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楽園の果実  作者: 蜜柑桜
第九章 夜の剣戟
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(一)

 翌日、ラピスはすぐにでも出発すると言ったが、もう一日安静にしているようにとクエルクスだけではなく宿の女主人からも説き伏され、渋々ながら宿の寝台の上でほぼ一日を過ごす羽目になった。クエルクスが街中へ冬旅の物資を買いに出かけてしまったので、宿の女主人が何度もラピスの様子を見に来てくれたのは有り難かった。聞けばこの日の宿の泊り客はラピスとクエルクス以外はいないらしい。未亡人だという女主人は、娘をラピスの年頃に嫁にやったのだと言って、娘が帰ってきたようで懐かしいと嬉しそうに話した。

 昨晩よりも天候はいくらか和らいだが、外ではまだ粉雪がちらつき、窓の木枠に近いところに白い結晶が貼りついていく。日中でも外は薄暗く、明かりの灯された部屋にいるとまるで一日中夜であるような錯覚を覚えてしまう。

 ラピスの体の方といえば、本調子ではないことは認めざるを得なかった。女主人が用意してくれた薬膳食のおかげか吐き気と気怠さはだいぶ引いたとはいえ、まだ微熱と頭痛が残っているのを感じる。出立が遅れるのは本望でないものの、また倒れるよりはましである。ラピスは逸る気持ちを抑えようと、部屋の本を読んだり、瞼を閉じて微睡んでみたり、天井を見つめて考え事をしてみたりなどを繰り返しながら時間を潰した。

 そうして過ごすうち、外から聞こえる鐘の音もその回数が増えてきた。寝台に身を起こして書き物をしていたラピスは、道の向こうから高らかに鳴る角笛の音に顔を上げる。外は相変わらず灰色の雪雲ばかりで太陽が見えないが、日没の頃なのだろう。

 クエルクスもそろそろ帰ってくる——そう思ったら、自分の背中の後ろで部屋の扉が叩かれた。

「良かった。起きていられるみたいですね」

 返事をすると、クエルクスが上半身で扉を押して部屋に入ってきた。両手にはちきれんばかりに膨れた袋を二つずつ下げている。外はよほど寒いのか、普段なら黒の髪と眼をさらに黒く見せる白い肌なのに、今は頬に紅が差している。

「冬物、買ってきました。調子が落ち着いているようだったら、ご覧になりますか?」

 そう言いながらクエルクスは自分の使っていた寝台の上にどさりと袋を置くと、中身を丁寧に出し始めた。並べられていくのは羽織や帽子、手袋など厚い毛の防寒具が多く、袋から出すと起毛がほわんと膨らんだ。

 ラピスは羽ペンを動かしていた手を止め、クエルクスの動きをぼんやりと見ていた。

「ラピス? あ……えっと、好みではなかった、ですか?」

 これまでの道中では、ラピスは年頃の娘らしくユークレースでは見慣れない衣服や装飾品に興味津々で、足こそ止めないまでも興奮しながら長々と感想を述べてクエルクスを困らせていたのに、いまは並んだ品に全く反応を見せない。クエルクスは手を止め、並んだ衣服を一瞥して小さく続ける。

「ごめんなさい、女性の服はやっぱり僕には難しいみたいです。流行とか分からなくて、ラピスに似合いそうなものを選んだのだけれど……」

「え。あ、ううん、ごめん、そうではなくて」

「え、そうですか? でもラピス、どうしました?」

 気落ちしたクエルクスの声音に慌てて言うが、その次の言葉がうまく取り繕えない。視線が泳いで、自然と下に落ちてしまう。するとその眼の動きを追って、クエルクスが尋ねた。

「書き物、ですか。どこに書状を」

「……トーナの王城、に」

「王城へ?」

 問い返され、ラピスは書面を指で押さえ、顔を上げた。

「旅券はユークレース王宮の勅使としてのものだわ。この旅券で市門を通った以上、訪問が少し遅れるとご連絡しなくては。これを持っているなら、今は勅使としての責務を果たさなくちゃいけないでしょう。パニア王宮が私達の訪問に応じたのも、事前に国から書状が行っていたからよ」

 喉の奥に何かが詰まったように息が苦しくなるのを無視しようと、ラピスは言葉を吐き出す。

「パニアで王城訪問を整えてくれたのは間違いなく宰相の計らいよ。きっと宰相のことだもの。王城に訪れれば旅はいくらか安全性が増すし、それを通して王女である私が諸外国の外交について学ぶ機会を設けてくださったのでしょう——王女としての訪問ではないけれど」

 クエルクスの返答がないのを肯定と捉え、喉から声を絞り出す。

「国を統べる者として他国の前に立つには、私はまだ勉強不足だもの。しっかりと務めなくては」

 クエルクスと視線を合わせたまま、勢いに任せて決然と言い切った——はずだった。

「それじゃあ」

 黒鳶色の瞳がラピスを見つめ返し、逆に瑠璃の瞳を捕えた。そして静かな声が、はっきりと鼓膜に響く。

「どうしてラピスは、震えてるんです」

「っ……」

 布団に触れる指が小刻みになっているのに気がついて、布をぎゅっと握る。喉の奥まで締め付けられて、息が出るのと一緒に声が掠れた。

「……怖いの」

 ——また、あんな目にあったら……?

 三日前の晩を思い出し、背中にぞくりと鳥肌が立った。国の上に立つ者が外交に際して恐れに負けるなど許されない——そう思うのに、抑えが効かなかった。それが悔しくて、不甲斐なくて、ラピスは顔を上げていられなかった。

 ラピスの声は途切れ、クエルクスには呼吸の音さえ聞こえない。小さく震え続ける肩には背負いきれないものがあるようで。

 ——この身に抱いて、その荷が軽くなるのなら。

 衝動的に、クエルクスの右手が伸びる。

 しかし、それは華奢な体へ触れる手前で止まり、指先は一瞬の迷いののち、宙を掴んだ。

 抱きしめることは許されない。自分にその資格はない。それでも———

「僕が、守ります」

 紡ぐ音に力を込め、胸の奥に走る痛みを無視する。

「守りますから」

 長い髪に隠されてラピスの頬に伝った雫を、クエルクスは知らない。

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