錠前の歌
じゃらり。
もうどれくらい歩いたのか。『熊』はまたしても意識を、いや見当識を手放しかけていた。腕にかけられた頑丈な手枷に取り付けられた、鉄の鎖がきしんで鳴った。
じゃらり。
鉄の鎖は『熊』の後ろ、わずかな荷物だけを載せた大きく重い樫の橇に繋げられていた。冬の寒さにいてついた、溶岩と泥炭の大地――その上に積もった雪の上をただひたすら橇を牽いて進む。向かい風の中を進む。夏になればこの橇が、これまた重い樫の車輪をつけた荷車に変わる。
『熊』は奴隷なのだった。名は主人が与えた。
主人は前方十歩ほどの位置で、こちらを振り返りもせずに歩いている。見てくれは16歳かそこらの少女だが、実際の年齢は見当もつかない。『熊』の肩ほどもない背丈だがその体は作り物のように均整がとれており、海の色をした深い瞳の奥底は何が沈んでいるのか見通すことが出来ぬほど暗い。そして厳寒の中でもつややかに赤みを失わぬ唇。
――それが『熊』の主人だった。
彼女はその装いも際立っていた。魔狼そのものから剥ぎ取ったような、青みがかった灰色オオカミの毛皮を、縁無しの帽子とマントに仕立てて身につけ、靴も胴着も全て灰色。
その中にただ髪だけが金色に波打ち、春の太陽を盗んできたように輝いた。行く先々で接する村人は、彼女をただ『灰色娘』とだけ呼んだ。
奴隷とは言うものの、『熊』に課された仕事は、ただひたすら『灰色娘』の荷物を牽くことだけだ。それ以外のことは全て彼女がやった。食事の支度、片付け、村人との交渉に銭勘定。傍から見ればむしろ奴隷は『灰色娘』のほうだった。
『熊』の手枷は決して外されず、宿を取った時には『灰色娘』は『熊』の手かせを嵌めたまま脱ぎ着出来るように特別に作った、ボタンの多いシャツと上着を手ずから脱がせ、風呂に入れて体を洗った。時には彼の足の間でこわばったものを自分の手指で鎮めさえした。
だが『熊』は、『灰色娘』におのれ自身を握られることをひどく嫌った。
「なぜだ。男というものは迸らせてしまえば楽になると云うではないか。お前は違うのか?」
『灰色娘』がからかうようにそう尋ねた。温泉の多いこの土地の富裕な家には珍しくない、屋根で覆った風呂場は声がひどく大きく反響した。
「お前に握られると、空になった鞘のように、剣を盗まれた気持ちになる」
『熊』は風呂の床の上で、無様に横たわったままそう答えた。
「ははは! なんだか愛の告白のようにも聞こえるな」男のような口調で彼女は笑った。笑い続けた。
「ふん、俺は奴隷さ」
『熊』はひどく惨めな、だがどこか深い安堵を覚えた様子で、それだけを口にした。
『熊』は無論、生まれついての奴隷ではなかった。元々はごく早い時代にこの大きな島に移り住んだヴァイキングの末裔で、自由民だ。農地の境界争いで隣村の農夫と口論になったのが不運の始まりだった。
気がついたときには斧が血でべっとりと汚れていた。後はもうお定まりの道行きだ。死んだ男の親族が、あるいは金で雇われた戦士が、復讐を求めて次々に立ちふさがる。坂道を転がるように血縁者や知人のところを転々としては追い出され、ついには民会で追放が決定された。
放浪を重ねて行き着いた大きな港で、彼はデンマークから訪れた商人に騙された。船員として雇うと言葉巧みに誘われ、振舞われた酒に酔って、無防備に眠ってしまったのだ。
気がついたときには「商品」の一人になっていた。交易都市ヘーゼビューの奴隷市へ連れて行かれると知って、奇妙なことだが彼はこれまで張り詰めるばかりだった気持ちが、ふわりと溶け崩れるのを感じた。買われた奴隷は大事にされる。もう追っ手に怯えて逃げ回ることはないのだ、と。
ところが出航前におかしなことになった。別の船でやってきたという奇妙な女が、彼を買ったのだ。
「勘弁してくれ、俺はこの島から出たいのだ」
「それは生憎だったな。私は目的を果たすまでこの島を出ない。察するところ追放者、奴隷には成りたてか」
「俺は……奴隷じゃない!」
『熊』を手放したばかりの商人がひどい剣幕で怒鳴った。
「てめえ! いい加減に観念しやがれ。こんなお綺麗で優しそうなお嬢様に買っていただいたんだ、ありがたく思ってお仕えしろ。俺様の評判が上がるようにな!」
『熊』はそのまま有無を言わさず荷車に繋がれた。その日以来ずっと『灰色娘』の荷物を牽いて歩いているのだ。
アイスランドに人が移り住むようになって100年程が経っている。大部分の移住者の故国であるノルウェーと違い、どこまでも吹きさらしの原野が続くこの土地では、風の吹き込まぬ谷あいに家を建て、農場を営むことが好まれる。
熱湯ヶ谷を出て10日、霜降り谷と呼ばれる地の農場に宿を請うたとき、事件が起こった。
「その男は追放者だ。一昨年の民会で決まったのだ、俺も立ち会った」
「追放者を泊めることは出来ん」
顔立ちの良く似た男たちが農場の入り口に集まって斧を構え、『熊』と『灰色娘』を阻んだ。
「この男は今は追放者ではない、私の奴隷だ。銀3マルクで買い受けた。人間ではない、私の財産だ――この鎖を見るがいい」
『熊』の手枷から垂れ下がる鎖を皆が見る。太く、黒光りする鉄の鎖だ。悪いことにアイスランドでは木材と鉄が何より貴重で、そして希少だった。それにこの谷の住人たちは余り善良ではなかった。男たちの心に邪な欲望が生まれる。
「良い鉄だ。奴隷の鎖にするには惜しい。革紐で繋ぐべきだったな、女」
男たちが進み出て、『灰色娘』と『熊』を囲もうとした、その時。
『灰色娘』が声を上げて笑った。
「ははは! あはははは! お前たち、その眼はどうやら飾り物らしいな。なるほど、実際良い色だ……よし、私にくれ」
多くの者の眼は青かった。女の言葉に合わせるようにそれは硬く凝り、石になってこぼれ落ちた。悲鳴が上がる。
「こ、こやつ、セイズコナ(女魔術師)か!」
「撃ち殺せ」
青い眼でなかった何人かの者は彼女の呪いを免れ、突然の失明に狂乱する仲間を踏み越えて、灰色娘に迫った。だが、彼女は襟に手を差し入れ、胸のふくらみの間から大きな鉄の鍵を取り出した。
「仕方がないな。やれ、『熊』」
斧で撃ちかかろうとする男たちを背中に、振り向きもせずに彼女はそう叫んで、鍵を『熊』の手枷に挿し入れ、捻った。
がじゃり。
さび付いた音と共に手枷が開き、鎖が外れて橇の中に引きこまれる。バネ仕掛けのように、迅速に。そして、古めかしく巨大なヴァイキングの剣が橇の中から飛び出し、空中で一回転して『熊』の手に収まった。
「これは?」
狼狽しながら主人に言葉を請う。ずしりと手にかかる重みと、眼を射るフォルム。意志ある者の手で鍛えられ形を得た殺意が、そこにあった。
「巨人殺しの剣、スルズモルズ。我が父祖より伝わった物だ。使わせてやる」
剣などろくに握ったこともない。『熊』はただの農民だった。手の中の得物と眼前の獲物をためらいながら見比べる。だが動揺して後退る男たちの目の中に、『熊』は見てしまった。
かつて執拗に彼を追跡した者たちの影を。
思惟があふれ、筋肉が決壊した。悲鳴を上げて逃げ惑う村人たちを『熊』とその右手の巨剣が追う。うなりをあげて振り下ろされる剣が頭蓋を縦に割り、大気を切り裂いてなぎ払われた刃が胴体の中ほどを両断した。
幾つも。幾つも。
幾つも。幾つも。幾つも。
ようやく疲労にあえぐ男が我に返ったとき、雪の上は血と臓物にまみれ染まって赤黒く変わっていた。むっとするような血臭がたちこめる中、『灰色娘』が場違いに明るく微笑み、森で木の実でも集めるように、呪いを受けて青いトルコ石に変化した目玉を拾い上げて廻った。
「何だ、これは――」
『熊』の唇から隙間風のような吐息と共に、ようやくそれだけが吐き出される。膝の震えが次第に大きくなり、吐き気が胸元にとぐろを巻いた。この黒ずんだ巨剣が、目の前の女が、そしてまたしても自分がしでかした殺人――それも大量の――の有様が恐ろしい。
「助けて……くれ……」
今ならこの剣を持ったまま走り去って、この忌まわしい正体をあらわにした女から逃れられる。頭のどこかでそんな考えがどくどくと脈打っていたが、足が動かない。
『灰色娘』が彼を見て、少し眉をひそめた。
「なんだ、お前まだ私に対等の口を利く悪い癖が直らないのか。まあいい。お前は良く働いたよ、褒美をやろう」
そう言うと彼女は橇のところまで歩いていき、スカートと下穿きを地面に落とした。
「私を抱くがいい。後ろからおいで」
マントをたくし上げ、そのまま前へ回して白い腰を晒し、橇の縁に手をつく。『熊』は抗えなかった。
二人が重なり合って高く高く羽ばたき、沖天に達しようというそのとき。『灰色娘』の口から人のものではない叫びが上がった。
彼女の肩にかかったマントはいつの間にか、背筋に沿って黒い毛を散らし、一本一本の先端に金色の光を帯びた、生きた毛皮に変わっていた。目深にかぶった縁無しの帽子も同様に、ぴんと立てた二本の耳を備えた獣の頭になった。『熊』自身をがっちりと掴んで離さないその部分には長くふさふさとした尾が生じ、彼の腹を撫で回すようにうごめいた。
「ああああああああ!」
恐怖と混乱に叫ぶのと同時に『熊』は果てた。『灰色娘』が狼の顔のまま哄笑を上げた。
「はははは! あはははは! お前は良い奴隷だな、『熊』!」
その言葉と同時に、地面に投げ出されていたスルズモルズがひとりでに立ち上がり、鍛冶場の熱も鍛冶師のハンマーもなしに、ぐにゃりと捻じ曲がった。飛びつくように『熊』の両手首に絡みつき、巻き込んで、先ほど外されて地面に落ちたはずの手枷とそっくり同じ形になる。
剣であったことなど、忘れたとでも言うように。どこからかがらがらと鎖が延びてきて、手枷と橇の間を繋いだ。
じゃらり。鎖が鳴った。
放心して膝を突く『熊』に、灰色娘は全身から湯気の立ち上る人間の裸身で向き直り、赤い唇からこの上なく残酷な言葉をかけた。
「お前は私の奴隷。そして、私のこの魔法を完成させる部品だ。お前は私が解いた戒めの鍵を、自分自身で掛けたのさ」
「つまり、私が錠前だ」
言葉が終わったとき、彼女の姿は元の灰色の毛皮と布に包まれた、瀟洒な物に戻っていた。
『熊』はむせび泣きながら足元の地面に胃の中のわずかな内容物を吐いた。
その日以来、『灰色娘』の所業は遠慮がなく、より残酷な物になった。目玉から変じた青いトルコ石は同じ重さ以上の銀と交換され、二人の糧食や酒、宿代になったが、それが尽きると今度は行く先々の村で揉め事を意図的に招き寄せては、『熊』と巨剣を解き放って殺戮と掠奪を欲しいままにした。
そして、事が終わると『熊』に自らを与え、消耗した分の力をその交わりから吸い上げるのだ。そうしたからくりには、『熊』もある程度の段階で理解が及んでいたし、『灰色娘』自身がむしろ嬉々として語った。
「主よ、何が目的でこのような旅を続け、このような所業を繰り返すのだ」
焚き火の中で、白樺の太い枝がごろりと転がって崩れた。火の粉が舞い上がり、火の向こう側で『灰色娘』の顔が少し暗くなって見える。
「お前に言っても分らないだろうが……長く生きたいのだ。出来る限り長く」
ヴァイキング、あるいはその末裔の間では伝統的にオーディンが信仰され、死後には永遠の闘争と不死の命が与えられると、一般に信じられている。現世の闘争の中で名誉ある死を遂げれば、それは叶えられる。
近年ますます広がったキリストの教えも、死者は遺体が残っていれば最後の審判の日によみがえって、天国であれ奈落の底であれ、行き先が決められると説く。
死は消滅ではないのだ。だが、そのことを灰色娘に言い立てようとして『熊』は、ヴァルハラがその門を開くのは戦士に対してだけだ、と云うことを思い出した。
「……女はヴァルハラへいけないからか?」
『灰色娘』はけたたましく笑った。
「違う違う、もとよりヴァルハラも、キリスト教徒の信じる天国とやらも、実在はしない。人間は死んだら土くれに還る、それだけだ」
「……主の言うことは冒涜だ。俺は理解したくない」
「理解しなくていい。私の魔法が続く限り、永遠に生きられる。私も、お前もだ」
不意に、普段の彼女からは考えられないほど優しげな眼差しで、『灰色娘』は『熊』を見た。背中の後ろにある地面から、融けていない雪を掴んで玉に丸め、ぽい、と放り投げる。
「――それでは、不満か?」
『熊』は答えることが出来ず、ただ焚き火を見つめ、昼間珍しく平和裡に終わった買い物で手に入れた蜜酒を、ぐび、とあおって眠りについた。
(常人の何倍も生きているうちには、求める秘法がこの島で手に入る機会も巡ってくるだろう)
『熊』の髭だらけの寝顔を眺めながら、『灰色娘』はそんな思いを巡らせる。人間の人生が実り少ないのは、ひとえにそれが短すぎるからだと彼女は信じていた。
二人は小さな湖を抱えた谷に行き着いた。耕作地と荒野の境界に、いつものように村の男たちが寄り集まり、そして何人かが『熊』に気づいた。
「出て行ってくれ」男たちの中の一人が嘆願した。
「お前は確かに追放者だが、俺たちはお前と争いたくない。傷つけたくもない」
といって、彼らは二人を受け入れてもくれない。『灰色娘』は苛立った。ちょうど路銀も糧食もつきかける頃合で、もはや選択肢は限られていた。まるでたった二人のイナゴの群のように、このところ二人は道々の集落を食い殺し、無造作に食い散らかしてきていたのだ。
『灰色娘』の手が胸元に伸び、いつものように手枷に鍵が差し込まれた。がらがらと引きこまれる鉄鎖。宙を舞い、手に収まる巨剣スルズモルズ。『熊』はすっかり心に深々と根を下ろした諦観を反芻しながら、流し込まれる力の赴くままに、巨剣を振るい、男たちを殺した。
いつものことだ。仕方のないことなのだ。
俺は奴隷だ。
村の中心部まで踏み込んで、逃げ遅れた老人や廃疾者を斬って捨てて廻る。無感動。奴隷であることと引き換えに、追放者の運命からの保護と、主人の言葉が真実なら、不死。ぶよぶよとたるみ膨れ上がって鈍磨した、感謝の念すらそこにはあった。だが。
「シグムンド!」
薄ぼんやりと見覚えのある家のそばで出くわした老婆が、そう叫んだ。戸惑いながらも体は動き続け、肩から腰の辺りまでざっくりと斬り下ろした瞬間に、目が合う。
「帰って、きたの……かい……」
老母だった。彼女が叫んだのは『熊』の元の名だ。そこは、『熊』の生まれ育った故郷の村だった。
「母さん!?」
彼を覆っていた重く冷たい殻がひび割れ、はじけ飛んで消えた。
絶叫。
長く尾を引く叫びが途絶え、ただ震えてすすり泣く『熊』――いや、シグムンドのところへ、『灰色娘』がやってきた。
「手違いがあったらしいな。ここはお前の村だったのか……ああ、悪かった、だがそんな眼をするな。そら、橇のところへ戻れ。いつもよりもう少し優しくしてやろう」
「……断る」
シグムンドはただ一言で答えた。その瞬間、『灰色娘』の眼が暗く燃える。
「……そうか。母を手にかけ、名前を思い出し、私に逆らおうという気になったのだな」
「おれはもう、奴隷ではない。湖谷のシグムンドだ」
「!」
『灰色娘』の美しい顔が屈辱と失望にゆがみ、視線が地に叩きつけられた。「奴隷であることの拒絶と真の名の宣言」。それは彼女の魔法を破る、唯一の手続きだったのだ。
長いため息をついて、彼女は『熊』を見た。
「私の魔法もこれでひとたびは終わりか。所詮は間に合わせのまがい物、仕方がないな。何年分か老いるのを覚悟で、次の準備をするとしよう。どこへでも行くがいい『熊』、いやシグムンド」
地面に横たわる巨剣を指差す。
「スルズモルズはお前にくれてやろう。正しく扱えるのなら」
夜の帳が落ち、二人は村の境で別れた。鞘に収められたスルズモルズを引きずっていずこへともなく歩くシグムンドを、『灰色娘』は彼がその視界から消えるまで見送った。
「やれやれ、外されたままの錠前と言うのも、滑稽で情けない物だなあ」
彼女は荷車をそのまま置いて歩き出した。なぜか星々がひどく滲みゆがんで見えた。
追放者シグムンドはそれから一年後、ヘクラ山のふもとで復讐者の刃に倒れた。旅人の口から口へ、その噂は伝えられた。
『灰色娘』の行方は、誰も知らない。
作中に登場する巨剣スルズモルズ、拙作「ばいめた」に登場する物と同名ですが、両作品に直接の関係はありません。
オリジナルの北欧風の剣とか複数考えるのが(ry
性描写ちょっと行き過ぎたかも。お叱りは謹んで受けます