは鞄の口を少しだけ開けた。そこには枝を手折る前の輝きを失わず、いまなお黄金色に艶めく果実があった。
「ラピスー! クエルクスー!」
雪原の向こうから呼ぶ声が聞こえる。アネモスの肩越しに馬を連れたヒュートスがこちらに向かってくるのが見え、ラピスは駆け出そうと足を踏み出した。
「……いたっ……」
しかし数歩もいかないところで頭に激痛を感じ、その拍子に雪に足を取られてよろめいた。瞬時に駆け寄ったクエルクスに抱き止められ、支えられて身を起こす。
「ラピス! どうしました⁉︎」
「あ、うん……ちょっと、立ちくらみかしら。大丈夫」
締め付けるような痛みが目頭からこめかみに走るが、なんとか言い繕う。きっと急に森から出たので太陽の光が目に強すぎたのだろう。一過性のものに違いない。痛みを無視して、不安気なクエルクスに笑いかけてやる。
「それより早く、ユークレースに向かいましょう」
するとヒュートスが、馬の鞍をぽん、と叩く。
「じゃあ、港に行こうか」
「港?」
ヒュートスから馬の手綱を受け取って、アネモスは腰に手を当て、二人を見て笑った。
「パニアに邪魔されたくはないからね。ユークレースまで、海を行くよ!」




