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楽園の果実  作者: 蜜柑桜
第七章 峠の一夜
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(四)

 クエルクスの耳は敏感だ。床を進む足音、囁きほどの話し声はもちろん、風に不自然に揺れる葉のざわめき、窓に触れる小雨の音でさえ、彼の意識を夢から醒ます。獣の声を聞き分ける能力がそうさせるのか、従者として仕えた年月の長さが五感を研ぎ澄ましたのかはわからない。いずれにせよ、常とは違う感覚を逃さない。

 その耳が、空気の揺れに続いて木の軋む音を捉えた。

 ——ラピス!

 自身の左にあったはずの気配が消えたのに気がつき、全身に鳥肌が立った。身に抱えた剣の柄を握りながら跳ね起きる。横で寝ていたラピスの姿はそこにはなかった。しかし布団は身が抜け出したままに崩れており、枕元に置いた靴はない。襲われたのではないということにまずは安堵し、クエルクスは息をつく。

 布団をのけたら体が冷気に包まれた。春の夜の冷えではない。もっと鋭く肌を刺すものだ。冷気の流れは戸口から来ているようだ。洞の入り口の方を見ると、木戸が細く開き隙間から月明かりが射し込んでいる。

「一人で夜中に外に出るなんて、なに考えているんです」

 洞の外に出てみると、案の定、ラピスが洞にあった毛布に身を包み、夜空を眺めて座っていた。呆れてつい開口一番咎め口調になったクエルクスだが、ラピスはクエルクスを無視して月を見上げている。何かあるのかと、ラピスに倣って空を仰ぐ。するとクエルクスは、周りの気圧に違和感を感じた。

「……この空気は?」

「気がついた? 聡いわね」

 ラピスはクエルクスの叱咤に反省するそぶりもなく、隣に立つ従者の方を向いて笑った。

「冬よ」

 夜の空気は澄みきり、透明度の高い水のように視界は遥か彼方まで霞むところもない。天空には星々が冷たく瞬き、半袖の肌を夜風が刺す。

「星の位置が冬に変わったわ。今度の春は短すぎたわね」

「星読みに聞いたんですか」

「目印になる星座だけ、ね。冬は空気が透明だから見つけやすいって」

 ラピスは遠い山々へ視線を向け、目を細めた。吐く息は白く、頰は紅潮している。しかしそれは必ずしも寒さだけのせいではないだろう。話し続ける口調も熱を帯びている。

「あのお兄さんが言うにはね、星を読むにはちょっとしたこつと感覚があれば、素人でも星の転換が読める場合があるんですって」

「感覚?」

「そうよ。合図になるのは」

 言葉を切り、人差し指をくるくると回しながら目の高さに上げる。

「下からの微かな突風」

 指をぴたりと止め、クエルクスに目配せして座るように促す。

「星読みはそれを逃さず感じ取る訓練を受ける。お兄さんが『季節が変わると思ったら丘に登る』のもそういうこと。その風は『いま』の季節にそぐわない温度を持っているって。けれど街の中とか建物がごみごみしていると、風も色んなところにぶつかるし、素人はなかなか気付けない」

「ラピスは、いつそれに?」

「洞の前に来た時よ。ふっと、ね。もちろん、絶対的確信はなかったけれど」

 運が良かったわね、とラピスは呟いて、もう一度頭を後ろに倒して空を見た。隣に腰を下ろしたクエルクスは同じ方向に顔を向ける。

ふと、もう幾度となく頭に去来した考えが蘇る。自分たちの手は決して届かない、未知の星の輝きがそうさせるのだろうか。頭に浮かんだ言葉たちは、ラピスに聞かせるでもなく、独り言のように口から溢れていく。

「不思議なものだけれど……季節の区切りなど本当は存在しない。どこからどこまでを四季の一つ一つで区切るかなんて、人間が便宜上作ったものだ。だから、変転する季節に振り回されているのは僕たちの意識にそういう図式が刷り込まれているからにすぎない。言ってみれば、自然にとってはいまある気候、温度、風の向きが現実で、『春、夏、秋、冬』なんていう区切りはないんだ」

 自然界の植物は人間の意識にかかわらず空気の変化に反応し、芽をつけ、実を成す。己の決めた時間軸に縛られている人間は変化に対応するための術が必要だった。

「古くは星読みではなく、その変化を確実に感知し、過つことなく伝え、人間の生活圏にある動植物を管理し、人の営みを安定させる種族がいた。それが居なくなった後に必要になったのが星読みだ」

 張り詰めた夜の空気を震わす声が、谷間に落ちていく。囁くほどの大きさだが、それは静寂の中でラピスの鼓膜にひどく大きく響いた。

「……魔法使い、の、断絶……」

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