(一)
その晩、二人は早々に床に着き十分に睡眠をとると、翌朝早くに宿を出発した。荷袋にはグラディが持たせてくれた昼食と水袋が詰め込まれている。
朝の集落は、畑に農作業に出る人々や市場へ向かう人々で昨日の夕方より往来があったので、二人は馬には乗らず徒歩で進んだ。東からの朝日が民家の窓に反射し、地面に虹色を帯びた影を作る。空気は澄んで、肺に深く吸い込めば適度な冷たさが心地良い。今日も快晴に恵まれそうだ。
「それにしても、この辺はリアより随分住民が少ないのね」
首都と比べて疎らな家屋を左右に見ながら、ラピスはリアの街の活気との差に少々驚いた。
「ユークレースの内陸部はリアより農業が盛んで、畑の方が増えてきますよ。まだ春のままですから、苗植えに忙しいのでは」
「終わる前に真夏が来ないと良いけれど」
この世界の四季は安定しない。いつまで同じ季節が続くのか、いつ季節が変わるのか、不定である。緩やかに移行することもあれば、突然真冬から真夏に変わってしまうこともある。
しかしその変化は、人間の知覚においては突然訪れるものなのだが、自然界の植物にとっては異なるらしい。というのも、突然の気候転換に植物が「同調」しているからだ。すなわち、例えば冬から急に夏の気候になれば、昨日まで枯れていたはずの樹々に、翌日には青々とした葉が繁る。「春」の間に植えた稲の苗は、次の日に季節が「秋」になったとしても、黄金色の稲穂を風に靡かせる。「突然」と感じるのは人間の意識において、知覚においてであり、植物の方は肌に感じる気候の転換と同じく変化しているのである。
季節が定まらず急変を感じるのは人間の意識だけ。脳は意識する時間感覚と身体に感じる気候変動の不釣合いに違和感を覚えるが、植物は——人間の眼からすれば強靭にも——気候、天空の転換とともに姿を変える。
これは農家にとって長短どちらにも働いた。植物の急変に注意を払って上手いこと仕事を行えば、然るべき季節へ変わった時に作物は自ずから成熟した実を成し、農家がやきもきと待つ必要もなくかなり豊富な収穫が約束される。ただ一方で肝心なのは、ある季節の間にその季節に行うべき作業を終えている必要がある、ということである。
ラピスの懸念を含ませた声に、クエルクスも頷いた。
「苗植えさえ終わってくれれば、次が夏だろうと秋だろうとその時あるべき姿に育ちますからね。稲などは季節が冬に飛んでしまったら元も子もないですが……この前の秋に随分と収穫できたので、まぁ凌げると考えましょう。芋類などに頼る方も考えて、収穫時期のずれる作物をいくつか植える農家も増えたみたいです」
稲穂の収穫のためには「春」の間に苗を植えておかねばいけない。「春」から一足飛びに「秋」になった時、いくら植物が「秋」の姿になるとはいえ、稲穂が育つための田植えが済んでいなければ収穫はできない。似たように、「夏」の間に水遣りを怠り、花や葉が全て枯れてしまった樹々から果実は望めない。ある程度は季節の影響をあまり受けずに育つ植物に頼り、備蓄と合わせて国の食料不足を防ぐ努力は行われている。しかしいま直面している季節が変わる前に必要な農作業を済ませることができなければ、食糧難に陥る危険がある。今年のように常以上に季節の状態が不安定だと、やるべき作業を終えられずに収穫も失敗に終わる可能性が高くなるのだった。
「最近はなるべく確実にということで、環境を管理した室内栽培の数も増やしているみたいですし、新たな試みも研究されているそうです。室内で育てるとなると温度を保つのに薪やらを使うのであまり経済的には良くないですが、作業の進め方を星読みに頼りきるよりは安全でしょう」
「星読みも、いつも正確とは限らないものね」
季節の変わり目を察知する唯一の手段が「星読み」だ。
季節が変化するのは多くの場合、夜である。その夜の一瞬、星座の位置が変化する。星読みの知識を持った者たちは、なんらかの方法で変化が起こる夜を判断し、天体の位置関係を観測し、次に来た季節を見定めて知らせる。ただこれも絶対の指標ではない。全ての星が同じ季節の中の同じ日、つまり互いに対応する日に、同じ場所にあるとは限らないからだ。例えばある季節に特定の惑星の組み合わせが地平線の上に直線に並ぶという現象が起こるが、これもその季節に常に起こることではない。星読みで「読んだ」季節が実際とずれることもある。その辺りは、「星読み」を担う者の知識と感覚に左右された。
「まあ僕達にとっては、突然、冬にならなければいいですよ。さすがにいま氷点下になったら旅は続けられませんから」
「それもそうね」
集落の外れあたりまで来て殆ど人家が無くなってから、二人は馬を走らせ始めた。両側に広大な菜の花畑が広がる道を駆け、次の街へ向かう。春の野は一面、鮮やかな黄色で覆われ、輝くばかりのその色が青い空と好対照を成す。
風も穏やかで晴天に恵まれたその日の午前、馬は順調に歩を進め、さらに二、三の小さな集落を抜けて、昼過ぎにはユークレース北部の街、ラチェーナまで辿り着いた。
街の広場に置かれた木の椅子に腰掛け、宿で持たせてもらった食事を広げて休憩をとる。適度に暖かい陽気の中、他にも座って憩う老人や、元気よく駆け回る子供達、彼らがどこかへ行ってしまわないか見守っているその親達などが居たので広場は割と騒がしく、幸い若い旅人二人連れを気にかける雰囲気も無かった。
鴨の燻製と生野菜が挟まれた小麦生地を頬張りつつ、ラピスは地図をばさりと開く。
「ラチェーナを通り過ぎたらしばらく大きな街はない、か。草原と森や丘陵続きね」
「半島の海側を行く道も考えましたが、迂回になってしまうので森を突っ切ります。フィウの渓谷を通るつもりです。北上するには近道ですからね」
横から覗き込んだクエルクスが、進路を地図上で辿ってやる。細い指が指すのは森の中にある沢で、それを渡って森を抜ければ国境まではすぐだ。
「それじゃあ早めに出発しないと、今日中に森を抜けられなくなっちゃう。さっさと食べましょ。あ、この鴨、蜂蜜と辛子で味付けしてある。ん、蜜漬け蜜柑の薄切りも? 意外に合うのね、美味しい」
神妙に地図を見つつもぱくぱくと咀嚼の速度をあげたラピスを見て、クエルクスも急ぎ空腹を満たしにかかった。ラピスの言う通り、日はもう頭の真上を過ぎている。あっという間に西に傾くだろう。広場で平和に遊ぶ子らのあどけなく騒ぐ声を聞きながら、二人は黙々と昼食を平らげて、ラチェーナの街の北門へ向かった。




