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楽園の果実  作者: 蜜柑桜
第六章 貝の矢尻
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(三)

 どれくらい進んだだろうか。しばらくすると追っ手や街の人々が叫ぶ声が聞こえなくなり、やがて体を鞭打つ雹も止んだ。ひょっとすると止んだのではなく、雲がかかるところを抜けただけかもしれない。前方の空が再び明るい水色になるのが見えてきた頃、ようやくクエルクスは馬の速度を落とした。

 城下を出てすぐの頃は田畑の間にぽつぽつと民家が見えたが、そうした家々ももはや無くなった。周囲には木々が増え、青々とした葉が優しい日差しを受けて輝いている。地上を焼く夏の太陽の光ではなく、春の陽だ。

「いつの間にか、また春がぶり返したのね」

「そのようですね。夜のうちかあるいは……もしかしたら星の見えない昼に変わることもありますから」

 馬の上に姿勢を垂直に直したクエルクスは、手綱を握ったまま器用に服を絞った。自分の盾になってくれていたクエルクスが体を離したので、ラピスも濡れて顔にへばりついた髪を払う。

「……まずかったかしら……パニアとの関係悪化は必至ね」

 ラピスは詰めていた息を大きく吐いた。さっきまでまともな呼吸も出来ないほど歯を食いしばっていたので、急に器官に風が通って変な感じだ。

「仕掛けてきたのは向こうです。こちらに非はありませんよ。弾劾されたら向こうが不利ですし、他国の手前、下手な行動は取れないでしょう」

「確かにそれはそうなのだけれど……」

 諸国との間に不可侵条約がある以上、パニア以外の国はユークレース側についてくれるだろう。しかし、まだ為政者として国際政治に本格的に関与した経験の無いラピスには、実情がどうであるのかはっきりとはわからない。やはり不安があった。

「私が昨日、啖呵切っちゃったのがいけなかったのかしら。王の不興を買ったとか? でもそれならなんで、馬を貸してくれたの」

「自信があったんでしょうね。馬一頭の二人乗りで多勢に敵うはずが無いと。城で捕らえなかったあたりが甘いですよ」

「それだけ? でも、王女を手に入れたいのだったら私達を捕らえて得するところはないのに。どう思う?」

 訊ねるラピスに、クエルクスは無言のままだった。ラピスの方を見ず、じっと街道の先を見つめたままでいる。その表情からは何も読み取れない。答えが見つからないのか、可能性を吟味しているのか、黒に近い濃い瞳は何も語らない。何でもいいから言葉が欲しいのに、と不満に思ったが、思案に沈んだ時のクエルクスに何を言おうと無駄だった。もともとクエルクスは自分の中で納得のいっていないことをあまり口にしない。わからないことはわからないと言うが、何か考えるところがある時にはいつもこうして黙したままなのだ。ラピスはまた別の意味で、耳に聞こえるほどの溜息をついた。

 左右の木々が密度を増し、道に傾斜が出て来た。木立の上から聞こえる鳥の声が騒がしくなり、いつの間にか街道は林の中に入っていた。

 先の逃亡の緊張と雹に打たれた体のせいでラピスは憔悴してしまい、黙って馬に揺られるままになっていた。するとしばらくして、クエルクスが不意に口を開いた。

「ラピス、国境までということですが……」

「ええ」

 前方には、晴れ渡った春の水色の空と美しい対照を成して新緑の鮮やかな山の稜線が連なっている。これがパニアの領域を定めるリーニ山脈であり、トーレ山を最高峰としていくつもの山々が並ぶ。これを超えれば隣国のトーナに入る。

 リーニ山脈に属する山の多くは標高がかなり高く、旅の荷物を持って超えるのは困難だと言われている。したがって南北の国を繋ぐために、山脈の中でも出来るだけなだらかな傾斜を選んで山を迂回する道が敷かれていた。ただし、直進しない分だけ時間がかかる。

「一日で山の反対まで行くのは流石に無理じゃないかな。馬もいるし」

 クエルクスは同意を求めて栗毛の鬣を撫でてやる。旅の途中、王女の侍女と偽ったラピスと人前で話す機会が多いおかげで、ラピスに対するクエルクスの口調もやや砕けたものになっていた。

「無理ね。だから山の中で一泊するわ」

「山で?」

「山の中腹に洞があるらしいの。雨露は凌げるし、中には毛布や何かもあるみたい」

 知った風に話すラピスの口元は、少しばかり笑みの形になっている。不安が消えたわけではないだろうが、なんとか自分の中で立て直そうとしているのがクエルクスには分かった。瑠璃の瞳がいつものように力強い光を取り戻しかけている。

「そこまで行きましょう。このまま道なりに行けば山道に入れるはずよ」

 太陽を受けて輝く雌黄色の長い髪を揺らしながら、ラピスはくるりと首を回した。作られた笑顔は「私なら大丈夫」と、クエルクスを安心させようとしていた。

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