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楽園の果実  作者: 蜜柑桜
第八章 闇の白魔
33/57

(一)

 夜闇の中をラピスを背負って下山するのはさすがに危険だ。クエルクスなら鳥獣に道を尋ねることもできるが、冬の寒さの中で彼らが息をひそめてしまっていたとしたらそれすら叶わない。夜のうちに出発するのは断念せざるを得なかった。時折り苦しそうに喘ぐラピスを気にしながら、クエルクスは雪の中でも進めるよう夜通しかけて荷物を整え、外が白み出し始めるとすぐに洞を出た。

 洞の中に一通りの生活用品が揃っていたのが幸いした。真冬に耐える防寒具のない二人にとって布団の類は特に有り難かった。クエルクスはあまり重たくない布団を適当な大きさに切って羽織れるようにし、それをラピスの身体にかけて背負う。細長く切り取った布で紐を拵え、ラピスの身体を自分の胴に固定した。

 食糧も少しばかり頂戴し、貰ったものに見合うだけのパニア通貨を見つかりやすいところに置く。次に星読みがいつ来るのかは知らないが、彼らが困らないといいと願う。

 出発を促したとき、ラピスは細く目を開けただけでそのまますぐに瞼を閉じてしまった。一晩中呼吸は落ち着かず、熟睡できた様子もない。頬に触れれば熱く、背負うとラピスの全身がまだ高い熱を持っているのが布越しにも伝わった。息を吐けば白くなる外気が、クエルクスにはむしろ心地よく感じられるくらいに。

 東の空を見ると、鈍色の雲が天を覆い太陽の姿を隠している。ユークレースで地理学を学んだ時の記憶が正しければ、洞の位置から北の都市へ抜ける方の斜面はそこまで急な傾斜にはなっていなかったはずだ。クエルクスは頭の中に入れた地図を辿りながら、おそらく星読みが作ったであろう道を北に向かって下り始めた。

 しかし二人分の旅の荷物とラピスを背負っていては、日頃鍛えているクエルクスの足もさすがに遅くなった。

 さらに山の天気は変わりやすい。

 昼になるより前にもう、雪がちらつき始めた。


 


「ラピス、あと少しのはずですから」

 背中のラピスの返事はない。苦しそうな息が聞こえ、僅かに首を動かしたのだけが分かった。雪は次第に強くなり、大粒の塊になって落ちてきた。先が見えないほどにはなっていないが、視界は邪魔され、クエルクスの苛立ちが募る。

 もう少しで北の国境都市へ繋がる国道に出られるはずだ。日は傾き始めている。都の閉門より前に辿り着かなければならない。

 山道をずっとラピスを背負っていたせいで、クエルクスの足腰にも疲労が蓄積していた。休息を求める脚の痛みが否応なく意識される。その疲労感を打ち消そうと、弾みをつけて体を上下し、ずり落ちそうなラピスを背負い直す。

 そうしてさらに先へ進もうと顔を上げたとき、クエルクスは前に出しかけた足を止めた。

 目の前の道に雄々しい角を持つ鹿が立ち塞がっていた。どこの木の影から出てきたのだろうか。雪が音を吸うせいか、鹿の動きは全く聞こえなかった。

 ラピスを背負った姿勢で、鹿とやり合う余裕は無い。

「……頼む。そこを、通してくれないか」

 クエルクスは獣の言葉で話しかけた。しかし鹿の方は口を閉じたままである。黄金の角に白い雪が次々に重なり落ち、見る間に層を作る。

「頼む、急いでるんだ」

 もう一度、今度は少し声音を厳しくして呼び掛けた。それでもなお鹿は動かない。クエルクスをひたと見つめ、微動だにしない。

 その眼を見ても、クエルクスには相手の心の内が読めない。普通の動物ならば言葉を交わさずとも感じ取るものがあるのに、この鹿からはそうした「気」さえ読み取れない。無為に動物を傷つけたくはない。だがこのまま時間を取られては、ラピスの体が危険だ。

 ——強行するしかないのか。

 衝撃を受けてもラピスを落とさぬよう、紐がしっかり固定されているのを確かめると、クエルクスは飛び出せるよう軽く膝を曲げ、服に仕込んでいた短刀を抜き出す。

「……待って……」

 耳元に聞こえた声に、クエルクスは驚いて背中を振り返った。

 苦しそうに瞼を半分だけ上げて、ラピスが小さく続ける。

「クエル……その子、足を……」

 そう言われて見ると、鹿の足元の周りの雪が赤っぽく黒ずんで汚い円を作っている。さらに鹿の背後に視線をやれば、地面を覆う白い雪に点々と同じ色のしみができていた。

「……ね……手当てして……あげなきゃ……」

 ラピスの声は途切れ途切れだが、クエルクスが自分の言うことに気がついてくれたと嬉しそうだ。それでもクエルクスが背中に感じる熱は相変わらずで、肩に回した腕には力が入っていない。下手に時間を割くことなどできなかった。クエルクスは剣を引っ込めたが、次に取るべき動きに躊躇した。しかしラピスがまたも呼びかける。

「ほらクエル、早く」

 さっきとは違ってはっきりした発音でラピスが急かす。いつもそうだ。自分がどんなに苦しくても、ラピスは一度決めたら譲らない。

 クエルクスは観念した。

 前へ進み出て鹿の足元の雪を掻き分ける。鹿は警戒した様子など微塵も見せず、蹄を地面から少し上げて雪の上に見えるようにした。極めて珍しい青銅色の蹄だった。その美しい色を痛々しく血が汚している。尖った石か、折れた木の先でも踏んでしまったのだろう。

 クエルクスは荷物の中から細布と薬草を取り出し、鹿の足を取った。

 ラピスのゆったりとした、満足そうな吐息を耳元に感じた。

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