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第九話 扇綾香の企み


 萱愛先生が教室を出た後、蓬莱くんも静かに自分の席に戻り、鞄に荷物を入れて帰り支度を始めた。私もそれを見届けて、自分の席に戻る。

 結局、私たちはお互いに謝らなかったが、蓬莱くんが萱愛先生に反抗したのは意外だった。記憶を失ってからというもの、私を含めた他人に流されてばかりだった彼が、自分の意志というものを確立し始めたのだ。これは良い傾向だと思う。

 それだけではない。今日の昼休み、彼は初めて私に反撃しようとした。私の腕を掴み、握りつぶそうとしていた。そう、本来彼がすべき行動はそれなのだ。

 だけど、どうやらまだ足りないようだ。彼もまだ、自分がどうすればいいのか決めかねているフシがある。まだあと一押しが足りないのかもしれない。私への復讐を始めるには、まだ彼の憎しみが足りない。


 この私、扇綾香への憎しみが足りない。


 私はあの日のことを思い出す。そう、蓬莱くんが私への憎しみを自覚したあの下駄箱での出来事を。


 ※※※


 赤尾さんが蓬莱くんに、『自分の記憶を奪ったのは扇綾香』という事実を伝え、蓬莱くんが自分の欲望を自覚した時、下駄箱の陰に隠れていた私は、昇降口から暗くなった校庭に歩いて行く彼の姿を見届けていた。どうやら赤尾さんは上手くやってくれたようだ。おかげで彼は、生きる目的を見つけた。


 私への憎しみを、抱いてくれた。


「やっぱり、絶好のタイミングだったようですね」


 私は赤尾さんの前に姿を現し、声をかける。彼女はまだ気まずそうに顔を伏せていたが、左手で毛先をつまんだ後に、顔を上げた。


「……本当に、これで君は後悔しないのかい? 扇綾香」


 名前を呼ばれた私は、決意を揺るがせないように自分の銀色に染まった髪を見る。うん、大丈夫だ。私はもう、かつての何もできなかった私ではない。いや、既に私は人間ではない。彼の――蓬莱くんの生きる糧となるための、ただの道具だ。


「もちろんですよ、赤尾さん。これが最良の選択に決まっているじゃないですか」


 私に本性というものがあるとすれば、おそらくはこちらの方だろう。そう、彼の前でこちらの側面を見せてはいけない。私は彼が憎むべき理想的な敵役を演じなければならない。そうでないと、彼はまた生きる目的を失ってしまう。


「だけどねぇ、私としても蓬莱くんを騙すのは気が引けるんだよぉ。こうすることで、結果的には蓬莱くんは記憶を取り戻せなくなるかもしれないからねぇ。だってそうだろう?」


 赤尾さんは顔を引きつらせる。


「さっき私が蓬莱くんに言った真実は、全てウソなんだから」


 ……どうやらこの人も、彼を騙していることへの罪悪感があるらしい。尤もそれは私も同じだが、あんな真実を彼が思い出すくらいなら、騙してしまう方がよほどマシだ。


「全てがウソというわけではないですよ。あなたもあの現場を見ていたじゃないですか。だからあなたは私に協力している。そうでしょう?」

「確かにそうだねぇ。ああなった以上、私には君に協力する義務があるよぉ。だけどねぇ、君に共感はできないんだよねぇ」

「それで構いませんよ。共感なんて、求めていませんから」


 私が予想以上にきっぱり言ったからか、赤尾さんは口をつぐむ。だけど私は誰にも理解されるつもりなんてない、彼が記憶を取り戻さずに、元気に生きていればそれでいい。

 そう、彼は今、自分の記憶を取り戻すことよりも、私への復讐を優先するだろう。そのために私はこの一ヶ月もの間、彼を虐げてきたのだ。彼が私を憎みやすくなるように。

 彼に暴力を振るうのは、本当に苦痛だった。そもそも私は、二学期になるまで他人に暴力を振るったことなどなかった。彼が私の下僕などというのも真っ赤なウソだ。だけどそれも私の目的のためには必要なことだった。

 クラスメイトたちも、私の暴力を黙認していた。それはそうだろう、彼らは『あのこと』をクラス一丸となって隠していたのだ。『あのこと』が萱愛先生にバレれば、また面倒なことになるだろう。それを隠していたのだから、今回の私の暴力も、これから彼が行うであろう私への復讐も、見て見ぬ振りをしてもらわないと困る。


「扇綾香、君はこれから、どうするつもりかなぁ?」


 赤尾さんは私に質問してくる。そんなこと、決まっているじゃないか。


「当然、彼の復讐を受け入れますよ。そうすれば、彼は当分、生きる気力を失わなくて済む」

「だけどねぇ、私としては、君と蓬莱くんの両方を救いたいんだよねぇ。だって君は……」


 赤尾さんが言葉を続けようとしたところで、私は足で思い切り地面を叩く。


「……っ!」


 その音に驚いたのか、彼女もそれ以上言葉を発することはなかった。


「言いましたよね、赤尾さん? 私に協力すると。あなたは私の言うとおりに動いて、蓬莱くんが救われるのを見届けてくれればいいのです」

「……わかったよぉ」


 赤尾さんもこれ以上私に抗議するつもりがなくなったのか、大人しく引き下がった。

 そう、私の目的は蓬莱くんが記憶を取り戻さないこと。そして記憶を失ったまま、私を憎んで生きる活力を取り戻してくれることだ。そうでないと、私は私自身を許せないし、蓬莱くんも自分を責めなくて済む。

 これでよかったのだ。あの歪んだクラスにおいて、これこそが正しい選択なのだ。蓬莱くんは瀧秀輝のことなど忘れてくれればいいし、私のことを存分に憎んでくれればいい。


 それこそが、彼に救われ、彼の記憶を奪ってしまった扇綾香の存在意義なのだから。


 ※※※


 あの日のことを思い返し、改めて私は決意する。

 そう、私はあの時の生きる活力を取り戻した蓬莱くんに戻ってもらいたい。そして私自身へ憎しみをぶつけることで、何も思い出さずに、何も心配せずに、存分に私を蹂躙してほしい。それこそが私の目的だ。


 そう考えていると、蓬莱くんは足早に教室を出ようとする。だけど彼を呼び止める声があった。


「やあ、蓬莱くん。君のクラス、すごくホームルームが長いんだねぇ」

「赤尾さん……」


 その手に豆乳飲料を持った赤尾さんが蓬莱くんを呼び止めていた。確かに彼女には、『蓬莱くんの彼女役』を務めてもらわないといけない。そうなれば彼を出迎えるのは当然のことだ。


「あの、もしかして一緒に帰ろうと待っていてくれてたんですか?」

「当然だよねぇ。君には実感ないだろうけど、私は君の彼女だからねぇ」


 ……どうやら順調に『彼女役』をこなしてくれているようだ。だけど私としても、彼女と情報交換をしたい。ここは少し動くか。


「ちょっと、蓬莱。なんでこんなヤツと話しているのよ」

「扇さん……」


 二人の会話に割り込み、文句をつけるフリをする。


「赤尾、アンタまだ蓬莱と仲良くしてるの? こんなのと付き合うなんて、アンタも物好きだよね」

「はは、言ってくれるねぇ扇綾香。だけど私が誰と付き合おうが勝手なんだから、放っておいてくれるかなぁ?」


 先日、赤尾さんは『蓬莱くんの記憶を奪ったのは扇綾香』という真実を蓬莱くんに伝えた。そして『彼女役』である赤尾さんは私と敵対している方が自然だ。

 にらみ合う私たちの横で、蓬莱くんはどうしたものかと思っているのか、様子を見ている。


「蓬莱くん、ちょっと遅くなりそうだから、先に帰っててくれるかなぁ?」

「で、でも……」

「大丈夫だよぉ。すぐに追いつくからさぁ」

「……わかりました」


 納得したのか、蓬莱くんは荷物を持って教室を出て行った。彼の姿が完全に消えたのを確認し、一息つく。


「……申し訳ありません、赤尾さん」

「別にいいよぉ。蓬莱くんを騙すのに比べたら、自分が罵倒される方が何倍も気が楽だからねぇ」


 赤尾さんは豆乳飲料を飲みつつも、私のことをジロリと見る。どうやら彼女はやはり、私の計画には共感していないようだ。まあそんなことには関係なく、協力はしてもらうが。


「ですが赤尾さん、事態は少しずつ私の予定通りに進んでいるようです。蓬莱くんが私に反撃を試みましたからね」

「そうかい? ならこちらは少し悪い知らせがあるよぉ。朝、蓬莱くんが萱愛先生と話していたんだけどねぇ、記憶を失う前の自分について聞き出そうとしていたよぉ」

「そうですか……」


 しかし、それくらいは想定内だ。萱愛先生に聞いたところで、あの先生に生徒の本質が見えるわけがない。つまり、何も得られなかっただろう。


「それとねぇ、萱愛先生なんだけど……蓬莱くんに瀧くんのことも教えようとしていたよぉ」

「……なんですって?」

「彼が瀧くんのことを詳しく知る前に、萱愛先生が逆上したけどねぇ」

「……」


 それは少しまずいかもしれない。萱愛先生が瀧秀輝の本質を知っているわけがないが、もし蓬莱くんが瀧秀輝が自分の記憶に関わっていると考えたらまずい。それだけは阻止しないといけない。


「どちらにしろ、蓬莱くんはもう少しで私への憎しみを抱くと思うんです。少しやり方を変えてみましょうか」

「んん? どうしようというのかなぁ?」

「そうですね……今回は赤尾さん、あなたにも動いてもらいましょうか」


 そして赤尾さんに、私が考えた計画を伝える。


「……私にそんなことをしろというのかい?」

「言ったはずです、あなたは私に協力してくれればいいと。あなたも賛同してくれたはずですが?」

「……わかったよぉ」


 そう言いながらも、赤尾さんは手に持った豆乳飲料のパックを握りつぶす。中身は入っていなかったが、彼女の不満の方は溜まっていそうだった。

 だけどそんなことは関係ない。赤尾さんは私の計画に協力せざるを得ない。彼女の罪悪感を利用する形にはなっているが、これも蓬莱くんがこれからも何も気兼ねなく生きるためなのだ。


「それじゃあ、私は蓬莱くんが待っているから、もう行くよぉ。だけど扇綾香。君の考えに共感するのは、多分一生無理だと、今わかったよぉ」

「そうですか。ですがそれは今に始まったことではありません。だって……」


 私は一瞬目を閉じて、言い放つ。


「私に手を差し伸べてくれたのは、蓬莱くんだけでしたから」

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