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ぼくの靴を探して

作者: 真波馨


『ねえ、ぼくの靴を一緒に探してよ』

 少し鼻にかかったような、風邪気味のような独特な声が耳元で囁く。

『ずっと探してるんだけど、見つからないんだ。一緒に探してよ、サトシくん』

 澄んだ瞳が、ぼくの顔をじっと見据えている。彼の身体はほの白く発光していて、体内に白熱灯でも埋め込んでいるかのようだ。部屋の電灯は消えていて真っ暗なはずなのに、室内の様子がはっきりと目に映る。勉強机の上に置かれた教科書や塾の参考書。床に置かれたランドセル。本棚にきちんと収められた少年マンガやジュブナイル本。壁に寄せられたベッド。ベッドの足元側には、葉が落ちきった木のような見た目のコートハンガーが置かれていて、学校指定の帽子や上履きを入れる袋が掛けられている。

 村田マキオがぼくの部屋に現れたのは、つい三十分ほど前だった。時間は、真夜中の一時を過ぎた頃。常識から考えれば、他人様の家を訪ねるような時間帯ではない。しかも、マキオは驚くような方法でぼくの部屋に入ってきた。外から窓を通り抜けてきたのだ。普通の人間なら、宙に浮くこともガラス窓や壁を突き抜けるなんて芸当も、到底できるわけがない。でも、ベッドに寝転がっていたぼくがふと窓を見たとき、マキオはたしかに外から室内に向かって手を振っていた。ぼくの部屋は二階にある。外には二階に通じる階段やはしごはない。締めっぱなしにしている窓を開けることなく、マキオはすうっとガラスを通過してぼくの部屋に侵入したのだ。

 そんな彼に対して、「ひょっとして、幽霊?」という質問をぶつけたのはごく自然の流れだと思う。ほかにどんな反応をしろというのだ。こちらもひょいと片手をあげて「やあ、ようこそ。散らかっているけどそのへんに坐って」などと座布団を出せとでも? 無理な話である。

 口をぱくぱくさせながら、やっとのこと絞り出したぼくの問いに対して、マキオはちょっと困ったような笑顔を浮かべて答えた。

『まあ、そんなところかな』

 そんなところかな、ときた。幽霊以外の答えなんてあるはずもないのに。実は超能力が使えるようになったんだ、とでも云いだすつもりだったのか。いずれにせよ、悪い冗談に変わりはない。

 マキオは、自分が幽霊なんてことはどうでもよさそうな様子だった。物珍しそうにぼくの部屋を見回している。ぼくとマキオは同じクラスだったけれど、互いの家を行き来するほど仲良しだったわけではない。彼にぼくの部屋をお披露目するのはこれが初めてだ。まさかこんな形で迎え入れるとは予想もしていなかったけれど。

『ところで、ぼくの靴、一緒に探してくれる?』

 マキオがぼくの前に現れてから、もう五回は繰り返された言葉だ。声色は控えめなのに随分としつこく問いかけられるものだから、

「靴って、きみの? どうして靴なんか」

 つい、つっけんどんに返事をしてしまった。マキオは眉を八の字に寄せて、困り果てたような顔をする。

『ほら、去年の夏、サトシくんたちと森で遊んだとき。みんなで“靴隠し”をしたでしょ? そのとき、ぼくの靴がどこかにいっちゃったんだ。だから、一緒に探してよ』

 ひゅっ、と喉が鳴った。フィルム映写機を反回転させるように、ぼくの記憶はものすごい勢いで一年前の夏へ飛ぶ。小学四年生のぼくとマキオ、そして当時のクラスメイト数人が脳のスクリーンに映し出された。



*


 あの夏の日、ぼくはマキオを誘って学校の裏手にある森へ遊びに行った。予め決められていた集合場所には、同じクラスでリーダー格の金田タツオとその取り巻きが四、五人集まっていた。

「今日は、靴隠しをしようぜ」

 タツオが提案した。靴隠しとは、かくれんぼの一種である。「鬼」になった子が十数えている間に、鬼以外の「子」たちが自分の靴を片方脱いで、どこかに隠す。鬼は全員の靴を見つけられたら勝ち、というルールだ。タツオは早速、みんなの靴を片方脱がせると地面に横一列に並べた。そして、陽気なメロディを口ずさみはじめた。


 靴隠し ちゅうれんぼ

 橋の下の ネズミが

 草履をくわえて ちゅっちゅくちゅ

 ちゅっちゅくまんじゅう 誰が食た

 誰も食わない わしが食た


 歌いながら、みんなの口を指さしていく。この歌が終わったとき、タツオの指が示した靴の持ち主が「鬼」になるのだ。

「……表の看板、三味線屋。裏からまわって、三軒目。いーち、にーい、さーん」

 タツオの指が、ぴたりと止まった。その先には、マキオの青いスニーカー。

「ようし。今日の鬼はマキオに決定な」

 ぐるりと一同を見回すタツオに、マキオがおどおどした顔を向けている。

「なんだよ、文句あんのかマキオ」

 ぎろり、と鋭い視線がマキオに突き刺さる。色白でひょろりとした少年は、その迫力にびくりと肩を竦ませた。

「あ……だって、この前もぼくが鬼だったし。というか、靴隠しで鬼しかなったことないよ、ぼく」

「んなもん、お前の運が悪いだけだろ。靴の並び順は毎回違うし、それで鬼になるのはお前がツイてないからだ」

 そうだろ? と周囲の同意を求めるように、タツオの視線がメンバーの顔をぐるっと一周する。みな、無言で小さく頷くだけだった。マキオの助けを求めるような目が一瞬ぼくを捉えたけれど、ふいとそっぽを向いて見なかったことにしてしまった。タツオが歌うスピードや指さすタイミングを意図的に操作して、いつもマキオが鬼になるよう仕掛けているのはメンバーには周知の事実であった。マキオだって、それに気づかないほど鈍感じゃない。でも、誰もタツオに逆らえなかった。タツオの機嫌を損ねるようなことをすれば、学校でのイジメの標的がマキオから自分に変わるかもしれないと誰もが恐れていたのだ。

「よし、じゃあマキオはそこの木に顔を向けて十数えろよ。ちょっとでも振り向けば罰ゲームだからな」

 タツオの合図で、ぼくらは一気に駆け出した。「いーち、にーい、さーん」とカウントするマキオの声を耳にしながら、ぼくは片方脱いだ靴を草むらの茂みの中に隠す。靴のつま先をほんの少しだけはみ出させておいた。茂みの奥深くに突っ込んでしまうと、絶対に見つけられないからだ。

 マキオがいる場所に戻ると、すでにタツオや他のメンバーは自分の靴を隠し終えていた。「おせえよ、水原」とタツオに一睨みされる。小さく首を竦めてから、彼の子分一号を自称する男子の隣に並んだ。

「もう、いいかあい」

 おそるおそる、マキオが声を出した。タツオが代表して「もういいぜ」と野太い声を返す。小心者の鬼は、不安そうな顔を左右に回しながら足を踏み出した。

 前回は、タツオが高い木の上によじ登って靴を隠していた。小柄で運動神経もさほどよくないマキオが、そんな場所にある靴を見つけられるはずがない。その前は、タツオの子分の一人が履き古した靴をビニル袋に入れて錘をつけ池に投げ入れた。「お前が見つけないと、こいつが家に帰れねえんだぞ」とタツオがどやしつけ、マキオは下半身をびっしょりぬらして池の中を探していた。結局靴は見つからず、子分は親に新しい靴を買ってもらっていた。

 今回だって、マキオが絶対見つけられないような場所に靴が隠されているはずだ。こっそり隣に目を向けると、タツオと取り巻きたちは互いに目くばせしながらニタニタと笑っている。意地悪を企んでいる顔そのものだ。嫌な予感しかない。

 予感は、嫌なものほどよく当たるという。それは今日も的中した。しばらく森の中をうろうろしていたマキオが、半泣きの顔で戻ってきて「ちょっと」とぼくらを手招きした。

「あんなところにある靴、取れないよ」

 弱々しい声でマキオが指さしたのは、切り立った崖の下にぽつんと置かれた赤いスニーカー。タツオのものだ。置いたというより、放り投げたのだろう。あんな場所に降りて、ロープもなしに登ってこられるわけがない。スポーツ万能のタツオでも無理だ。

「けど、お前があの靴を取ってこなくちゃ俺が帰れねえだろ。早く行ってこいよ。ちょっと回り道をすりゃ、案外簡単に下へ降りられるかもしれないだろ」

 タツオは悪びれもせず指示する。靴が戻ってこなかったらお前の責任だからな、と言外に含ませているようだ。マキオは唇をきゅっと結び、黙って右手へと歩き出した。タツオの背後で、取り巻きたちがクスクスと忍び笑いをしている。ぼくはただ、小さくなるマキオの背中を見送ることしかできなかった。



 結局、崖下へ行くにはタツオたちが待っている場所から直線上に降りていくのが一番の近道だとわかった。さすがにロープや命綱なしに崖を下るのは危険だと判断はついたから、太い木の枝で即席の縄を手作りして、それを崖の下へ垂らす。マキオがそれを伝いながらのろのろと崖底へ向かった。タツオの子分の中に、サバイバル知識に妙に詳しい奴がいて助かった。

 それでも、マキオが赤スニーカーのもとへたどり着くまでに三十分以上はかかっただろうか。太陽は西に傾き、数羽の烏が頭上でやかましく啼いている。「お前ら早く家へ帰れ」とでも云いたげに。

 マキオが赤いスニーカーを手にしたとき、何を考えたのか崖の上にいたタツオが履いていたもう片方の靴を脱いで、崖底めがけて「それっ」と投下した。スニーカーは、マキオが立っている位置から数メートル離れた草むらの中にガサッと音を立てて落下した。あっ、とマキオが声をあげる。

「あ、悪い悪い。うっかり手が滑ってもう片方の靴も落としちまった」

 タツオが、わざとらしい声で叫ぶ。その後ろで、取り巻きたちが「あーあ」と小さい溜息をもらした。

「すまねえな、マキオ。俺のもう片方の靴も探してくれねえか。ほら、そこの茂みに落ちたはずだから」

 マキオが首を傾けぼくたちを見上げているが、逆光になってその表情はいま一つ読み取れない。やがて、ふらふらとした足取りで草むらに向かって歩き出す。そのとき、タツオがぼくたちを振り向いて小声で耳打ちした。

「おい、今のうちずらかろうぜ」

「え、さすがにそれはヤバイって」

 取り巻きの一人が、眉を八の字に寄せる。ほかの奴らも顔を見合わせながら、

「マキオ一人じゃ、上まで登ってこられないし」

「命綱、誰が支えとくんだよ」

 口々に云い合っている。タツオは例の凄みをきかせた目つきで子分たちを黙らせると、

「命綱はこの杭で地面に埋め込めばいいんだよ。お前らだって、夜は塾とかスイミングとかあるだろ。間に合わなくて怒られてもいいのかよ」

 どこから見つけたのか、タツオは錆びた杭を右手に握りしめていた。子分たちは「でも」と云ったきり、口を閉ざす。強面の大将はぼくらの答えを待たず、木の枝で編んだロープを杭で地面に固定させた。握り拳ほどの大きさの石で杭をカンカンと叩く手つきは慣れたもので、大工の息子らしく様になっていた。

「これでオーケー。ほら、さっさと行くぞ」

 タツオは学校へ出る道を顎で示す。取り巻きたちは、後ろ髪を引かれるように何度も崖のほうに目を向けていたけれど、やがてわき目もふらず帰り道をずんずん進んでいった。最後尾にいたぼくは二、三度立ち止まって後ろを振り返ったけれど、マキオの声も聞こえなければその姿が現れることもない。そのうち、ぼくは森から学校、そして家まで続く道を猛スピードで駆け抜けていた。一瞬でも背後に顔を向ければ、正体不明の怪物に肩を掴まれ森の奥へ引きずり込まれるのではないか――家の玄関を開けるまで、そんな妄想がずっとぼくの頭の中を支配していた。


*


 あの日以来、ぼくらはマキオの姿を見ていない。ぼくらだけじゃなく、マキオの家族も、クラスメイトも担任も、誰も村田マキオを目撃していないのだ。マキオはあの日から一年経った今も、捜索願いが出されたまま行方知らずとなっている――はずだった。

 そのマキオが、幽霊になってぼくに会いに来た。そして、「一緒に靴を探してほしい」とぼくに頼んでいる。まるでホラー小説だ。にわかには信じがたい話である。

『ぼくだけじゃ見つけられないんだ。ねえ、一緒に探してよサトシくん』

 甘えるような声は、まだ子ども特有のあどけなさが残っている。五年生になってから急に背が伸びたり顔つきが男らしくなったクラスメイトもいるけれど、マキオは一年前から時が止まってしまったかのように、ひょろりとした身体に男とも女ともつかない中性的な顔立ちのままだ。そんな彼と対峙しながら、ぼくは喉に詰まった異物を吐き出すように告げる。

「探してと云ったって、無理だよ。だってぼく――不登校なんだから」

 夏休みが明けマキオが姿を消してから五年生に進級するまで、ぼくはタツオたちにいじめられていた。学年が上がってやっと地獄の日々から抜け出せると思っていたのに、新しいクラスの顔ぶれにはタツオの取り巻きの一人がいた。そいつの顔を見るだけで、四年生の半年で味わった苦痛のさまざまが呼び起され、またマキオのことも脳裏をよぎる。ぼくの足は次第に学校から遠ざかり、やがて自分の部屋から一歩も出ないようになってしまった。

「ぼく、今は学校どころかこの部屋から一歩も外に出ていないんだ。だから、靴を探しに行くなんて無理だよ。悪いけれど」

 首を横に振って、マキオを見返す。不思議なことに、目の前の少年はにっこり笑っていた。そんなこと問題ない、とでもいうように。

『大丈夫だよ。夜にこっそり家を抜け出して、森へ行けばいいんだ』

「夜に家を出るなんて、できないよ。ぼくの家古いから、玄関の戸を開けると音が家中に響くんだ。父さんも母さんも絶対に目が覚めるよ」

 父さんが仕事で帰りが夜中になった次の日の朝、母さんが決まって不機嫌なのは安眠を邪魔されるせいだ。父さんは「万一泥棒が侵入したときは一発で判る」と妙な主張をしているが、単にお金がなくて改築費が出せないだけだろう。

『玄関から出る必要なんてないよ。ここから外へ出られるんだから』

 ここから、と云ってマキオは窓を指で示した。あまりに自然な流れだったから、思わず頷きかけてから全力で頭を左右に振った。

「何いってんだよ。窓から飛び降りろっていうのか? 自殺行為だよ、そんなの無茶苦茶だ」

『心配しないで。ぼくと一緒なら大丈夫だから』

 マキオの白い右手が、ぼくの前に差し出される。手を掴め、ということらしい。少女を夢の国に誘うピーターパンさながらだが、マキオの言葉はぼくを死の国へ誘おうとしているとしか思えない。

 それなのに、ぼくの体はぼくの意思とは無関係に動き出し、気が付けばマキオに腕を握られて窓に近づいていた。「嫌だ、やめろ」と抵抗したいのに、口に綿を詰められたかのように声が出せない。マキオの身体の半分が、窓と壁をにゅるりと通る。そのまま、マキオの腕だけが壁から突き出た形になった。はたから見れば、壁から生えた腕がぼくを壁に引きずり入れようとしている構図だ。

 せめてもの意思表示に、ぼくは腕を引っ張って足を力いっぱい踏ん張った。けれど、マキオの痩せた身体のどこにそんな力があるのか――あるいは幽霊はみな怪力なのか――マキオの腕はあっという間に壁に吸い込まれ、マキオに掴まれたぼくの腕も薄汚れた壁の中にずるずると入っていく。自分の腕が壁と一体化しているという、あまりに非現実的な光景に頭がクラクラした。やがて身体が完全に壁の中へ吸い込まれたときには、ぼくの意識はどこか彼方の世界へ飛んでいた。



 ふっと目を開けると、ぼくは森の中にいた。はじめは薄闇ばかりが目の前に広がっていたが、やがて両目が夜闇に慣れてくる。相変わらずぼんやり発光しているマキオが光源になっているおかげで、視界はクリアだ。

「あれ――ここって」

 呟いた途端、忌まわしい記憶が脳裏に蘇る。マキオが消息を絶つ直前、タツオたちと靴隠しをしたあの場所だった。生ぬるい風が木々を揺らし、ザワザワと不気味な音を立てている。これでふくろうでも鳴けば、外国の恐怖映画のオープニングを完全再現できるだろう。

『懐かしいでしょ』

 マキオが本当に懐かしそうにしみじみ云うものだから、つい「そうだね」と返してしまう。とうとう逆らえずにここまで来てしまったが、ぼくはもうすぐマキオに殺されるのではないだろうか――そんな恐ろしい想像が頭の隅を掠めた。ホラー映画によくありがちな展開だ。いじめられた被害者が、いじめた加害者に復讐をする。マキオは幽霊なのだから、武器や拳が通じる相手ではない。つまり、どんなに闘ったところでぼくに勝ち目はないわけだ。

 ぼくは死ぬのかもしれない、という恐怖に襲われる一方で、ぼくは死ぬべき人間なのかもしれないとも思った。今のぼくは、学校にも行かず部屋でだらだら過ごしているだけのダメ人間だ。こんなぼくに、生きている価値などない。だから、死神が早く迎えにきたのだ。あるいは、これはマキオを見捨てたぼくへの罰なのか。悪い行いは一周していつか自身に跳ね返ってくる、と道徳の学習で先生から教えられた。その学びは結局生かされなかったわけだけれど。

『ほら、サトシくん。こっちだよ』

 ぼくの思考は、マキオの呼び声に破られた。生白い腕が手招きをしている。今のぼくは、マキオの意思に操られるロボットそのものだ。足が勝手に反応し、マキオがいる場所までのろのろ進む。

『ほら、あそこ。あそこでタツオくんの靴を探しているとき、ぼくも靴をなくしてしまったんだ』

 崖っぷちから下をのぞきこむマキオ。ぼくは中腰になり、彼の背中から顔を突き出した。崖底には真っ暗闇が横たわり、昼間であれば見えるはずの茂みも地面もなく漆黒に包まれていた。飲み込まれそうなほどに深い闇は、地獄への入り口を連想させる。

『ねえ、あそこに降りて、一緒にぼくの靴を探してよ』

 ちょっとそこの机から消しゴムを取ってよ、とでも頼むような口ぶりだ。普通の精神状態なら、底なしの崖に自分から足を踏み入れることは決してしないのだけれど、今のぼくはマキオの言いなりだった。家を抜け出したときのように、彼に手を引っ張られながら切り立った岩面を下っていく。

 地面に降り立ったとき、茂みを揺するようなガサガサッという音がした。続いて、種類不明の獣のような唸り声。びくりと肩を竦ませたが、よく考えればここは森の中だ。野生動物くらいわんさかいるだろう。と同時に、マキオはぼくを獰猛な獣の餌食にするつもりではないか、という新たな想像が頭をよぎった。靴を探すふりをしながら、隙を見てぼくを崖底に置き去りにするのだ。一年前の夏、ぼくらがマキオにそうしたように。

 地面を手探りしながら、ぼくはマキオから目を離さないように注意を払った。幸いというべきか、マキオの身体は白く発光しているため、姿を消そうとすればすぐ異変に気付くはずだ。今のところ、マキオがぼくから離れる様子はない。タツオの靴が放りこまれた茂みの中に分け入って、「ない、ない」とぶつぶつ呟いている。

『もしかすると、動物が靴を地面に埋めたのかも』

 ふと、マキオがもらした。それは考えられることだった。餌や収穫物を土に埋める習性は、多くの動物に備わっている。野良犬か野ウサギかが靴を見つけ、穴を掘って埋めた可能性は大いにあった。

『サトシくん。地面を掘るの手伝ってよ』

 茂みの近くの地面を指さして、マキオが云う。

「掘るっていっても、シャベルもスコップもないのに」

『手を使えばいいよ。二人なら何とかできるって』

 宝探しをする冒険家のように、にこにこと無邪気な笑みを浮かべるマキオ。掘り出されるのが金貨や伝説の宝物ならやる気も湧くが、おそらく出土するのは古びた靴か、あるいはもっと悪いものかもしれない。それでも、ぼくはマキオのなすがままになって二人で土の中に手を突っ込んだ。マキオはすくった土を背後に払いながら、犬のような器用さで深い穴をつくっていく。幽霊なら手や服が汚れることなど気にする必要もない。ぼくはのろのろとしたスピードで、地面に浅い穴をあけていった。

 どのくらいの時間が経っただろう。掘った穴の深さが腕の付け根ほどまで達したとき、初めて枯葉や虫以外の物が目に飛び込んできた。それは、身に覚えのあるスニーカーだった。

「あった、あったよマキオ! ほら、このく――」

 云いかけて、手を止める。たしかにそれは、よく見たことのある靴だ。だが、掘り出したのは靴だけではなく、靴を履いた()()()()だった。

 背筋を悪寒が走った。だがなぜだろう。ここで手を止めてはいけない気がした。ゆっくりと土をかき出し、足以外の部分が徐々に顕わになっていく。土まみれになった膝、半ズボン、半袖のシャツ、二本の手。そして――

『やっと、見つかったね』

 頭上で、マキオの声がほっとしたように云う。そう、やっと見つかった。ここにいたのか、今までずっと――

 黒い土の中から現れたのは、()()()()()()()()



『やっと見つかったね、サトシくん』

 振り返ると、マキオが今にも泣きそうな顔でぼくを見下ろしていた。ぼくは口をぽかんと開けたまま、涙に濡れた目を見返す。

「どうして……どうしてぼくがこんなところに」

『どうしてって。だって、サトシくん()()()()()()()

 絞り出すように、マキオは云った。地面に両膝をつく体勢で、ぼくの隣に坐りこむ。

『六月に入ってすぐだったかな。サトシくん、一人でここに来たんだよ。道端で摘んだ花で、小さな花束をつくって』

 ぽつぽつと、独り言のようにマキオが話し出す。

『きみは、きっと直感的に判っていたんだね。ぼくが死んでしまったのだと。だから、ぼくを弔いに来たんだ』

 そう、ぼくは漠然とだが察していた。マキオはもう、二度とぼくらのもとには戻ってこないと。この世界から、永遠にいなくなってしまったのだと。

『ここにやって来たきみは、ぼくにいろいろ話してくれたんだ。一年前、ぼくを置いて帰ったことを、きみはずっとずっと悔やんでいた。罪悪感に押しつぶされそうで、とうとう学校にも行けなくなったことも打ち明けてくれたね』

 マキオは、ぼくの死体に向かって静かに語りかけている。その横顔には、恨みや憎しみの色は一切ない。ただ、優しい微笑みがそこにあった。

『きみは、地面に寝そべってずっとぼくに話しかけてくれた。嬉しかったなあ。学校では、タツオくんやクラスメイトの目があるからぼくに話しかけるのが恐かったんだって云ってた。わかってたよ、だから、ぼくはきみを恨んでなんかいない。あの日、タツオくんの指示に従ってぼくを置き去りにしたことも』

 ふう、と小さな吐息がもれる。

『きみも、辛かったんだよね。だから、ここで死ぬことを決めた』

 そう、ぼくは()()()()()()。マキオを見殺しにした罪の十字架を抱えたまま、生き続けることなどできなかったから。

『サトシくん――もう、いいんじゃないかな。きみがあの部屋に居る限り、きみの家族はきみがいつか戻ってくると信じて待ち続けることになる。残酷なことだと思わないかい?』

 そうかもしれない。ぼくが成仏しないままあの部屋に残れば、父さんは「いつかサトシが帰ってくるかもしれない。そのときすぐに音で判るように」といって玄関の古い扉を修理しないままだろう。母さんは「サトシはこの部屋にいるのよ。だってごはんのお盆の位置がいつも少しずれているから」といって、ぼくの部屋の前に食事がのったお盆を運び続けるだろう。息子がすでにこの世にいないことなど知りもしないまま、その帰りをいつまでも心待ちにしているかもしれない。

『だから、もうかくれんぼは終わりにしよう。早くみんなに、サトシくんを見つけてもらおう』

 ポト、ポト――と、頬に雫が打ち付けた。夏の雨が、霧のようにサアッと森を包み込む。ぼくの体にも、無数の雨粒が容赦なく降り注がれる。土まみれになった子どもの死体をきれいに洗い流すように。


『サトシくん、みいつけた――』


 いつかの夏の日、マキオと二人でかくれんぼをしたことを思い出した。ぼくがこの世に残した後悔といえば、もうマキオと二人でかくれんぼができなくなったことくらいだった。



 小学校の裏手にある森へ山菜採りに入った老夫婦が、崖の下に子どもの死体を発見した。地中に埋まっていた死体が数日前の雨によって顕わになったのだろう、と警察は発表している。なお、発見された死体は子ども二人で、森に面した小学校に通う男の子だと判明。うち一人の村田真希生(むらたまきお)は、去年から行方不明者として捜索願が出されていた少年で、もう一人の水原聡(みずはらさとし)は村田真希生のかつてのクラスメイトだった。両者の体に争ったり獣に襲われたりした痕跡はない。警察は、山へ遊びに入った際に足を滑らせるなどして崖下に転落したのではないかとの見方をしているが、事故と事件の両面から慎重に捜査を進めているという。


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[良い点] ∀・)やられました。反転の効いたホラーにしてドラマでしたね。これはかなり読者心が掴まれます。迷うことなくレビューも書かせて頂きました。 [気になる点] ∀・)「靴隠し」ね。こういう遊び、小…
[一言] 素敵なホラーだなぁと思いました。 いじめ問題のホラーって因果応報になりがちなのですが、許してあげられる優しさが文章から感じられ、気持ちがやすらぎました。 本当にいい子たちがいなくなって悲しい…
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