(二)
その大樹は、いままで見たどんな木よりも美しかった。
垂直に伸びた幹は途中で分かれ、しなやかな曲線を描きながら左右へ伸びる枝は、燃え盛る炎と見紛う鮮烈な黄の葉で覆われている。雄々しく茂ったそれらは見上げる限り空間を埋め尽くし、それにも拘らず枝葉の下は僅かの影もなく輝き渡る。
その原因は、枝を覆って広がる葉の下に生った果実だった。
両の手のひらに包み込めそうな大きさの、丸みのある輪郭をしたその実が、目を瞑りたくなるほど強い光を放っているのである。
まるで太陽の光を宿したかのような黄金色。
伝説でしか知ることのなかった、奇跡の林檎。
荘厳たる輝きに、ラピスは息を呑んでその場に立ち尽くした。頭のどこかで「実を取らなければ」という考えがよぎるのに、地面に足が縫い取られているように動かない。震えすら起こらず、経験したことのない衝撃に自分の四肢の先までが止まって動けない。
それほどまでに、目の前にある果実は美しかった。
どのくらいそうしていたのか。ふっと、横にいたクエルクスが僅かに身を動かし、それを感じてラピスの体からも見えない枷が外れた。そして自分と一緒に大樹の上を見上げていたはずのクエルクスの顔が、いまや前へ向けられているのに気がつき、同じ方へ首を巡らす。
クエルクスの目線の先を辿ったラピスの体が、今度はびくりと震えた。
そこにいたのは、戸愚呂を巻いた大蛇だった。
大樹の根元で、黄金の林檎の輝きを受けた滑らかな銀色の肌が光る。長く上に伸びた首の先で、赤銅色の眼がこちらを見ている。
——外客か。いつぶりに見るだろうな。
大蛇は微動だにせず、悠然と述べた。拒絶も歓迎も感じられない、感情の欠けた声だ。クエルクスは一歩、ラピスの前に進み出た。
「勝手に入ることが禁忌ならば、それには詫びを申し上げる。ただ、誤解しないでいただきたい。神の聖なる地を侵すつもりはない」
——さりとて、人の子が神の地になぜ踏み入れた。
「それは……」
「ラピス? 聞こえるんですか?」
呟き声を耳にしてクエルクスが振り返る。ラピスは頷くこともできず、蛇の目に捕らわれて視線を逸らせなかった。大蛇の口は閉じたままで、獣の声は発していない。それなのに重く低い声が脳内を揺るがすように響いてくるのだ。
——煩悩にまみれた輩か? 理由なく来たれり愚か者か?
「理由ならございます!」
自分の前にクエルクスの腕が庇うように出されているのを押し下げて、ラピスは踏み出した。
「わたくしの父を病から救いたいのです。限りある寿命に従うべきわたくしたち人間には分不相応な願いかもしれません。しかし父は人を愛し民を助け、わたくしの知る限り我欲に溺れたことはございません」
腹に力を入れ、震えそうになるのを堪えて足を踏ん張る。
「どうか、聖なる林檎の力をお借りしたいのです! 女神様の恩寵を願いますことは、お許しいただけないのでしょうか」
ラピスはクエルクスの手を握り、赤銅の目をひたと見つめて言い切る。すると大蛇は、微かに首を斜めに傾けた。
——ほう……面白い。加護を受けた者か。
脳裏に響く声には愉悦が滲み、かと思えば先よりも決然とした調子で意識に語りかけた。
——奇跡の果実を守るは愛を司る女神よ。そなたたちが誠の心を示し、それが主人の意に適えば、神々は恵みを与え慈しみ、守りもしよう。されど主人に背いて誤った扱いをすれば、女神は鬼神に変わり、彼の怒りが劫罰を与えると心せよ。それでも果実を望むとのたまうか?
「はい」
迷いなく答えたとき、ラピスの体から震えは消えていた。姿勢を正し、大蛇と相対する。
「この命に誓って申し上げます。女神様から目を背けなければならないようなやましいことは、まったくもってございません。もし父を想って林檎を使うことが罰に値すると言うのなら、わたくしはその罰を受けましょう」
芯のある声が空気の中を突き抜ける。ラピスの瞳の中に怯えはない。
——よかろう。
手招くように、大蛇は大きく、ゆっくりと首を回す。
——ならば、こちらへ参れ、そなたが穢れを知らなき乙女であり、女神の試しを受けようというのなら。
ラピスはごくり、と唾を飲んだ。握りしめていたクエルクスの手をそっと離し、地面の感触を確かめながら、一歩ずつ足を踏み出す。
すぐそばにあるはずの大樹までが、ずいぶん長い距離に感じられた。
黄金の林檎は、自分の頭より少し上のところで、枝に茂る葉に守られて眩く輝いている。
そろそろと伸ばした腕が、光の中に入って黄金の色を纏う。少し背伸びをして手のひらを広げれば、艶やかな果実の面が、まるで果実の方からこちらへ寄ってきたかのように、すぅっと肌に吸い付いた。
——さあ、取るが良い。人の子よ。
ラピスは光に隠れた指の腹に力を込め、黄金の果実をもぎ取った。
瞬きの間も無かった。
果実を両の手に包んだ瞬間、地に触れている感覚が足の裏から失われ、ラピスの身体が宙を泳いだ。
地面が揺れたのか、それとも大樹が揺れたのか、いずれにせよいまの今まで見ていた世界が上下左右の位置関係を視界の中で崩した。
だがその浮遊感もまた一瞬で過ぎ去り、すぐに体がしっかりとした支点を取り戻す。
駆け跳んでラピスを片手に抱え上げたクエルクスは、足が地に着いた弾みを使ってそのまま大樹から飛び離れた。
視界の端に入った大蛇の目が、赤みを増して光ったように見える。
風が唸るような音が鼓膜を支配する。大樹が幹を大きく震わせ、枝葉がしなってところ構わず宙を打つ。それらを危ういところで躱しながら、クエルクスは剣に手を掛けた。
「だめっ!」
林檎を右手に預け、ラピスは左手でクエルクスの腕を力の限り抑える。
「ここは女神様の神域よ! 何も傷つけちゃだめ!」
クエルクスは顔を歪めたが、すぐに柄を手離して横に跳んだ。触手の如くこちらへ迫っていた枝葉はぶつかるところを逃し、繁った葉が空中でばさりと音を立てる。
——行くがいい、この林の外へ出てみるがよい。
後方からまだこちらへ向かって大樹が襲いかかってくる気配がする。クエルクスの腕から降りたラピスは歯を食いしばって地を蹴り、その後ろを守る形でクエルクスが続いた。だが枝葉の勢いは増すばかりで、いくらもせぬうちに黄金の葉が自分たちの方へ近づいてくるのが視界の隅に入った。
「ラピス、早く!」
葉先がすぐ触れる位置まで迫ってクエルクスが叫んだが、ラピスは後ろを振り返ったことで均衡を崩し、足がもつれて転んでしまった。咄嗟にクエルクスがラピスの上に屈んでその身を覆う。体が衝撃を受けるのを予想し、二人は目をつむった。
だが次の一瞬、高く澄んだ声が林の中を突き抜けた。
そして強張らせた肩に衝撃はなく、近づく葉の気配も無い。
——……小生意気な。護り児か。
大蛇の声に恐る恐る目を開くと、ざざぁと音を立てながら枝葉が一様にラピス達から離れて大樹の方へ戻っていっていた。それらの間から、木の下に泰然と構える大蛇の姿が見える。
——ならば見せてみよ。女神の果実を持ち帰り、己が想いを試すがよい。神が罰と恵みと、どちらを与えるかを……
頭が割れると思うほどの痛みを伴って、蛇の嘲笑いが頭の中に響き渡り、二人は堪らず耳を塞いで目を閉じる。笑い声はしばらく続いたが、やがて小さくなり、ついには聞こえなくなった。そして再び瞼を開いたとき、黄金の大樹はもはやそこにはなく、禍々しく光る大蛇の赤銅色の双眼もない。あるのは光る道標を見る前に自分たちの前後左右に広がっていたのと同じ色づいた木々だけであり、隙間から黄金の光が漏れることすらも無かった。
何秒か、それとも何分もの間か。ラピスは地面に座り込んだまま身動きが取れなかった。しかし徐々に意識がはっきりとし、五感が大蛇を見る前のように整ってきた。
ただ、胸に押し当てた果実の感覚は、ここに来る前には無かったものだ。
そっと腕の中を見ると、そこには確かに光が溢れ、艶やかな黄金色の果実があった。
ユークレースを出てからどんなに経ったか。心から欲し、手にするのを望んだ果実が、いまやっと自分の腕の中にある。
——これがあれば、父様を助けられる。
ユークレースにも、他のどこにも、父を救える手立てはなかった。女神の力を宿した果実。これが唯一の希望なのだ。
「助けてくれてありがとう、クエルクス。さあ、帰りましょう!」
安堵と喜びが全身に満ちていくのを感じながら、ラピスは勢いよく顔を上げた。
しかし、自分と同じに喜んで同意を返してくれるはずの声はない。代わりにラピスが目にしたのは、見たこともないほど険しいクエルクスの表情だった。逃げ惑い、死に物狂いで駆けたあとだと言うのに、黒髪の下の肌はいつも以上に真っ白である。
クエルクスは口を開きかけ、また閉じて、唇を噛む。そしてなおも黙したまま、しばしの時が流れた。
そしてようやく、こちらを見つめる瞳は微塵も動かないままに、色素の薄い唇だけが微かに震えた。
「……ラピス様……帰っては、いけません」
「クエル?」
妙だ。言っていることだけではない。目の前にいるのは、ラピスが知る彼ではない。
「帰れば、貴女は……殺されます」
声は聞き取るのがやっとであるほど小さいのに、紡がれる言葉に揺らぎがない。
「何を……言うの?」
黒鳶色の瞳がラピスを見下ろし、体を地面に繋ぎ止める。長い沈黙に圧迫されるように、息がつけない。
「僕が受けた命は」
あたりに氷が張っていると思うくらい、空気が冷たく感じた。
「秋の国で、ラピス王女を亡き者にすることです」




