第一話 銀髪の少女
みんなにとって、高校とはどういう場所だろうか?
もしかしたら、単なる通過点に過ぎないのかもしれないし、一生の思い出として残る場所かもしれないし、高校にいるときが一番幸せな人もいるかもしれない。
だけど今の僕にとっては、高校とは逃れられない牢獄のような場所だった。
「……らい、ほうらい、蓬莱!」
「はっ、はい!」
考え事をしていたら、目の前の相手が呼んでいるのに、返事をするのが遅れてしまった。これはまずい。
だが後悔した時にはもう遅かった。目の前の彼女は、不機嫌そうに僕を睨む。
「……私の呼びかけを無視するとは、いい度胸してるじゃない。そんなに私に殴られたい?」
「い、いや、そんなことは……あぐっ!」
否定しようとした直後、彼女の平手が僕の頬に叩きつけられた。
「あのさぁ、私も暇じゃないわけ。アンタがキビキビ動かないと、次の授業に遅れちゃうでしょ? わかる?」
「……はい」
そう言われて、僕は次の移動教室の授業に持って行く荷物を持てと言われていたことを思い出した。
「それとも何? アンタさっき言われたことすら忘れちゃうの? 『記憶喪失』しちゃうの?」
「そ、そんなことはないです……」
「ふん、なら持って行ってよ。私はちょっと用事があるから、ちゃんと持って行くのよ」
「……はい」
そう言って、彼女はその長い銀髪を靡かせて、教室を出て行った。教室には何人ものクラスメイトがいたが、誰も彼女に抗議する人はいなかった。誰も僕を助けようとした人はいなかった。
そう、この僕――蓬莱 実嵯人は、この学校において、間違いなく牢獄に囚われた弱者だった。
僕は今、高校一年生なのだそうだ。両親から聞いた話では。
だけど僕に『その記憶』はない。というか僕には、今年の夏休みより前の記憶が全くない。そう、僕は俗に言う、『記憶喪失』になってしまったそうなのだ。
僕の最初の記憶は、病院のベッドの上だった。両親(もちろんその時はそうだとはわからなかった)が心配そうに僕を覗き込んでいたのを覚えている。
だけどそれ以前のことになると、全く思い出せない。一応、計算の仕方とか、文字の読み方とかの記憶はあるのだが、自分がどういう人間だったかの記憶は全くない。
聞いた話によると、僕は一学期の終業式の日に、学校の階段から落ちて頭を打った際に、記憶を失ったらしい。そして夏休みの間は、入院生活を送りながら、失われた記憶を取り戻すための治療を受けていた(頭の傷は幸いにも大したことはなかった)。
しかし僕の記憶は戻ることはなく、入院中にクラスメイトらしき人たちがお見舞いにくることもあったが、その人たちの顔も全く覚えていなかった。しかしそのクラスメイトたちが、どこか義務的にお見舞いに来ている雰囲気から察するに、僕の人気はそこまで高くなかったのだろう。
そして僕は記憶が戻らないまま、二学期を迎えることになった。本来、学校に来るのは久しぶりのことなのだが、記憶を失った僕にとっては、初めて来る場所だ。着慣れているはずの制服も、どこか似合っていないように感じられた。
そんなことを思いながら、僕は自分のクラスであると聞かされた教室に入った。教室を見ても、僕の記憶が戻ることはなかった。周りのクラスメイトも、僕を見て遠巻きに観察するようにしている。まるでテレビで見た、動物園の動物を見ている人たちのようだった。
だけどその数分後、一人の女の子が教室に入ってきた。そしてクラスメイトたちの視線が、一斉に僕からその女の子に移った。
当然だろう、なにせ彼女は、その長い髪を銀色に染めていたのだから。
その女の子は、少し大きめのつり目と、頭に乗せたカチューシャも特徴的だった。しかしそれ以上に、その先端で結んだ長い銀髪が彼女の最大の特徴であり、他の要素を全て打ち消していた。なんだろう、彼女は美人ではあるのに、どうしてもその銀髪だけが異質にしか見えない。
他のクラスメイトも、驚いた顔で彼女を見ている。どうやらあの髪は、以前から銀色だったわけではなさそうだった。
「あ、あの、もしかして、扇さん?」
一人の女子が、銀髪の女の子に話しかける。確かにクラス名簿には、扇 綾香という名前があった。だけどクラスの集合写真には、あんな銀髪の生徒はいなかったはずだ。やはり夏休みの間に染めたのだろう。
「ん? そうだよ。何か文句ある?」
「え!? い、いや、別に……」
あまりにも毅然とした態度で突き返され、声をかけた女子も気まずそうに席に戻った。今やクラスの注目は、完全に扇さんに向かっている。
だけどそんな彼女はその視線にまるで動じず、つかつかと歩いてきた。そう、僕の席の前に。
そして扇さんは……
「うわっ!?」
僕の机にその右手を思い切り叩きつけた。
「あ、あの、何でしょうか……?」
思いもよらない行動に、僕は完全に萎縮してしまった。どうしていいかわからないうちに、扇さんは顔を近づけてくる。
「蓬莱実嵯人……」
「は、はい?」
「ちょっと来なさい」
「え? うわっ、ちょっと!」
そして僕は扇さんに腕を掴まれ、教室の外まで連れて行かれた。
「あの、なんなんですか……?」
突然の事態にわけがわからず、頭が混乱している。でも、もしかしたら扇さんは記憶を失う前の僕と親しかったのかもしれない。だけどこの人が僕の見舞いに来た覚えは無い。
「蓬莱実嵯人、アンタに二つ質問するわ」
「は、はい」
「アンタ、本当に何も覚えてないの?」
「……」
この質問に、どう答えればいいのだろう。
扇さんが記憶を失う前の僕とどういう関係だったのかは知らない。もしかしたら、とても大切な約束をしていたとか、とても失礼なことをしてしまったとか、どちらの可能性もある。それなのに『僕は何も覚えていません』と答えるのは、あまりにも失礼だということはわかる。
だけどやっぱり、僕は何も思い出せないし、今の僕は何も知らないのだ。だから……
「すみません、何も覚えていません」
こう答える他なかった。だって覚えていないのだから。
「そう、なら二つ目の質問」
「はい」
「瀧 秀輝について覚えていることはある?」
「……!」
瀧秀輝。
話によると、僕はその人と一緒に倒れているのを発見されたらしい。状況から考えて、一緒に階段から落ちたのだろうと言われている。
だけど瀧くんは、頭を強く打って、その命を落としてしまった。
瀧くんについて知っていることはある。僕と同じクラスの男子生徒で、スポーツ万能。身長も高く、顔も良かったので、人気者だったそうだ。
一方で、瀧くんについて、『覚えていること』は何一つ無い。
もちろん僕も、最悪の可能性を考えたことはある。瀧くんは、僕を助けようとして、命を落としてしまったのかもしれないと。だけどその時の目撃者は誰一人いないそうだし、何を考えても、推測の域を出なかった。
もしかして、扇さんは瀧くんと親しかったのかもしれない。そして瀧くんの命を奪ってしまった僕のことを恨んでいるのかもしれない。そうだとしたら僕は……
「扇さん」
「ん?」
「謝って済むことではないのはわかっています。だけど僕のせいで瀧くんが死んでしまったことを恨んでいるなら、僕は償いをします。本当に、すみませんでした」
そう言って、僕は深々と頭を下げた。
「……」
扇さんは何も言わずにただ黙っている。堪えきれずに頭を上げてみると、彼女は一瞬、寂しそうな顔をしているように見えた。
だけどすぐにその顔を無表情に戻す。
「……そう、本当に何も覚えていないようね」
「はい……ごめんなさい」
「だったらさ、いいこと教えてあげる」
そう言うと、扇さんは……
「アンタはね、私の下僕だったの」
その綺麗な顔に似つかわしくないほどに、邪悪な笑いを浮かべた。
「……は?」
我ながら間抜けに口を開けて、言われた言葉の意味を理解できずにいた。しかしそんな僕に、扇さんは平手打ちをする。
「ぐっ!」
「なに間抜けな顔してるの? アンタは私の下僕なの。記憶を失う前からずっとそうだった。だけど記憶がなくなったから、また教育しないといけないみたいね」
「え、ええ……?」
何を言われているのかわからない。何をされているのかわからない。だけど僕は察してしまった。彼女は間違いなく、僕の敵なのだと。
「わかったら、さっさと私の前に跪きなさいよ、このクズが」
そんなことは覚えていない。そう言っても、扇さんは納得せずに僕を虐げ続けるのだろう。僕を嫌い続けるのだろう。だけど僕はそれに反論できない。
だって、何一つ覚えていない僕には、彼女に反論できるほどの自信すらないのだから。