もう、肩を叩かないでよ
数日後、とある出版社ではあの一家惨殺事件の事が会議の中で話し合われていた。
その結果、雑誌の特集を掲載することで決済が降りていた。
「おい、みんな聞いてくれ。
この前の一家惨殺事件のことだが、うちで特集記事を出すことになった」
第一編部室に戻ってきた編集長が、自分の席のある方に歩きながらそう叫んだ。
すると、
「そうなんですかっ!」
「もう、巷では有名ですからね。
未だに犯人は捕まっていませんから」
「だ、誰が書くのですか」
と、一気に部屋中がざわめいた。
席までたどり着いた編集長は、記者たちのほうに振り返ると、
「まあまあ、少し落ち着け。
ここでその記事がつまらない物だったら、うちの看板にも傷が付くからな。
慎重に決めないとな」
そう言いながら、記者たち全員の方を見回していた。
そして、一人の女性記者のところで視線が止まった。
「相沢っ!」
そう叫ぶと、記者たちの視線が一斉に一箇所に集中した。
記者のデスクというのは、記事のことで必要な書類や本などの資料が山積みで、どこに誰が座っているのかも解からない状態だ。
ましてや新米記者ともなれば、他の者よりもごった返している。
みんなが見ている席も、室内でも一番ごった返している席だった。
記者たちが一斉に見ていた女性記者は『相沢優香』という名前だ。
「おい、相沢っ!
返事ぐらいしろってのっ!」
再度、編集長が名前を呼んでいた。
すると隣にいた同僚の『水野真紀』が、
「優香、優香ってば…… 」
と、小声で呼びながら相沢の身体を揺さぶっていたのだ。
「は…… 」
と顔を上げる相沢だった。
しょぼしょぼと目を細めて周りを見渡す相沢は、机にもたれて寝ていたのである。
「優香、編集長が呼んでるよ」
水野が編集長の机の方を指差しながらそう言うと、
「は、はいっ!
な、なんでしょうか」
と勢いよく立ち上がった。
その状況に、
「お前なぁ、今から大事なことを話そうとしているのに、机の上で寝ている場合かよ。
ま、まあ、いいが……
とにかくお前が書け」
と最初は呆れ顔の編集長だったが、いきなり真顔でそう叫んだ。
その言葉に、
「おーっ!」
との言葉と共に、部屋中の視線が相沢に向けられていた。
そんな中、何が起きているのか理解に苦しむ相沢が、横の水野のほうに顔を向けると、
「良かったじゃない優香。
しっかりやるのよ」
と言って、相沢の肩を思いっきり叩いていた。
「い、痛いっ」
と肩を抑える相沢だったが、未だに状況を掴めてはいない。
ただ、いきなり肩を思いっきり叩かれた痛みが、相沢の脳内に響いていただけだった。
特集記事を書くと言うことは、その出版社にとっては重大な責任を担うことになる。
先ほどの編集長の言葉にもあったが、つまらない記事を書いてしまえば、出版社の看板に傷が付くと言うことは間違いのないことだ。
本屋に並んだ雑誌を手にとって、真っ先に目にする記事が特集になったものだ。
読む側は、その記事を読みたいが為にその雑誌を買うと言っても過言ではない。
更に言えば、特集記事で世間から認められると、その記者人生は確実に成功へと向かうのだ。
まさにその大役を任された相沢の記者人生にも、大チャンスが訪れたのである。
だが、張本人の相沢ときたら、完全に寝ぼけ眼で編集長の方を見ていたのである。
「いいか相沢。
ここでポカしたとなれば、お前の記者としての腕が量られるんだぞ。
心して取り掛かるように。
解かっているよな」
ゆっくりと相沢の席まで歩み寄った編集長は、相沢の肩を数回叩きながらそう言った。
「い、痛っつ…… 」
その言葉と一緒に、数回身体が大きく揺れていた。
そして、叩かれた肩を抑える相沢だったのだ。
「解かったら、早く資料集めに行って来い」
そう言って、自分の席の方に戻る編集長。
それに、
「は、はい」
と言って席を立った相沢は、目の前にあるデジカメとノートパソコンをバッグに詰め込んで、第一編集部室から出て行った。
部屋の外には、心配そうに見ていた水野が待っていた。
「良かったじゃない。
困った時は私も手伝うから、頑張って良い記事を書いてね」
そう言いながら、再び肩を叩く水野だった。
水野は、相沢とは年齢が同じだったが、相沢が入社する二年ほど前にこの出版社に入っていた。
そのため、相沢が困った時にはいつも水野が助けていた。
「う、うっす。
その時は、お願いしやす」
そう言って頷く相沢だった。
そして、ジンジンと痛みが増してくる肩をひたすら抑えていた。
事件記者と言うものは、とにかく何度も事件現場に足を運んで、そこで起きた出来事を在りのままに書いていく。
記者の中には、大袈裟に色を付けて記事を飾る者もいるが、そう言った云わば虚偽の記事を書く者は、最終的には自分の記事に収まりが付かなくなってしまう。
そうなれば、行き着く先は裁判沙汰などになり、その記者人生も確実に終わってしまうのだ。
しかし、そこで成功するとなれば、更に重要な案件を任されることにもなるだろう。
そして自分の本なども出せる。まさに記者として食べていけることは間違いなくなる。
そんな大きなチャンスを、入社して一年も満たない相沢は手にしていた。
現場にたどり着いた相沢は、どんな小さな事でもいいから記事につなげていく思いで、一軒一軒聞き込みに周った。
「ここでさっきの証言が繫がるから、もう一度あの事が確実なことなのか聞きにいってみよう。
あのおじさんは何時でもおいでって言ってたから、まあ大丈夫でしょう。
そんで、ここに私の意見も書いておこうっと。
まあ、こんな新米な私でも許してもらえるでしょうから」
普段にも増して、パソコンのキーボードの上の指が滑る様に動いていた。
その指先の動きからは、思考能力が冴えている事を裏付けていた。
この様な殺人事件の記事を書くことは、相沢にとって初めての経験だった。
今までは芸能関係のスキャンダルを調べる仕事が多かったのだ。
そこでも裏の事情を知ることは多かったが、殺人となればまた違ってくる。
人間の裏の醜い部分にも触れることが多くなってくるのだ。
相沢にとっては、その事などが新鮮だった。
そして、それは今後の相沢にとって貴重な経験になるのだ。
記事を書くときなどは、簡単に『被害者の気持ちになって』などと思ってはいけない。
同じ目に在った事がないのに『被害者の気持ち』など解かる筈はないのだ。
安易にその様なことを考えると、そこから足元を見られることに繫がるからだ。
相沢は、今回の仕事を任されることで、事件記者の難しさを身をもって知ることになった。
そして大勢の人の証言から、その一つひとつを繋いでいくうちに事件の複雑な事情が見えてきた。
この事件は、ある事情が元でこの場所に引っ越して来て起きた惨劇だった。
事件は四年前まで遡る。
当時は、別の場所でアパートの一室を借りて生活をしていた被害者夫婦だった。
当時は子供はいなかった。
二人は結婚を機にその場所で新生活を迎えていたのだ。
そこは木造の二階家で、下が三軒と二階が三軒の六世帯が生活できる構造だった。
築年数が古く、その為に家賃も格安だったことから、独身や老夫婦などが住んでいた。
住民たちは低収入の者ばかりだった。
カツカツの生活だったこともあり、況してや隣にはどんな人が住んでいるのかが解からないと言った現在人の問題などから、住民同士の小さな小競り合いも少なくなかった。
ある日の朝、殺害された男性『三田啓一』が仕事に出かけた。
二階の一番奥の部屋を借りていた三田夫婦だった。
「ああ、あなた。
いってらっしゃい」
「それじゃ、行ってきます」
新婚だった二人は、とても仲が良かった。
三田はそのまま駆け足で階段を下りて行った。
ここのアパートの階段を下りると、通りを挟んで目の前にゴミステーションが設置されていた。
この地域はカラスの被害が激しいせいで、ゴミステーションも人が中に入れるような大きな金網で作られていた。
その中で、一人の若者がゴミを置いていた。
その光景に、首をかしげて見ていた三田は、
「ちょっと君、今日はゴミ収集の日じゃないと思うけど、確か明後日のはずじゃないのかな」
と男に向かって言った。
その時の三田は、別に厳しい口調での話し方でもなく、どちらかと言えば少し気を使っての言葉だった。
だがそれが気に障ったのか、ピクリと身体を震わせて反応した若者は、三田のほうに振り向いた。
その時の表情は、眉毛を吊り上げて鋭く目を細め、今にも激しい罵声でも言い放つような嫌悪感丸出しの顔で三田を睨みつけていた。
そして、ゆっくりとゴミステーションの金網から出てきた若者は、三田の横を通る時にワザと聞こえるように舌打ちをして、そのまま一階の手前の部屋に入っていった。
何かされるのかと、その場で硬直した状態で立ち止まっていた三田だった。
普段から几帳面を絵に描いたような性格の三田だったので、その場で見過ごすことは出来なかったのだ。
そのままゴミステーションに入った三田は、若者が置いていったゴミの袋を取り出すと、そのまま若者が入っていった部屋の前において仕事に出かけていった。
そして、夜に三田が帰宅してくると、ゴミステーションの中には若者が捨てていたゴミの袋が置いていた。
それを見たとき、
「なんで当たり前のことが出来ないんだよ」
と呟く三田だった。
翌日の朝、同じ時間に出勤する三田が家から出てくると、再び昨日の若者と出くわした。
その時三田が若者に言った。
「ちょっと君、困るんだよ。
しっかりとゴミの収集日に捨ててもらわないと、この辺りはカラスが直ぐに集まってくるから、カラスのフンだらけになるだろう。
それに早く出されると臭いもするし、他の家の人にも迷惑になるだろう」
この際だからしっかりと言ってやろうと思った三田だった。
その言葉を、じっと睨みつけながら聞いていた若者は、昨日と同じように舌打ちをして部屋に入っていった。
そんな出来事は、その後も何度か起こっていた。
次のトラブルは、若者の騒音問題だった。
若者はバンドを組んでいて、週の3・4日は街のライブハウスで演奏していた。
そこそこ人気があったのか、そのライブの収入で食べていたのだ。
だがそのライブの日には、毎回のようにバンド仲間を家に呼んでは、朝まで騒いでいたのだ。
その時の三田は、妻がお産で里に帰っていたこともあり一人での生活だった。
その為にあまり気にはしていなかった。
だが、子供を生んで妻が帰ってくると、話は変わってくる。
子供を寝かせつけても、下の部屋から大きな声が聞こえてくると、子供が驚いて目を覚ましてしまう。
ある日の夜。
いつものように若者が仲間を連れて帰ってきた時に、それを待っていた三田が部屋を出て若者のところに向かった。
そして入り口のところで、
「君たちに話があるんだが」
と言った。
若者は黙って三田を睨みつけた。
それを見ていた仲間の一人が、
「なに、何か文句でもあんの」
と酒臭い息を吐きながら言い寄ってきた。
「ああ、いつも騒いで迷惑だから、一言注意しておこうと思ってね」
顔を横に向けてそう言う三田だったが、もう一人の仲間が間を割ってくると、
「ああっ、出しゃばんじゃねえよ」
といきなり三田の胸ぐらを掴んだ。
その時、若者がその仲間を止めると、
「格好つけんじゃねえよ。
……ったくよぉ。
…… 行こうぜ」
と言って、そのまま仲間と一緒に出かけていった。
そしてその日は、若者は朝まで返ってこなかった。
このアパートの住民は、三田家族と若者の他に、一階の奥に老夫婦が住んでいて二階の真ん中に独身の男が住んでいた。
他の部屋は空いていた。
下の階の老夫婦とは、三田の妻もよく話をしていたらしい。
二階の独身男性は仕事はしている様子だったが、いつ出て行っていつ帰ってくるのかさえ定まっていなかった。
そんな不規則な仕事だったことで殆ど顔を見ることはなかった。
それで若者と揉めるのは、いつも三田だったのだ。
若者と揉めた時には、
「くっそぉ、あの若いヤツのことなど、大家は何も言ってなかったけどなぁ。
こんな事ならここには来なかったのに」
と、いつも呟く三田だった。
このアパートを借りる時、ここの大家は若者のことを伏せていたのだ。
だが、辛抱しきれなくなった三田は、大家のところに抗議することにした。
この様な近隣の問題は、どこの街でも起こっている。
先日も、近所同士の小競り合いで殺人事件に繫がったとテレビニュースで流れていた。
ゴミ・騒音・ペット・車の駐車と原因はたくさんある。
やはり、近所付き合いも難しい世の中になってしまったのだろうか。
三田の訴えにより、暫くは静かな日が続いた。
これでようやく住み易くなったと、家族で話す三田だった。
だが、この後予期せぬ問題が起きたのだ。
それは、夜中の音の問題だった。
音と言うよりも声。
それも甲高い子供の泣き声だ。
その原因を作っていたのが、大家に抗議した三田の家からだった。
毎夜、三田の子供の夜鳴きが始まったのである。
そして家に押しかけてきたのが、大家から注意を受けた若者だった。
「てめぇっ!
人に散々文句言っておいて、自分のことはどうでもいいのかよ」
そう叫んだ若者に、
「も、申し訳御座いません。
でも、子供は泣くのが仕事のようなものですし、直ぐに泣き止むようにしますので」
と頭を下げる三田の姿があった。
だが、若者はこの時とばかりに、
「冗談言ってんじゃねえよ。
てめえが言ったんだろうが、人に迷惑かけんなってよお。
ああ、何とかしろよ」
と怒鳴りつけていた。
その度に、驚いて更に泣き叫ぶ子供だった。
だが、
「すいません」
そう言いながら頭を下げるしかない三田だったのだ。
そして若者の苦情は、三田の家族に対する嫌がらせへと変わっていった。
それも陰険で姑息な手口だった。
昼間に母親が子供を連れて出かけようとすると、玄関口にゴミ簿袋が置かれていたり、お酒の缶が捨てられていた。
それどころか、次第に動物の死骸や汚物なども撒かれるようになっていた。
その事で母親は病気になった。
そして三田は、再度大家の元に向かった。
大家は若者に注意を促したが、
「俺はしらねえよ」
の言葉だけで、一向に聞き入れることはなかった。
このままではこちらが参ってしまうと思った三田は、警察に被害届を出した。
そして数日がっ経ったある日、若者は逮捕されたのである。
容疑は麻薬所持だった。
前々から警察の目が若者を見張っていたのだ。
それが三田の届出によって家宅捜索を受けることなり、逮捕に至ったのである。
そして、ようやく平和な日が訪れた三田家族だった。
しかし、それから一年もしないうちに若者が釈放されるとのうわさを聞いた三田は、このままでは何をされるか解かったものじゃないと思い、引っ越すことを決意したのである。
それで幸せな生活を送れると思った三田だったが、若者は三田のことを許してはいなかった。
完全に仕事も仲間も失った若者は、三田への復讐の為に殺人鬼へと変貌していたのである。
相沢は、事件の全貌に自分の意見も交えて記事にした。
そして出来た原稿を編集長のところに持っていくと、
「お待たせしました。
これでお願いします」
そう言った。
今回の仕事で食事もろくに出来なかったのか、少し痩せた相沢だった。
だが、その顔は達成感で笑みを浮かべていた。
「いい顔だ。
どれどれ、読ませてもらおうか」
相沢の仕事ぶりを、他の記者たちからも聞いたいた編集長だった。
暫く原稿に目を通していた編集長は、
「こいつは良いっ!
このまま手直しもいらないだろう。
よくやったな」
そう言って、前のように数回相沢の肩を叩いた。
その度に、相沢の身体が大きく揺れていた。
そして痛みを堪えながら顔を顰める相沢だったのである。
「ようし、これを次の号で掲載できるように掛け合ってみるか。
お前の仕事ぶりも自慢してやろう」
そう言った編集長は、大きな高笑いを発しながら部屋を出て行った。
その後、直ぐに部屋に入ってきた水野が、
「よかったね。
私も優香の仕事を見ていたけど、一生懸命に頑張っていたもの。
あの編集長の顔じゃ、記事は完璧だね。
おめでとう優香」
そう言って、相沢の肩を叩こうとした。
それを反転して交わした相沢は、
「もう、肩を叩かないでよ。
パソコンを打てなくなっちゃうでしょ」
と言って、椅子に座った。
「まあまあ、そんなに怒んなくても」
と宥める水野だったが、口を尖らせる相沢だった。