(三)
行く手を阻んだ狼は、美しい真白の毛並みを木々の間から現し、人間の前だというのに臆する様子もなく、厳かに岩の上に進み出た。
長い毛の下から険しく射るような眼光をこちらへ向け、その口元には鋭い牙が見えている。すぐにも飛びかかれる姿勢で静止する手足の先で、長い爪が岩を掴む。
ラピスは自分の腰に差した短剣に手をかけた——王女といえども護身術は必須である。幼少から城の護衛団の者やクエルクスの指導のもとで一連の訓練は受けた。相手を倒すことは出来なくとも、自分の身を守って相手の脇を抜ける術くらいは心得ている。
鞘から剣を抜き出そうと、ラピスは手に力を入れた。隙を突くなら狼が動く前、今しかない。しかし手首が振れた瞬間に、その腕をクエルクスが掴んで止めた。ラピスは驚いて従者に抗議する。
「クエル、だって急がないと」
「いけません。彼を刺激しては」
「前に行くか、後ろから八つ裂きかのどっちかじゃない!」
焦りで声が叫びに近くなる。後ろからは、これまた殺気立った犬達が凄まじい剣幕で哮り追ってくる声が近づいているのだ。
だがクエルクスはラピスではなく狼に視線を合わせたままだ。狼の方もラピスではなく、クエルクスの眼を見返している。両者ともに息を詰めていたが、クエルクスの方が一つ、深く息を吸い、狼に何かを述べた。獣の言葉だ。
クエルクスの言葉が切れると、狼の瞳が動き、白の獣は小さく頭を動かして、短くひと鳴きする。それを聞いたクエルクスはラピスの手を強く掴んであっという間に狼の脇を走り抜けた。
「行きますよ!」
手を引かれたラピスの腕が、すれ違いざま狼の硬質な毛に触れた——狼はラピスの方を振り返る。眼に殺意は浮かんでいない。そこにはむしろ信頼があった。
そして白の獣は厳粛に野犬の方へ向き直ると、森中の木々を突き抜かんばかりに轟くような遠吠えをあげた。すると前方、斜方から無数の狼の群が、照葉樹の間を抜けてこちらへ駆け集まってきた。
「ちょっとなにこれ⁉︎」
驚き叫ぶラピスの声をクエルクスは無視した。そのまま走る速度を緩めず、ラピスの腕を引いたまま狼の集団の中へ突っ込んで行く。咄嗟のことでラピスは悲鳴を上げそうになったが、クエルクスが即座に振り返って制止した。
しかし、前を睨んだ獣達の爪や牙は群れを駆け抜ける二人には向かって来なかった。逆に狼たちは二人の脇を通り過ぎて、一心に犬の群れに向かって猛然と駆けて行くのだ。
「あの白いのはこの森の主です! 彼に話したら犬は自分達が押さえてやると!」
「なんでそんなことが出来るの⁉︎」
「ここは狼の縄張りです。犬どもが侵していい領域では無い。なのに彼らはそれを破った。僕らに悪意が無いこと、森を抜けて先へ行くだけだと伝えれば、理解してくれましたよっ」
後方から犬と狼の殺気だった喚き声が聞こえる。そしてそれに続く犬の悲痛な声、さらなる援軍を求めるかのような遠吠え、獰猛な唸り声。獣達の乱闘に林の中から鳥達が舞い上がり、とばっちりを避けようと逃げ去って行く。
「でもじゃあ、何で犬たちがそんなところで私たちを……」
その質問にクエルクスが答える前に、ラピスは木の根に躓いて舌を噛み、うぎゃっと無様な叫びをあげる。
「余計な口きいてるとひどい怪我しますよっ!」
「うっ……わかった……」
もう、どうせどんくさいわよっ、と心中で文句を言いつつも、クエルクスの忠告に従って走り続けるのに注力することにした。
沢を抜ければ森の出口は近い。緩やかになってきた斜面を足を速めながら走り続ければ、ほどなくして前方の木々が仄かに明るい光を包んでいる。開けた空間があるのだ。両側に茂る枝草が分かれて道幅を広げ、その先には野原が広がっていた。
森を抜けたのだ。ユークレースの隣国パニア国との国境の州、ヴェントはすぐそこだった。




