トリックアンドトリート!
カーテンの隙間からこぼれる太陽の光がやけに眩しくて、チコリーは目を覚ましました。
彼女は宝石のように大きな青い瞳をぱちぱちとしばたたかせてから、小さな手で真っ白な頬をぺちんと一つ。眠気から少し解放されたチコリーは、辺りを見回します。
ふと目に入った健太のベッドの上の布団は起きた時のままの形でふくれており、ドアの横にあるタンスは一段目が少しだけ開いていました。
「あ、もういないんだぁ」
チコリーはそう呟いて、ベッドから跳ねるように下ります。
「相変わらず散らかってるなー。しっかりしなよね、中学生なんだから!」
チコリーは自分のベッドのすぐ隣に広がっている健太のノートを眺めながら言うのでした。彼女から見るとノートもまるで白い絨毯のよう。
ノートだけではありません。ノートの隅に転がるペンも消しゴムもまるで文具の形をした家具のようです。人間の使うものは彼女にとっては何もかもがビッグサイズなのですよ。
ここはいつもの健太の机の上。そして妖精界からうっかり落ちて来たチコリーのお家でもありました。
寒い雪の日に商店街のツリーに引っかかっていたチコリーが、三橋さん家の健太君に拾われてもうすぐ一年。今や彼の勉強机の上は、チコリー専用の家具で三分の一が埋め尽くされています。
お人形用のベッド、キャラメルの箱を積み重ねて作ったタンス、石鹸の空箱に銀紙を貼りつけた姿見まであるのですよ。最近は、健太に『ひゃっきん』に連れていってもらって、折り紙やシールなどでタンスを花柄にしたり姿見の周りをキラキラのシールでデコったりするのがチコリーのマイブーム。
チコリーは姿見の前に立つと、大きなあくびをしてから、歯ブラシのブラシで寝癖だらけの金色の髪をとかし始めます。
でも何度とかしても、頑固な寝癖は右や左に跳ねていたり上に向かって伸びていたりと自由気まま。
チコリーは「もう!」と地団太を踏むと、ブラシを髪ゴムに持ち替え、たと思ったらサイドにお団子ヘアーができていました。
鏡に映るおだんごヘアーの完璧さに自分自身で惚れ惚れ。そんなことをしていると卓上カレンダーに目が留まります。そういえば今日は十月三十一日。
「そっか。今日は……あの日かあ」
チコリーはそう呟くと、無意識に垂れてきたよだれを手の甲でふき取ります。
そして窓の外に視線を向け、新しい家々の立ち並ぶ住宅街を眺め、それからタンスを開けました。
引っ張り出したのはお出かけ用の服です。ちなみに服は裁縫上手な健太ママが暇を見つけては作ってくれているのですよ。ただ、チコリーは基本的に引きこもりなので作ってもらった服も一度も袖を通さないままタンスの肥やしになっています。
でも今日は外出着を引っ張り出しました。取り出したのは猫耳のついた黒いパーカーと赤と白のギンガムチェックのパンツです。パーカーの胸元には赤いリボンがちょこんとついていて、まるで蝶ネクタイのよう。
チコリーがこの服を外出着に選んだ理由は一つ。今日がハロウィンだから。
「イタズラをするとお菓子をもらえる日なんだよね。だからいっぱいイタズラをして食べきれないほどのお菓子をもらうんだ!」
ハロウィンはそういう日ではありません。ですが、以前、テレビの情報番組のハロウィン特集を見て自分の都合の良いように解釈してしまったのでしょう。
お菓子が主食のチコリーは、今日は大量のお菓子をもらう予定。ですからこの日のために一日五食から一日三食のお菓子で我慢してきたのです。我慢のし過ぎで手がぷるぷると震え、幻覚まで見えてきたので断食は三日で中断せざるを得なくなってしまいましたが。
何はともあれ、胃の準備は万端。後はイタズラをしに出かけるだけです。
かれこれ五日ぶりの外出です。五日前は健太とともに『ひゃっきん』へ行きました。
そもそもチコリーが引きこもりになってしまったのには理由があります。
それは人間界に来てすぐに、映画を観たから。その映画の内容は人間が次々と妖精を食べていくスプラッターでした。それ以来、知らない人間が怖くて引きこもりに変身。
健太かママと買い物へ行くことはあっても、一人で外出することはありません。
でも、今日はハロウィン。ありったけの勇気を振り絞って外へ出かけてお菓子をたんまりともらってくるつもりです。
服装が決まったチコリーは、インスタントコーヒーのふたで代用したテーブルの上に朝食を準備しました。
スコーンのかけらとミルクだけの簡単なものです。食器は三橋家のお隣の橘家の娘さん達がくれたもの。
消しゴムの椅子に腰かけ、スコーンをあっという間に完食し、カップのミルクを一気に飲み干して、立ち上がりました。
どんぐりを模したポシェットを斜め掛けにしてから、たたんでいたとんぼのような形の七色の羽を広げ、それから三橋家の飼い猫ヒジキを呼びました。彼の特技はドアの開け閉め。
黒猫に玄関のドアを開けてもらい、チコリーはいよいよ新しい第一歩を踏み出します。
気合いを入れてどうにか家の外に出る決心がつくまでたっぷり十分かかりました。
ふわふわと庭を飛んでいると、三橋家の門をくぐって誰かが入ってきます。
お隣の橘家の長女、茜です。引きこもりのチコリーが三橋家の住人以外で気さくに話ができるのは橘家の人くらい。
「よお! どこ行くんだ?」
茜はひょいっと指でチコリーの背中をつまみあげました。
「もー! 私は忙しいの! 大学をずる休みしてる茜とは違うの!」
チコリーは両手を振り回して暴れ出します。
「ずる休みじゃなくて休講な。そうかそうか。忙しいならしかたがないなあ。じゃあ、これもいらないか」
茜はそう言うとチコリーを離し、ポケットの中から何やら取り出します。
「クッキーだあ!」
チコリーは目ざとくクッキーを見つけると大声で叫びました。
「昨夜、妹が大量に焼いてたからもらったんだ。まだまだいっぱいあるから分けてやる――あれ?」
茜はそこで言葉を切り、辺りをキョロキョロと見回します。さっきまで目の前にいた妖精の姿が見えません。
クッキーの入った袋の方からガサガサという音が聞こえ、茜がそちらを見ると袋の中にチコリーが入っており、既にクッキーを一心不乱に食べていました。
「おいおい! 全部やるなんて言ってないぞ」
茜は言いながら指でチコリーの首根っこをつまみあげます。
チコリーは、「あれ?! 私、なんでクッキー食べてるの?!」と言って我に返ったものの、クッキーはしっかりと両手に抱えていました。
「お菓子を見つけた時の反応速度は日本一……いや、世界一だな」
茜の言葉にチコリーはえへへと照れくさそうに笑います。
「で、お菓子モンスターよ。散歩か? 珍しいな。いつも家でダラダラしてんのに」
そこでお菓子モンスターは思い出したようにこう言いました。
「あ! そうだ。私ね、トリックアンドトリートするの! あれ? でも茜はイタズラする前にお菓子をくれたね」
「何かいろいろと間違ってねーか?」
「間違ってないよー! イタズラをするとお菓子をくれる日なんだってテレビで言ってた! 『朝だポン』って番組で言ってたー!」
「あー。はいはい。うるせえなあ。じゃあイタズラしてこい」
茜は耳をふさぎ、顔をしかめながら言うとこう付け足します。
「人様に迷惑かけんじゃねーぞ。妖精らしくかわいいイタズラ限定な!」
「分かってるよー! だーいじょうぶ!」
チコリーはそう言うと、ぺったんこの胸をどんと叩きました。
そしてふわりと飛び上がり、茜に言います。
「クッキーありがとー! んじゃまったねー!」
チコリーはとびきりの決め顔を茜に見せ、今度こそ飛び立ちました。
さて、ようやく三橋家の敷地を出ました。
しかし、門を出て三メートルも飛ばないうちに、心細くなってきます。人間界にきて一人で外に出たのは初めて。もし一人で飛んでいて妖精を食すような人間に出会ったら……。チコリーはスプラッターな妄想をしてぶるっと身を震わせました。
慌てて家に戻ろうとた途端、お腹がぐううと鳴りました。さきほどのクッキーを食べたおかげで胃が本格的に動き始めてしまったようですね。
チコリーの頭の中はスプラッターな妄想から食べきれないほどのお菓子に埋もれている妄想に切り替わります。
「よーし! トリックアンドトリートするぞー!」
自分自身に気合いを入れるかのように言うと、チコリーは勢いよく飛び立ちました。
チコリーはまるで忍者のように身を隠しながら住宅街を進みます。
本当は家の前で通り過ぎる人を待ってイタズラを仕掛けても良かったのですが、平日の午前中はあくびが出るくらい通行人がいないのです。ただでさえ田舎ですからね。
なるべく家から遠く離れないように注意しつつ、ターゲットを探します。顔見知りの人なら安心ですから、赤の他人は狙いません。
すると、前方の西洋風のこじゃれた家から主婦が出てきました。彼女は手にじょうろを持っており、庭に咲いたコスモスに水をやり始めます。
「あ、口殻のおばさんだ」
チコリーはそう言うと、物陰に隠れてガーデニングを始めた主婦の背中をじっと見つめました。
口殻家は三橋家の二軒先にあります。そこの奥さんは、悪い人ではないのですがとにかくお喋り。こちらが黙って聞いていれば、丸一日でも話し続けるような人です。
チコリーは一度、彼女のお喋りに半日も付き合わされたのでちょっぴり苦手意識を持っていました。
「よし、ターゲットは口殻のおばさんに決定」
妖精にイタズラのターゲットにされたとも知らずに、口殻さんはご機嫌で花に水やりをしています。苦手な人なら、罪悪感も少ないですからね。
チコリーはどんな魔法をかけるか腕組みをしながら考えました……とは言っても大した魔法は使えません。その少ない中からあまり恨みを買わないイタズラを考えます。
「うーん。うーん。おばさんはお喋りだから、私がイタズラしたってこと、色々な人に喋るよね。だから変なイタズラは――あ!」
ぴこーんとチコリーの頭上に電球マーク。何やら閃いたようですよ。
呪文を一生懸命思い出し、詠唱開始!
「花の女神よ我に力を与えよ、このコスモスにのびょっ」
噛みました。久々の呪文詠唱ですからしかたがありません。こほんと小さく咳払いをして再度、呪文詠唱。
「花の女神よ我に力を与えよ、このコスモスに能力を授けたまえー!」
チコリーは両手を大きく広げ、それから口殻家のコスモスに向けて勢いよく手を振りおろします。
すると、コスモスが眩い光を放ち、口殻さんは驚いて後ずさりました。
『よお。水、ありがとよ! 今日も靴下、ちぐはぐだな!』
そう言葉を発したのはコスモス。
口殻さんは、何が起こったのかまだ理解していない様子です。
「トリックアンドトリート!」
チコリーがそう言うと、口殻さんは「あらチコリーちゃん」とふわふわと宙を舞う妖精に話しかけました。
『とりっくあんどとりーと? なんだそれ?』
コスモスの言葉に、口殻さんは目をぱちくりとしてから首を傾げます。
『とりっくあんどとりーと! おもしろい言葉だな!』
楽しそうに笑うコスモスに、口殻さんはようやく事態を飲み込みました。
ぴゅうううと少しだけ冷たい風が吹き、静かな住宅街には花の笑い声だけが響きます。
「今日はね、ハロウィンなの。もしかして忘れてた?」
口殻さんは小首を傾げる妖精を見て、それから喋るコスモスを見て、ようやく悲鳴を上げました。
そして悲鳴を上げながら一目散に家に戻っていってしまいます。
「あらら」
チコリーはそう言って玄関のドアの方に視線を向けました。
コスモスは目の前の妖精に向かってこう言います。
『おい、おめー、驚かせてんじゃねーよ!』
口殻さんが出てくるのをチコリーはじっと待ちました。
最初は、『きっとお菓子を持って出てくるに違いない』と思っていたのですが、五分、十分と過ぎるにつれ、不安になってきます。
もしかしたら、口殻のおばさんはとても怒ったのかもしれない。それで、私にどうやって仕返しをするか今必死になって考えている最中なのかも。
そんな恐ろしい考えがチコリーの頭の中を独占しました。
「逃げなきゃ!」
チコリーは言うが早いか口殻家から飛び去りました。
すると、「おーい!」と背後から誰かが呼ぶ声が聞こえます。チコリーは口殻さんが追いかけてきたと判断し、羽を一生懸命動かして空高く飛びました。
魔法も飛ぶことも魔力を消費します。一生懸命飛ぶと、それだけ魔力の消費も激しいのですが、そんなことにかまってはいられません。自分がイタズラをされたら、お菓子をあげなければいけません。それだけでも嫌なのに、口殻さんが魔法をかけたことを怒っていたら、お菓子を渡すだけでは済まないでしょう。瓶に詰められ、死ぬまで口殻さんのお喋りを聞かされる羽目になるかもしれません。
「そんなの嫌!」
チコリーは、必死で逃げました。
すると、「あら、絹代さん」という声が下の方から聞こえてきます。チコリーは恐る恐る下を見てみました。
妖精の真下には、二人の老人が楽しそうにお喋りをしています。
「もー。何度も呼んだのよ。それなのに気づかないんだから」
「もう耳が遠くなったからねえ」
二人のやりとりに、チコリーはホッと胸をなでおろしました。先ほどの『おーい』は絹代さんの声だったのです。
辺りを見回してみると、瓶を持ってチコリーを血眼になって探している口殻さんはいません。
「良かったぁ。もうお菓子はあきらめよう。家に帰る!」
チコリーはそう言って、三橋家に帰ることにしました。
そこでハッと気付きます。
もうずいぶんと飛んだのに、三橋家の赤い屋根が見えてきません。二軒隣なので、飛べばすぐのはず。
チコリーは後ろを振り返ってみますが、愛しき我が家(居候ですが)は見えません。
恐怖でめちゃくちゃに飛んできてしまったので道に迷ってしまったのでしょう。
「ここどこだろう」
チコリーは辺りをキョロキョロと見回しながら、不安をたっぷりと含んだ声で言いました。
そもそもチコリーは方向オンチです。そうでなければ妖精界から落っこちてくるはずがないのですから。
広くもない住宅街で家にたどり着けずに彷徨い、あっちを曲がったりこっちを曲がったり。人間に道を聞くことも考えましたが知らない人に道を聞くのはやはり怖いのです。
チコリーはとうとう魔力がつき、飛ぶことさえできなくなりました。
ふらふらと体が下に落ちていく中で、なんとか羽でバランスを取り、近くにあった公園のベンチにふわりと舞い降ります。
そこで魔力は空っぽになり、チコリーは動けなくなり、それから眠ってしまいました。
☆
どのくらいの時間が経ったのでしょうか。
ふと鼻孔をかすめた甘い匂いでチコリーは覚醒します。
その甘い匂いの正体は、プラスチックの箱の中にぽつんと一つだけあるゼリーらしきもの。
チコリーは一切の迷いもなく箱の中に飛び込み、ゼリーをむさぼります。
「なんか変な虫が入ってきた!」
頭上から降ってきた声など耳に入らず、チコリーはひたすらゼリーをなめていました。
すると、視線がこちらに集中していることに気付いて、ようやくお菓子モンスターは異変に気付きます。
我に返ったチコリーは辺りをキョロキョロと見回し、目の前の壁らしきものに触れ、そして頭上を見上げてようやくここがどこなのか把握。
四方八方を透明のプラスチックで覆われ、頭上は家の屋根のような形でフタがついていました。
そう。チコリーは虫かごの中に入ってしまったのです。しかも自ら。虫かごの中に虫がいないのが救いでしょうか。
そんなまぬけな妖精を小学三年生くらいの男の子二人が興味津々で観察しています。
そして一人の男の子が恐ろしい言葉を放ちました。
「ねえ、僕、この変な虫で決闘していい?」
男の子の人差し指はチコリーを指さしているではありませんか。
「変な虫じゃなーい!」
チコリーが怒ると、男の子は「怒らないでよ。もう一つ昆虫ゼリーあげるから」とゼリーを虫かごの中に入れてきました。
妖精は逃げることも忘れてゼリーに飛びつきます。
「こんなのが俺のカマキリに勝てるわけないじゃん!」
ガタイの良い男の子はそう言うと、ボスと名がついていそうな大きなカマキリをこちらに見せつけてきました。
「決闘させてみないと分からないだろ!」
虫かごの持ち主らしき男の子が反論。
偶然、その言葉が耳に入ったチコリーは嫌な予感がして、ボスカマキリに視線を向けます。そして、その奥、砂場の方にはもう一匹カマキリがいますが、そちらは地面に仰向けに倒れてぴくりとも動きません。
チコリーはすべてを察し、全身から嫌な汗がぶわっと吹き出します。
ボスは口でカマを丁寧に手入れをしていて余裕そう。
がたがたとチコリーの体が震え、鼻の奥がツーンとしてきました。顔がふにゃりと歪んで大きな瞳から涙がこぼれそうになったその時。
歪んだ視界の隅で、何かが飛び去っていくのが見えました。
倒れていたカマキリです。死んだふりをして逃げるチャンスをうかがっていたのでしょう。
小さくなっていくカマキリに気づいたのはチコリーだけでした。
そして、チコリーはぐっと歯を食いしばってそれから気合いを入れるべく頬をぺちんと叩きます。
涙をこらえ、震える体を無視して必死で逃げる方法を考えました。
まだ魔力は完全に回復していません。魔法を使ったら逃げることができそうですが、そうなると飛ぶための魔力が残らないでしょう。
すると方法は一つだけ。
対戦する時は、虫かごから出されるらしいので、その隙に飛んでしまえば良いのです。
妖精はそう考え、震える拳をぐっと握ります。
「じゃあ、虫カゴから出して」
その声に、昆虫ゼリーを小脇に抱えていたチコリーが虫かごから引っ張り出されました。
男の子が地面にチコリーをおろすと「試合開始!」と掛け声。
その声を合図にするかのように、彼女は上へ飛び出します。
無我夢中で羽を動かし、とにかく高い場所を目指しました。
ぐんぐんと近づいてくる空。
後ろは振り返りません。
死に物狂いで羽を動かし、雲を掴む勢いで進みます。
男の子達の声が小さくなったことを確認し、ちらりと背後を振り返ると公園で一番大きな木を見下ろすことができました。
チコリーがそこでふっと気を緩めた瞬間。
何かが体を直撃してきました。
雨粒です。
降ってきた雨に濡れ、チコリーは全身びしょ濡れ、羽をうまく動かすことができません。
雨はどんどん強くなり、小さな妖精の体は雨で下へ下へと押し戻されてしまいます。
「あ! 虫が戻ってくる!」「本当だ! 帰る前に捕まえようぜ!」
男の子達の声が再び近くに聞こえてきました。
濡れた羽を動かすことができず、伸ばされた男の子の手に向かって落ちていきます。
とうとうチコリーは死を覚悟しました。
健太、ママ、いつも出張ばかりだけどたまに帰ってくると美味しいお菓子をお土産にくれるパパ、ヒジキ、茜、碧。
そして故郷の家族。
チコリーの頭の中で、大事な人の顔が走馬灯のように浮かびます。
そして、妖精の小さな体は男の子の手中にすっぽりとおさまってしまいました。
すると、近くでこんな声が聞こえました。
「あなた達、こんな雨の中、傘もささずに何をしているの?」
チコリーが声のした方に顔を向けると、赤い傘をさした女性が立っているのが見えます。
「口殻のおばさん」
そう口にした途端、チコリーは弾かれたように顔を上げ、こう叫びました。
「助けて! 助けて! 私、虫と決闘させられちゃう!」
口殻さんはチコリーの叫び声に、男の子二人を睨みつけます。
「虫と決闘させるなんておばさんが許さないわよ!」
その言葉に男の子二人は「ごめんなさい」と謝罪をし、チコリーをベンチの上に置いて帰って行きました。
「怪我はない?」
口殻さんの問いに、チコリーはこくんと頷いてから口を開きます。
「怒ってないの?」
「なんで?」
「だって、お花が喋る魔法をかけたんだよ? おばさん、とっても怖がってた。家に逃げちゃったもん」
チコリーの言葉に、口殻さんは目をまん丸くしてから、空を見上げます。通り雨が止んだようです。
「おばさんの旦那さんはね、最近とても忙しくて会話がないの。それに高校生の息子は彼女ができたらしくて帰りが遅いの」
口殻さんは空を見上げたまま、少しだけ笑って続けます。
「だからね、話し相手が欲しかったの。たわいもないことを話せる相手。だからお花と話せてうれしかったわ」
「うれしい? ほんと?」
「ええ。本当。最初はびっくりしたけどね」
口殻さんはそう言うと優しく微笑みます。
なーんだ。おばあさんのこと苦手だと思ってたけど、とても優しい人だ。きっと優しい人はもっといるはず。
チコリーはそんなことを考えて、口殻さんと一緒に空を見上げました。
空には大きな大きな虹がかかっています。
☆
チコリーは口殻さんに三橋家まで送ってもらうことにしました。
彼女のお喋りが始まった途端、チコリーは鼻をくんくんさせます。この香りは!
チコリーは目の色を変えて、香りのする方角へと飛び立ちました。
そして中学校の門をくぐって出てきた女子生徒のスクールバッグを開け、そこで発見します。
「わーい! クッキーみっけ!」
チコリーはそう言って袋に入ったクッキーを頭上高く掲げました。
「わあっ! チコリーちゃん!」
突然の妖精の出現に驚いたのは橘碧です。碧は茜の妹。そう、クッキーが入っていたのは彼女のスクールバッグの中だったのです。
「ええっ?! チコリーなんでここにいるの?」
ちょうど近くを通りかかった健太が目をまん丸くします。
チコリーはもはやクッキーしか見ていません。ブツの入った袋をしばっているピンク色のリボンに手をかけようとした瞬間。
「だめっ! それは健太君に渡すクッキーなの!」
碧が突然、大きな声を出したものですから、チコリーはハッと我に返りました。
そして、碧はお菓子モンスターからクッキーを奪い返すと、きょとんとしている健太に言います。
「あの、ね、えっと、この前、傘貸してくれたでしょ? そのお礼!」
碧は早口に言うと、健太にクッキーを押し付けるようにして走り去って行きました。
健太はきょとんとしたまま碧の背中を見つめています。チコリーは見逃しませんでしたよ。彼女の顔が真っ赤だったことに。
「青春だね!」
チコリーが決め顔をすると、健太はおずおずと口を開きます。
「ねえ、チコリー。ずっと思ってたんだけどさ、その顔、あんまりかわいくないよ……」
「えっ?!」
チコリーは決め顔のポーズのまま固まってしまいました。
「ねえ、チコリー。クッキーあげるよ」
家に帰ると、健太がそう言ってクッキーを分けてくれました。なんと五枚も!
「僕はこの一枚とそれから碧の気持ちだけで十分」
健太は言いながら、大きなハートの形をクッキーを大切そうに見つめています。
チコリーはうれしくてうれしくてやっぱりいつもの決め顔をしてしまうのでした。
<了>