雨の中の惨殺
昼間は雲ひとつなかった空が、夕方になると次第にどんよりとした暗雲に包まれてきた。
路上には、一粒二粒と水滴が落ちる。
それに気付いた時には、周りから聞こえる雨音が激しさを増していった。
そんな中を、一人の男が歩いていた。
見ると黒いパーカーにジーパン姿で、頭にはキャップを被り、尚且つ上からフードを被っている。
獣のような鋭い目が、キャップのひさしの下から覗く。
それも周りの住宅街の玄関口を確認しているかのように。
その日は急な雨とあって普段よりも暗くなるのが早く、窓からの電灯の明かりが増えてきた。
夕食の支度なのか、台所付近からの湯煙が家族の団欒を物語る。
そして一軒の家からも、そんな家族の楽しそうな声が聞こえていた。
「おーい、父さんが先に風呂に入るから、啓太もあとから連れてきてくれ」
「はーい」
父親の声に、台所にいた母親が応える。
慌ててエプロンをはずし、リビングで走り回る子供をやさしく捕まえると、
「ほらほら、啓ちゃんも服を脱いで」
「いやだよ」
「そんなこと言ったら、お父さんが風呂から上がっちゃうよ」
「え、今日はお父さんと一緒に風呂に入るの」
「そうよ。
だから早くお洋服を脱いで」
「はーい」
そんな会話をしながら、子供が両手を上に挙げると洋服を脱がせていた。
最後に中々脱げないズボンを、足をばたつかせて振り払うように脱ぐと、そのまま浴室に走っていく子供だった。
「おう、来たか啓太。
ちゃんとお母さんの言うことを聞いてるか」
「うん」
浴室から二人の会話を聞きながら、脱ぎ捨てられたズボンを拾う母親だった。
その時、ロビーの隅にあるインターホンが鳴った。
「誰かしら?
こんな時間に…… 」
そう呟きながら、台所に戻ろうとした母親がインターホンのモニターを覗いた。
すると、
「そ…… そんな…… 」
モニターの前で、唇を震わせて何かに怯える母親。
そして浴室の方に走っていった母親は、徐にドアを開けた。
「どうしたんだよ。
びっくりするじゃないか」
急な出来事に、子供の身体を洗いながら振り返る父親。
目の前では、ガタガタと身体を震わせながら声も出せない状態の母親が立っていた。
只ならぬ表情を見た父親が、
「な、何かあったのか」
そう問いかけると、
「げ、玄関に…… あの、あの男が…… 」
ゆっくりと吐き出すように、母親が言った。
その一言で、今何が起こっているのかを父親は察知した。
「俺が見てくるから、啓太の身体を拭いてやれ」
父親はそう言うと、側においていたバスタオルで軽く身体を拭いたあと、洋服を着ながらロビーに向かった。
その時、再びインターホンが部屋の中に響いた。
しかし、父親は会話ボタンを押さずにモニターをじっと見ていた。
それどころか、浴室の方から啓太を連れてロビーに戻ってくる母親に対して、静かにするように口に指を当てていた。
暫くすると玄関の方から、
「居るんだろう」
と、低い男の声が聞こえてきた。
そして、再びインターホンの音が響いた。
それも、何度も連打されたのだ。
その音に、震えながら子供を抱きしめる母親だった。
そして父親は、
「啓太、啓太を頼むぞ」
そう言って玄関の方に向かった。
そして立て掛けてあった傘を一本握り締めると、ゆっくりと玄関のドアを開けた。
しかし、男の姿はなかった。
父親はそのまま外に出ると、周りを見渡した。
だが、誰も居なかった。
父親は不思議そうに母親の方に振り返ると、首を横に振っていた。
だが、母親は険しい表情に変わっていき、父親の方に指差していた。
父親は首をかしげると、ゆっくりと振り返った。
「ひさしぶりだなっ!」
目の前でそう叫ぶ男が、父親の肩をつかんでいた。
「ひっ、な、何しに来たんだっ!!」
そう叫びながら男の手を払う父親。
そのまま家に飛び込むと、玄関のドアを閉めようとした。
だが、男がそれを足で阻止すると、その場で腰を落とした父親に向かって、
「こんなところに…… こんなところに隠れていたんだ。
へぇ、けっこう良い暮らししてんだな」
そう言いながら家の中を見ながら入ってきた。
そして、
「お前のせいで、俺の暮らしはボロボロでよぉ。
どうしてくれんだよ。
ああぁっ、どうしてくれんだよぉっ!!」
そう叫びながら、持っていたナイフを振りかざした。
驚いた父親は身体を反転させて逃げようとした。
しかし男のナイフは、這い蹲る父親の背中を貫いた。
「ふぐっ…… 」
激痛で力が入らない腹筋で、叫ぶ声も出ない父親だった。
そのまま父親の上に馬乗りになった男は、何度もナイフを振り下ろした。
幾度となく振り下ろす手は、父親の身体から血液が固まりだしぬめりを帯びたことで、次第にゆっくりとした動きに変わっていた。
そして最後の一撃のナイフを抜く時には、湿ったような音を立てていた。
ロビーからその一部始終を見ていた母親の顔は、次第に血色がなくなっていった。
そして、母親の方を睨みつけた男は、
「奥さんよぉ。
あれは俺じゃないんだよ」
そう言って、痙攣する父親の背中から立ち上がった。
そして、そのまま父親の身体を踏みつけながら、ロビーで子供を抱きしめていた母親の方に歩き出した。
「う…… こ、こな…… いで…… 」
あまりの恐怖に、乾燥した口内から発する言葉はかすれていた。
ただ、その場で必死に子供を庇いながら後ろに下がることしか出来なかったのだ。
男が母親の方に動き出した。
足の裏には父親の血液がべっちょりと付着して、歩くたびに沼地を歩いているかのように音を立てていた。
「あの嫌がらせは、俺じゃないんだって」
両手を差し出しながらそう言って、更に迫ってくる男。
そして、
「だぁかぁらぁっ!
俺じゃないって言ってるだろうがぁっ、ああぁっ!!」
そう叫んだかと思うと、母親の上に馬乗りになった。
そして、何度も何度もナイフを振り下ろした。
その度に、真っ赤な鮮血が男の顔や洋服に降り注いだ。
男がナイフを振り下ろすたびに、ピクリピクリと反応していた母親だったが、その反応も次第に小さくなり、男が疲れて動きを止めた時には全く動かなくなっていた。
母親の胸の中では、子供も動くことは無かった。
男の振り下ろしたナイフは、母親の身体を貫通して子供にも刺さっていたのだ。
毎日掃除をしていた床には、その母親と子供の血で真っ赤になっていた。
そして男はゆっくりと立ち上がると、疲れ果てた手をブラブラと揺らしながら部屋から出て行った。
一連の出来事での物音や叫び声は、その日の急な豪雨の音でもみ消されていた。
数時間後。
近所の住民が仕事帰りに家の前を通りかかった祭に、、何故か玄関が開いたままだったことで不審に思い家の中を覗き込んでいた。
そして中の惨劇を目の当たりにして、警察に通報した。
暫くして、パトカーのサイレンと共に数名の鑑識官たちが、白い手袋にデジカメを手に家の中に入ってきた。
「どうも、どうも。
ご苦労様です」
鑑識官たちにそう言いながら、少し髪の薄い年配の刑事が口にハンカチを当てて入ってきた。
そして父親の死体の前に来ると、
「こりゃ、酷いな」
そう呟きながら、両手を胸の前で合わせていた。
更に、その刑事の後ろから若い刑事が姿を現した。
若い刑事も年配の刑事の後ろから父親の死体を覗き込んだ。
そして、再び玄関の方に走っていくと、庭先で嘔吐していた。
その光景を、家の周りからキープアウトテープ越しに見ていた野次馬たちが顔を顰めていた。
そこには、野次馬ばかりではなかった。
既にこのニュースをどこかで聞きつけたメディアの連中も、カメラや脚立を持ってフラッシュを光らせていた。
「どうですか、何か見つかりましたか」
年配の刑事が傍にいた鑑識官に尋ねると、
「それが、全くと言っていいほどないです。
と言うよりは殺人が行われていた時は雨が降っていて、その雨が全てを解からなくしています」
という答えが返ってきた。
確かにその通りだった。
家の中には犯人のものは無かった。
血痕なども、全ては殺された被害者のものだけだった。
そして、押し入った時の靴の痕や付着していたものも、全て雨水によって濁されていたのだ。
その事は年配の刑事も解かっていた。
それでは何故尋ねたのか。
それは、
「だろうな。
この状態なら仕方が無いことじゃ。
ほんじゃ、周りの住民に聞き込みや。
忙しくなるぞ」
という言葉から、自分の足で追求しろと自分に言い聞かせるためだったのだ。
そう言いながらキープアウトの間から年配の刑事が通りに出て行くと、
「はい」
と答えてその後を追う若い刑事だった。
毎日のように起こる殺人事件。
この日本では、こういった事件が年々増えてきている。
殺人に至るまでの原因や事件性といったものは様々だが、やはり現在の不況や無関心。
自己中心的な考えの増加。
昔と違って、義理や人情の薄れ。
それにコロナ過というものがストレスを生んで、そのためにイライラを加速させている。
物取りが原因の事件も年々増加の一途をたどっている。
それもコンビに強盗や引ったくり、バイクや自転車泥棒といったものなど、ようするに小銭目当てのものが非常に多く見られ始めているのだ。
現在では、物価は上がっても給料は上がらない。
コロナ過などで仕事も減ってきている。
過去の日本人は金持ちだったが、現在の日本人はきゅうきゅう言って居るといってよいのだ。
それが、事件増加にも影響しているといっても過言ではないのだ。
はっきり言って、世界一の治安の良い国は過去の言葉となりつつある。
県警の大会議室の入り口には『一家三冊事件捜査本部』と書かれた垂れ幕が張られていた。
部屋の中には、50人、60人といった警察官がズラリと並んで椅子に座っていた。
そんな中、
「殺人が行われた時間は、何時ごろか解かるか」
正面に配置された机の中央に居た刑事が、目の前の全員に尋ねた。
そこには、警視庁から来た警視をはじめ、数名の警部が座っていた。
すると、
「殺人が行われた家の裏に位置する住宅に住む六十代の男性が風呂に入っている時に、殺人が行われた家では父親と息子が一緒に風呂に入っていたという証言を得ました。
その男性は、いつもほぼ同じ時間に風呂に入っているそうで、その日は父親が早かったのか息子と一緒だったことで珍しいと言っていました。
だから記憶していたと。
しかし男性が言うには、その親子の声は直ぐにやんだから早いなとは思ったらしいです。
それはらは、あまり気にはしていなかったことと、雨の音が激しくなって殆ど外からの音は聞こえなかったと証言しています」
たくさん並んだ警察官たちの一番前に座っていた刑事が、手帳を読み上げていた。
それを聞いて、更に警視が質問した。
「それでは、被害者の家からは何か無くなったものはないか。
高価なものや金銭といったものが盗まれた形跡は残っていなかったのか」
その言葉に後ろの方に座っていた刑事が立ち上がって、
「被害者の家の中は、どこを調べても荒らされた形跡はありませんでした。
他の部屋も調べましたが、そこには犯人の足跡もありませんでしたので、玄関からロビーまでの間での犯行です。
また、台所に妻のものとされるハンドバッグがありましたが、中のものを荒らされた形跡は無く、財布や携帯電話などもそのままでした。
犯人は、真っ直ぐに被害者の方に向かって犯行を行った模様です」
そう言って、直ぐに椅子に座った。
「そうか。
強盗での犯行ではないとなると怨恨か。
犯人の足跡や指紋は見つかってはいないのか」
「……」
警視の言葉に、立ち上がる刑事はいなかった。
それを見た警視は、横にいた刑事に手を挙げて指示を出すと、
「それでは今から、私の指示で動いてもらう」
横の刑事が立ち上がってそう言った。
そして、
「そこの大林警部補」
その言葉に、一番右に座っていた年配の刑事が、
「はい」
と返事をした。
それを聞いて、
「君たちは、被害者の家の周りに怪しい者がうろついていなかったか聞き込みしろ。
どんな小さな証言でも、必ず何かの証拠に繫がるかもしれないからな」
と指示を出した。
すぐさま返事を返した『大林警部補』だった。
名前は『大林源吾』。
警視庁からやってきたベテラン刑事で、とにかく足で犯人を追い詰めるやり方で、今までいくつもの事件を解決へと導いた。
その後ろには、若い割には周りの刑事よりも貫禄のあるオーラを放っていた刑事がいた。
大林の一番の部下で名前は『岡田伸二郎』といった。
岡田の年齢は二十代半ばだったが、異例の昇進で警部補という役にいた。
これがキャリアと呼ばれるものだった。
大林とは同じ役職だが、やはり経験不足ということと岡田が大林を慕っていたことで、上下関係が成立していた。
他にも、前列に座っている警部補たちに命令が下されると、その日の会議は終了した。