(四)
「ラピス、起きてる?」
扉を叩き、声をかけながら取手を押すと、寝台に寝ていたラピスが顔だけを入り口の方へ向けた。こちらを見る眼に虚ろなところはなく、瞳に光が戻っている。
「食事、頂いてきましたよ。食べられます?」
風邪の峠を越えただろうとほっとして、クエルクスの口元は自然と綻んだ。
「うん、ありがとう。クエルはもう食べたの?」
「僕のも一緒にいただきました。そこの本、読んでいたのですか?」
ラピスが身を起こそうとするのを支えようと近づいて、クエルクスは枕の横に色鮮やかな表紙の薄い本が三冊ほど重なっているのに気がついた。
「ええ、そこにあったの」
起こした半身を軽く枕に預けると、ラピスは寝台の足元側に置かれた本棚を指した。この大陸の者たちが話す言語は、国や地域ごとに訛りや一部の単語の違いはあっても基本的には同じである。読み書きを一通り習っていれば、大体の書物は読める。
「絵本ですか」
「そうよ。神話とか、海向こうの童話もかしら。知らないのばかり」
そう話すラピスの声もしっかりしていて、クエルクスは自分の方も緊張が和らぐのを感じた。本が好きなラピスには、気疲れを休めるのにちょうど良かったのだろう。
「何か面白いものありましたか」
「そう、そうね。魔法が出てきたり、幻想的で不思議な感じ……林檎の話もあったの。でもね、それぞれのお話に林檎は出てくるのに、一緒じゃないのよ」
「奇跡の林檎ですか。そもそも神の時代からの伝説ですから、色々な話が作られるでしょうね」
クエルクスが寝台に腰掛けると、キィ、という音がする。
「女神の林檎は神々の寿命を長らえさせ、健やかなる体を約束する、これは聞いていた伝説だけど。お話ではね、神々はこの林檎を得ようと争いもしたとかいうのよ。林檎を盗み出して罰を受けたり、ほかにも、色々……」
「怖い、ですか?」
ラピスの口が開きかけたまま止まり、そしてゆっくりと閉じられる。瞼をそっと閉じ、首を振った。
「女神様に邪な気持ちで向かう者に対する罰だわ。林檎に守られたお話もある——お父様が助かるのなら……私は、女神様のお力を借りたい」
「そう、ですか」
クエルクスの返答は静かで、落胆したような響きを帯びていた。自分を見つめるクエルクスの瞳に何かを汲み取ったのか、ラピスは不自然に目を笑みの形にし、口調を明るくして続けた。
「神様ばかりじゃないわよ。お姫様のお話もたくさんなの。林檎に関係あるものもないものも。でも面白いのは、お姫様や女の子が主人公のお話は似ているところが多くてね」
「へぇ、僕でも知らない話ですかね。似ているってどういうところがです?」
「え……っと。どんなことになっても、女の子はね、」
するとラピスは急に俯きがちに瞼を伏せ、指先をそっと顔に近づけ、唇にそっと触れた。そしてそのまま数秒息を止め、やっと小さく呟く。
「……愛する王子様が、助けてくださるのよ」
言ってから、ラピスの頬がほんのり赤味を増した。ラピスが物語に不安を感じたわけではなかったのに安堵して、クエルクスは笑い混じりに言葉を返しながら、ラピスの前に食事の乗った盆を出す。
「女の子ですねぇ、ラピスも」
「えぇ? なによう、その言い方。女の子よ、私だって」
「はいはい、ほら、食べられます?」
「え、あ、わぁ美味しそう」
「冷ましてください。火傷しますよ」
「あっ、クエルも食べる?」
「だめ。食べられるならラピスが全部食べなきゃ」
ラピスがふと見せた思案顔に気付かなかったわけではないが、どのみち絵本に書いてあることである。感受性の高いラピスだ。旅の気疲れも手伝って、子供向けの童話に感情移入でもしたのだろう。それにクエルクスは正直、絵本の内容などどうでも良かった。山での難に加えて獣に時間を取られた時には、ラピスが無事では済まないかもしれないとすら感じたのだ。
予断を許さぬ状況で神経が限界まで張り詰めていたところ、ひとまずのラピスの快復に気が緩みすぎていたのかもしれない。
窓の外、夜闇の中で動く影に、クエルクスは僅かも気がつかなかった。




