第四話 奴隷少年の解放
あれから三日が過ぎた。
三日間はほとんど今までと変わりがない日々だった。僕に客が来る事もなく、いつもどおりご主人様が粗食を持ってくるだけの日々。
あぁ、そういえば違いはあった。
いつもよりもご主人様の小言に覇気が無く、顔が真っ青だった事だ。それは三日前のあの時からの変化。僕が彼女に身請けされる事に対して、そこまでの表情をするなんて、おかしな話だと思う。
さらにいえば、呼吸も荒く、目の下にはクマも見えた。三日前よりうっすらと見え始めたそれは、三日経った今では真っ黒と言っても過言ではないほどにハッキリと見える。おそらく三日前から眠れていないのだろう。そう思わせるだけの疲労感が、その顔にはありありと表れていた。
そして、三日目の今日。
彼女は現れた。
僕の部屋の中にズカズカと入ってくる少女。その後ろからご主人様もついて入ってくるが、その表情はこの三日間の中でも最悪と言っても良いほどに酷いものだった。
顔面は青を通り越してもはや白い。まるで死人なのではないかと疑ってしまうほどに生気が無く、唇がブルブルと痙攣したように震えていた。目は信じたくない現実を見てしまったかのように見開かれ、瞳は酷い絶望を見たかの様に精彩を欠いていた。
「ふふ。約束通り五千万はお持ちいたしましたわ。さぁ、そちらも約束通り、彼を開放してもらえるかしら?」
「…………」
呆然とした表情で少女を見上げるご主人様。
もはや少女の言葉を理解するだけの精神は残っていないのか、少女の言葉を聞いてもなかなか動き出そうとはしなかった。
そのご主人様を見てため息を吐く少女。
まるで「呆れた」と言わんばかりだ。
「はぁ。いい加減諦めてくださいません? さすがに見苦しいですわよ」
「…………よいのですか?」
「ようやく口を開いたかと思えば……。質問の意図が判りかねますわ」
「…………。その者は見ての通り異形の者。レギーナ様がお連れになれば、きっとルールヘル家にも何かしらの禍が――――」
「――黙りなさい」
少女の声は強制力を感じる程強い言葉ではなかった。怒鳴った訳でもない。それこそ、三日前に聞いた時と同じようなただの一言だった。
でも。
その一言はご主人様を凍りつかせるのには十分な一言だったようで……。
ご主人様はピクリと一瞬肩を震わせると、すぐさま少女から視線を逸らした。少女の視線と言葉に耐えられなかったようだ。
「もはや対価を支払った事により、彼は私の所有物となりました。いかに元所有者であろうとも、私の所有物に対しての暴言は許しませんわよ」
「…………も、申し訳……ありません……」
「いいですわ。今は許して差し上げます。ですから、早くアナタのすべき事をなしていただけませんか? 私、もう待ちくたびれてしまいましたの」
「………………」
イライラをしている事を隠そうともしない少女のその言葉に促され、ご主人様がゆっくりと前に出た。
足が震え、手が震え、もはや震えてない場所がないのではないかと思えるほどのご主人様。
それに対し、少女は冷ややかな視線でご主人様を見ていた。その眼はご主人様という人格を全て否定するような、そんな眼に見えた。同時に、それはご主人様が僕達奴隷に向けていた視線と同種のものであった。
虫けら。道端の石ころ。
相手が対等の人間であるとは思っていない視線。温度を感じさせない冷たい視線だった。
震えるご主人様の指が、僕の大きな首輪に触れた。
この首輪と鎖こそが僕らの主従を表す象徴だ。この首輪と鎖がある限り、僕はご主人様の奴隷であり所有物だ。だからこそ。
《……“奴隷との契約を解除”する……》
ご主人様が魔力を込めた一言をつぶやくと、鎖が光を放った。
眩しくはない光。それは鎖自身が輝くような光だった。鎖に書かれた文字が浮き上がり、ゆっくりと消え始める。
やがて光が収まり始めると、バキンと大きな音を立てて僕の首のつけられていた大きな鎖は、崩れ落ちた。
これでもう、僕はご主人様の奴隷ではなくなったのだ。
ご主人様は、その場でガクリと膝をつき、うなだれた。
今までご主人様からは、あまり人として扱われたことがなかった。でも、そんな僕でも今のご主人様の姿を見ていると、少しだけ同情するように悲しくなった。
「それでは、ここにはもう用はありません。外に馬車を待機させていますわ、プリムラ、行きますわよ」
「あ、は、はいっ」
でも、彼はもう僕のご主人様ではない。
新しいご主人様はコチラをチラリと一瞥し、扉の方へと歩き出した。僕は、ペコリと男性に一例をし、その後に続く。
五年間過ごしたこの場所には、少しだけ名残惜しさを感じたものの、新しい生活に少しだけ心が踊っていた。
考えてみれば、部屋の外に出たのは何年振りだろうか。
この施設に連れてこられて五年程度。その間、僕は一度たりともあの部屋を出た覚えがなかった。
ご飯は残飯のような物を持ってきてもらっていたし、身体を洗う必要のある場合――仕事前とか――は、水の入った桶とタオルが支給される。もちろん、お風呂に入れてもらったことなど一度もないが。後はトイレだが、それもあの部屋にある用水路のような小さな窪みで行っていた。衛生的な問題はあるものの、水が流れているため、特に臭いがひどくなったり、虫が湧いたりという事は無かった。
――ひたっ。
石造りの廊下は、素足では少しだけ冷たい。ひんやりとした感覚が、部屋の外に出たと言う実感をハッキリと感じさせてくれる。
僕は周りを見回した。
廊下はやたらと狭く、細長い作りになっていた。僕の居た部屋側とは反対側の壁には何も無い。ただ、そびえ立つような壁だけがただただ奥へと続いている。所々天井近くにランタンのような物が備え付けられているだけで、その他の装飾品は一切存在しない。
質素、という言葉が当てはまるような壁だった。
逆に、僕の部屋があった方向の壁には、同じような扉がいくつか備え付けられていた。全部が全部同じような扉で、格子から中の様子が伺えた。
中の部屋も同じような作りである。立方体のような部屋の中に大きな鎖で女の子が捕らわれている。年齢はバラバラだが、どうにも若い女の子の数が多く見える。中には生まれて十年も経っていなさそうな女の子が蹲っている部屋もあった。そして、そのほぼ全員がどこかしらに傷を負い、その中には腕や足が無い少女も居た。それらも大した処理はされておらず、白い包帯が赤く濁ったような色を滲ませていた。
その少女たちは皆、絶望に染まったような濁った瞳をしている。こちらには一瞥をする事もなくうな垂れ、ただジッと地面だけを見つめていた。
僕も外から見れば彼女のような「死んだ顔」をしていたのだろうか。この廊下に立って初めて僕はそんな疑問を抱いた。
「どうかしましたの?」
足を止めていた僕に振り向きながらそう聞いてくる少女……いや、ご主人様。
僕は首を何度か横に振ると、何も答えずにご主人様の近くへと駆けた。
僕にも、そしてご主人様にも、彼女達を救う理由は何も無い。彼女達を見て、「可哀想だな」という感想を持ったとしても、イコール助けるという行為にはつながらない。
結局、僕もご主人様も“勇者”のような立派な存在なんかじゃないからだ。
だから、ご主人様も彼女達を見ないし、僕ももう、彼女達の様子を見ようとは思わなかった。
細長い廊下をご主人様の後に続いて歩く。どこまでも似たような景色。右側には壁があって、左側には少女達を捉える檻があって。
石造りで代わり映えの無い景色が思ったよりも続いたように思う。変化のない景色と、少女達の泣き声や呻き声に少しだけご主人様が苛立ち始めた頃、ようやく廊下が終わりを迎えた。
扉は無い。赤いカーテンだけでこちらと向こう側が隔てられているだけである。
ご主人様はカーテンを手で軽く払いながら中に入っていく。僕もそれに続き、カーテンを超えてカーテンの向こう側へと入った。
赤いカーテンを抜けると、少しだけ広い部屋に出た。僕らの檻のような部屋と同じ立方体の部屋。しかし、その部屋は僕らの部屋とは決定的に違っていた。
まず部屋の中央には大きなテーブルが置かれていた。濃い茶色をした高そうな木製のテーブルである。その上には散乱した酒と煙草が大量に乗っけられていた。しかし、それはあまり目に入らない。それよりも注目を集める存在が、同じようにテーブルの上を占拠していたからだ。
それは――金貨。
キラキラと黄金色に輝く金貨に、目がくらみそうになる。
その金貨の枚数は既に数えられるレベルを超えており、積み上げられたその姿は今にも崩れそうに見えた。細かい金貨の価値なんて僕にはわかるはずもないのだけれど、これを見ただけで相当な金額である事は簡単にわかる。
おそらくこれは僕を買うためにご主人様が支払った金貨なのではないだろうか。
僕はご主人様の顔を盗み見る。
「さぁ、外に出ますわよ」
何でもない事のように言う少女の言葉に、僕は頷いた。
ご主人様にとってこのお金はもはや視界に入っていないのだろう。僕はもう一度だけチラリと金貨を見ると、そのままご主人様に付いて赤いカーテンとは逆側の扉へと歩き出した。
扉から漏れている白い光。おそらく太陽の光だ。
目の前の少女は少しだけ明りの漏れる扉を開いた。
キィィと扉は鈍い音を立てながらゆっくりと開いていき……。
――あふれるほどの光。
強烈な日の光に僕は目を眩ませた。
突き刺すような強烈な光が、闇になれていた僕の網膜を焼きつけた。あまりの眩しさに僕はとっさに目を瞑ってしまう。目が光に慣れていないのである。
僕はなじませるように何度かパチパチと瞼を瞬かせた。
やがてぼやけていた像がゆっくりと形を整えていく。そして――
「……うわあ……」
僕は知らず知らずのうちに口を開け、感嘆の声を漏らしていた。感動で心が震える感触というのを初めて知った。
まず一番はじめにその明るさに目を奪われた。
太陽の光。眩しすぎるほどの光が空から降り注いでいる。それらは熱を帯びながら、周囲の全てを照らし、輝かせていた。
大気中の“塵のようなモノ”がその光を浴びて輝き、周囲は乱反射したように白く輝いていた。もちろんそれらは比較的普通の人間には見えない輝きなのだが、僕の瞳はその光景の全てを捉えていた。
幻想的。そんな言葉がしっくりと来る。
光にはこれだけ美しさを感じさせる力がある。僕はその光の無い世界で五年を過ごし、そしてもう一度この光を見る事ができた。それだけでも感動する余地はあるというものだ。
いまだに光で痛みを感じさせる左目から涙が溢れていた。太陽を直視したわけではないが、光に慣れていない目にはこの明るさは刺激が強すぎる。僕はあふれ出る涙を軽く拭いながら、痛みに耐えつつ周りを見回した。
見渡す限りの木々、そして草。少しだけ道が開けた場所が一つだけあるが、それ以外の場所ではうっそうとした森が続いている。どこまで続いているのかはわからないが、準備もなしにこの森に入れば、遭難するであろう事は容易に予想できた。おそらく、この施設を隠す目的と、奴隷を閉じ込める目的を持っているのだろう。
その唯一の開けた道には一台の大き目の馬車が止められていた。
金色の装飾がなされており、一目で高貴な人の乗るものだとわかる馬車だ。心なしか馬も良いもののように見えるから不思議である。
ご主人様はその馬車に近づいた。
やはりあの馬車はご主人様のもののようだ。馬車から一人の男性が現れる。
「お待ちしておりました」
「すぐ出せるわね?」
「もちろんでございます」
黒い服を着込んだ身なりの良いその男は、ご主人様の言葉を聞いて恭しく頭を垂れた。
そして頭を上げた時、僕を一瞬だけ睨んだ気がした。だがすぐに表情を改めてしまう。あまりにも一瞬すぎて僕は少しだけ困惑してしまう。
(……今一瞬だけど睨まれたよね……?)
睨まれるような事をした覚えは勿論ない。が、自分が奴隷である事を考えれば、男の対応にも納得はできる。
「では乗りますわ。来なさい、プリムラ」
「……はい」
ご主人様に連れられ、馬車の中へと付いていく。
男はご主人様が馬車の入口へと近づくと、頭を垂れながら馬車の扉を開けた。ご主人様はその扉から中へと入っていく。
僕もそれに続いて中へと入る。
「……チッ。何故お嬢様はお前のような奴隷など……」
と、男の傍を通ったその時、男が小さな声でそう呟いた。
独り言のようなつぶやきであったが、男はお間違いなく僕に聞こえるように呟いている。現に、彼は今も僕の事をキッと睨み付けていた。
そんな彼に何かを言った方がいいかと考え――――ご主人様が僕の事を待っている事に気がついて中へと急いだ。
僕はそのまま入口から入ってご主人様の対面の席へと座る。それと同時にバタリと――やや強めに――馬車の扉が閉じられた。
それから少しして、男の掛け声と共に馬車がゆっくりと動き始めた。
ガラガラと音を立てながら、歩くような速度で進む。乗り心地は思ったよりも悪くない。時折上下に跳ねたり、車輪の音が煩い程度しか問題はない。
「それにしても、残念ですわ」
「…………?」
唐突なご主人様の言葉に僕は首を傾げた。
ご主人様は間違いなく僕の顔を見ているし、僕に語り掛けた言葉である事は間違いない。
しかし、僕にはご主人様が何について語っているのかが分からなかった。
「ふふ。私はあなたのその姿をとても気に入っているのだけれど――」
ご主人様が腰を浮かせた。
前かがみになり、僕の顔へと顔を近づけてくる。綺麗な顔に妖艶な表情が鼻先へと迫る。さらさらとした髪が僕の身体の上に掛かり、シルクのような滑らかさにドキドキと心が高鳴った。
ご主人様の手がゆっくりと僕の顔を触る。
ゆっくりと。
僕の包帯に覆われた、右目に。
「――――いっ!!」
「この傷だけはちょっと許せませんわね。あの男に聞いたら、どこぞの騎士様にくれてやったと喚いていたのだけれど……」
――ぐちゅ
「あ゛ぐぅ!? い、痛い……です……!」
「……あら? これは……?」
「あ……あの」
「ごめんなさい。優しく触ったつもりなのだけれど、痛かったかしら?」
「は……はい……」
「そう……いいわ。そっちの目はその内治してもらうとしましょう。それに……」
右目を触っていた手が動き、今度は頭の角を触った。
「……あぅ……」
モミモミと手が角を揉む。痛みではない。いや、それ以上に、予想外の気持ちよさに僕はすごく恥ずかしくなってしまう。
僕はご主人様の顔を直視する事が出来ず、ちょっとだけ俯いてしまう。
何故だか顔から火が出るのではないかと疑ってしまいそうなほど顔が熱かった。
「ふふ。プリムラ。あなたはとても可愛いですわ……。そんなあなたはもう私の“所有物”です。分かっていますね?」
そう笑顔で問いかけてくるご主人様。
言葉の真意は僕には分からなかった。でも、僕はご主人様が何を求めているのかは何となく伝わった。
だから、僕はその言葉に――
「はいっ! ご主人様!」
――笑顔を浮かべながら返事を返した。
遅くなってすいません……。
一応奴隷商人の変な態度や言葉の理由はあります。それは一章の終わりくらいにわかると思います。