アリス鏡
コツコツ、と誰かが板張りの床を木底の靴で歩く音がした。
真っ暗闇の中で耳を澄ましていると、軋む扉の音が響いて、目の間で何かが光って目を刺激する。光に手を伸ばすと、指先に冷たい感触と滑らないガラスの冷たさが広がっていて、扉から入ってくる光で私の手がくっきりと映り込んでいた。それでようやく、それが鏡なんだな、って分かった。
これは鏡さん、鏡さんなのね、と叩いていると、鏡の中で扉から誰か入ってくるようだった。
その子は、アリスと同じ格好をした女の子だった。
私と同い年位。ううん、全く同じ。格好だって一緒だし、鏡で見ても背は一緒。髪の色も、顔色だって一緒。
不思議、まるで鏡みたい。
「鏡だからかしら。不思議がいっぱいね。――ねえ、あなたはだあれ?」
目の前の私以外の少女に声をかけると、目の前の子はきょろきょろと辺りを見渡した後、こちらを見て、そこに初めて人が居ることに気が付いたと言った様子で近づいてきてくれる。
こちらの事を覗き込むと、
「私? 私はアリスよ」
と答えてくれた。
でも、不思議だわ。この子の名前はアリスっていうのね。
「あら、あなたがアリスなの?」
「ええ、私がアリスよ」
彼女はそう言って、ガラスの向こうでふふんと控えめなお胸を張った。でも、あの大きさだったらもしかしたら私の方が大きいかもしれないわ。
でも、この子が私と同じ恰好でアリスと名乗るなんておかしいわ。
だって、アリスは私なんだもの。
アリスはアリスだもの。
「それは可笑しいわ」
「どうして?」
「だって私がアリスだもの」
「私はアリスよ」
「ええ、あなたはアリスだわ。でも私もアリスだもの」
「アリスが二人いるの?」
「いいえ、アリスは一人よ」
「なら、あなたはアリスではないわ」
「いいえ、アリスの一人よ」
「アリスの一人なのにアリスは一人なの?」
「ええ、アリスは私。私はアリスならあなたはアリスじゃないわ」
「言っていることことがおかしいわ、アリス」
「いいえ、おかしくないわ、アリス」
「どうして?」
「だって、私がアリスだもの」
「それなら、私はアリスではないの?」
「いいえ、アリス。あなたは確かにアリスだわ。でも、残念ね、アリス。私がアリスなの」
「馬鹿言わないで。だったら私はアリスじゃないの?」
「いいえ。アリスよ。だって――」
「だって?」
言い合いには満足したし、そろそろ大丈夫かしら。
鏡の中で不思議そうな顔をしているアリスに鏡越しに触れる。瞬間、私が触れた場所から鏡さんが溶けるようにひび割れながら剥がれ、ポロポロと崩れ始める。
困惑する鏡さんの中のアリスの表情を見送りながら、アリスが鏡さんから離れると、シャーンという音とともに鏡さんは砕け散ってしまった。
「やっぱりアリスはアリスだわ。アリスになろうなんてずっとずっとはやいんだから」
私がそう笑いかけ、背後で軋む音が聞こえてくる。音に振り返ると、そこには誰もいない。真っ暗な部屋の中に光が差し込み、先ほどの扉が開いてくれていた。
その先には出口なのかしら。それとも入口なのかしら。別の場所に通じているらしい扉が出来上がっていた。
よかった。アリスが私の元に来てくれたおかげで、私は外に出ることが出来る。鏡の中のアリスには感謝をしなくちゃ。
スキップをしてしまいそうな気分で鏡から離れ、ノブに手をかけたところでああ、と思いだす。
「戻ってきてくれて、ありがとう。私に成るのは楽しかった?」
振り返ると、そこには真っ暗闇が広がっていて、光を受けて輝いている鏡さんがひとつ。
私はそれに微笑んで、扉に身を滑り込ませると、光が散らばった鏡さんで反射するのが面白くてゆっくりと観察しながら閉じた。
鏡の前に、アリスと同じ服を散らかしたまま。